黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(122) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等 3/5

 

バイロンの異母姉のオーガスタ・リーはバイロン社交界の寵児だった頃から王家の侍女として王族の人々の相談相手となる大人しい賢女として高い評価を得ていた。バイロンが亡くなる数年前に新国王が即位し、その後王族の人々の顔ぶれが代わり、オーガスタ自身、多くの子供を出産して育てながら宮廷に出仕する生活に体力的な限界を感じることを王家の者に仄めかしたところ、王室は喜んで彼女が出仕するのに便利なように王宮に近接する住宅を彼女に貸与した。こうしてオーガスタは年老いても王族の人々の話し相手を務め、また大勢の子女とさらに大勢の孫たちの頻繁な訪問を受ける充実した人生を送った。第ニ話 優しき姉よ に登場する。

 

メアリー・ゴッドウィン・シェリーは夫パーシー・ビッシュ・シェリーの死後、同時に寡婦となったエドワード・ウィリアムズの妻ジェーンやリー・ハント一家と共にジェノバに引っ越したバイロンの後を追ってバイロンの近くに居を定め、バイロンの作品の筆写などを手伝った。リー・ハントが短命に終わった雑誌「リベラル」を創刊してバイロンの「審判の幻影」を公にしたのもジェノバにおいてである。メアリーはバイロンとピエトロ・ガンバがギリシアに赴いた後、ジェーンやリー・ハントらと共にイギリスに戻り、たった一人生き残った息子パーシー・フローレンスを育てる傍ら、パーシー・ビッシュ・シェリーの遺稿の整理と編集を手がけ、自分でも数編の小説を書いた。パーシー・ビッシュ・シェリーが亡くなった際に二十五歳だったメアリーはその後再婚せず、一人息子のパーシー・フローレンスをバイロンと同じハロー校からケンブリッジ大学に進学させ、その息子がパーシー・ビッシュ・シェリーの父ティモシー・シェリーの爵位と財産を受け継ぎ、結婚して幸福な家庭を築くのを見届け、一八五一年に五十三歳で没した。第一話 レマン湖の月 と 第八話 暴風雨 に登場する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC?wprov=sfti1

 

キャロライン・ラムバイロンが亡くなった翌年の一八二五年にウィリアム・ラムと正式に離別し、その後、零落した生活を送るが、一八二八年、自閉症だった息子の後を追うようにしてウィリアム・ラムの屋敷の中で亡くなった。享年四十三歳だった。第七話 レディー・キャロライン  に登場する。


ウィリアム・ラムは妻キャロラインとバイロンとのスキャンダルがあった一八一二年に、「信教の自由や工場設備打ち毀しに対する同情的かつ急進的な考え方」を表向きの理由として衆議院での議席を失った。しかし、後にメルボルン子爵の称号を継いで貴族院議員として政界に復帰した。一八二五年には支持者の意見を聞き入れて愛する妻キャロラインと離別、一八三○年にイギリス政府内閣の内相、一八三四年に短期間首相を務めた後、一八三五年から一八四一年までの六年間に渡ってビクトリア女王の最初の首相として敏腕を振い、国内外におけるイギリスの隆盛と安定とを築いた。第七話 レディー・キャロライン に登場する。

ウィリアム・ラム (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%A0_(%E7%AC%AC2%E4%BB%A3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%AD%90%E7%88%B5)?wprov=sfti1

 

クレア・クレアモントはフィレンツェ、ウィーン、ロシア、ドレスデンなどで裕福なイギリス系住民の家庭教師を務め、一生を独身で通した。第一話 レマン湖の月 に登場する。

 

父と共に生まれ故郷のラベンナに戻ったテレサ・グイッチオーリ伯爵夫人(旧姓ガンバ)はバイロンの死後しばらくして、別れた夫であるアレッサンドロ・グイッチオーリ伯爵と元の鞘に収まった。年配の伯爵の死後、しばらくは寡婦だったが、四十七歳の時に別の貴族と結婚し、社交サロンを主催したりバイロンの思い出を執筆したりして残りの一生を過ごした。第八話 暴風雨に登場する。


一八二○年にナポリウィーン体制に対する最初の烽火を上げたカルボナリ運動は一八三○年までに数々の謀略によってオーストリアによるイタリア支配を揺るがそうとしたが、全ての努力は灰塵に帰し、替わって一八三三年にカルボナリ党出身のジュゼッペ・マッツィーニが組織した青年イタリア党がサヴォイで烽火を上げた。次いで、一八四八年のフランス二月革命とこれに次ぐウィーン体制の崩壊を受け、青年イタリア党が中心となって憲法制定とオーストリア勢力追放を目的とした戦いが開始された。オーストリア勢力はその後漸次イタリアから締め出され、一八六六年には青年イタリア党の分派「赤シャツ党」を率いるガリバルディーが南イタリアを解放して現在のイタリアは完全に独立と統一を達成した。

イタリア統一運動 (ウィキペディア)


ピエトロ・ガンバのその後については寡聞にして何もわからない。しかし、一八○三年に生まれ、バイロンが人生の最後で弟に対するような信頼と愛情を寄せ、バイロンの最期を看取ったピエトロが1830年ギリシア独立だけではなく、1871年のイタリア統一の輝かしい瞬間まで健在だったことを願わずにはいられない。第八話 暴風雨最終話 ギリシャに死す に登場する。

 

絶対王制下で議会の権威を拡充し、イギリスのみならず現代の世界各国の議会制度の模範を築いたイギリス進歩(ホイッグ)党は、十九世紀半ば頃までは数々の社会改革を推し進め、メルボルン子爵ウィリアム・ラムのような優れた政治家を輩出したが、十九世紀後半に至り、社会の変化に対応した支持層を獲得できないまま後のイギリス労働党の母体となる修正社会主義と現在のイギリス保守党の母体である王党(トーリー)派の両方に吸収され、あるいは、修正社会主義イギリス労働党の動きに取って替わられて自然消滅した。


イギリスに搬送されたバイロンの遺骸は約一世紀半の間、バイロンが少年時代を過ごした先祖代々の土地、ノッティンガムシャーのニューステッドに葬られていたが、一九六八年にバイロンの棺はロンドンのウェストミンスター寺院内にある「詩人の区画」に移された。バイロンの棺をこの区画に移すべきであるという意見はそれより以前からあり、一九六八年以前には少なくとも一九二四年にそのような提案が公になされていた。しかし、バイロンの棺が死後一世紀半もの間この区画に移されなかった理由は、彼の作品の中で辛らつな風刺の対象となった人々が完全に過去に属するのをバイロンの作品の愛好者たちが辛抱強く待ったためか、あるいは、島国イギリスの人々にとって、バイロンがあまりに大陸的で、あまりに世界市民的だったせいかもしれない。

 

(読書ルームII(123) に続く)

【読書ルームII(121) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等 2/5

 

ピエトロ・ガンバは涙でかき曇る目で父ガンバ伯爵に宛てて手紙を書き、バイロンの遺体をイギリスに搬送する費用負担を要請した。手紙の中でピエトロはこう書いた。
バイロン卿はヨーロッパ市民であり、世界市民(コスモポリタン)でした。しかし、バイロン卿はヨーロッパ市民そして世界市民である以前にイギリス人でした。僕たちは他人をよりよく理解する前に自分をよりよく理解しなければなりません。バイロン卿は優れたイギリス人であることによって優れたヨーロッパ市民、そしてすぐれた世界市民たりえたのだと思います。その証拠に彼は死ぬまで英語で詩を考え続けました。イギリスの議会政治を良く理解していたからこそ、彼は外国人でありながらイタリア統一運動やギリシア独立運動に参加することができたのです。どうか、彼の亡骸を故国イギリスに帰すことができるよう、お父様のご協力をお願いします。cv[3]」


バイロンの遺体に防腐処置が施されている間、ピエトロはジェノバで出会い簡単な会話しか交わすことのなかったバイロンの親友ホブハウスに宛ててバイロンの遺体到着後を依頼する手紙を書いた。言葉のことは構わず、ピエトロはイタリア語で自分の心情を吐露した。バイロンの姉オーガスタに簡単な英語で手紙を書くこともピエトロは忘れなかった。


一八二四年四月二十二日、折からの嵐でバイロンの葬儀は一日延長されたが、バイロン軍団の屈強なギリシア人たちによって担がれたバイロンの棺に多くのギリシア人とギリシア独立を願う人々が別れを告げた。


一八二四年五月二十五日、バイロンの死を悼む弔砲が轟く中、バイロンの棺とイギリスに帰るフレッチャー、付き添いのティタ・ファルシエリ、そしてピエトロによって丁寧に整理されたバイロンの遺品を乗せた船は地中海、そして大西洋に向けて出帆した。ピエトロ・ガンバは別の船でイギリスのリバプールで下船してリバプールからロンドンまで、バイロンが辿った道を確かめることに決めていた。兄であり師であり、姉が愛したバイロンの棺を乗せた船を見つめながらピエトロ・ガンバはまだ見ぬ霧の国イギリスと言葉が異なる義兄ホブハウスとの再会に想いを馳せた。ピエトロは思った。
バイロン卿の詩句を胸に、バイロン卿の遺志を継いで行動すれば、バイロン卿は僕らの中で生きているのと同じだ。」


 


付記

当初から攻撃目標も運動の中心も定かでなかったギリシア独立戦争バイロンの死後まもなく、トルコのスルタンの要請によってエジプトから大軍を率いて赴いたモハメッド・アリ・パチャによっていとも簡単に鎮圧された。しかしその後、一八二七年に英仏露の連合艦隊がモハメッド・アリ・パチャの艦隊をナバリノの海戦で破って戦局をギリシア独立派に有利に導き、一八三○年、ロンドン条約によって終に現在のギリシアの南半分がトルコの支配から独立することになった。ギリシア独立の背景に、ギリシア独立支援基金を設立したホブハウスら、イギリスの人々の熱い努力とギリシア独立を支援する西欧世界での世論の盛り上がりがあったことは確実である。

 

バイロン夫人アン・イザベラ・ノエル・ミルバンク(通称アナベラ・ミルバンク)はその後二度と結婚せず、慈善事業と娘エイダの訓育に没頭し、一八六○年に六十七歳でこの世を去った。彼女はバイロンとの別離については亡くなるまで一切を語らなかった。バイロン夫人は若い頃から知性を誇っていた反面、その容姿にはとりわけ人目を引くところはなかったようである。バイロンとの別離後は急速に老け込んで亡くなるまで実際の年齢よりも遥かに年老いて見えたという。彼女の思惑については様々な憶測がなされ、アメリカ人の作家で「アンクル・トムの小屋」を執筆したストウ夫人などが彼女についてのエッセイを執筆している。なお、バイロンバイロン夫人の姓と名の間に「ノエル」というミドル名が記されることがあるが、これはバイロン夫人の母方の伯父であるノエル子爵が爵位を継げる男児を残すことなくバイロン夫人の父であるミルバンク男爵に自分の死後に莫大な財産とともに爵位を引き継いで欲しいと遺言を残したからである。バイロンとアナベラは法律上は生涯夫婦だったため、バイロンは正式にはノエル子爵となってイタリア在住中にアナベラの母が死去した後は同子爵家の財産のかなりの部分を自由に使えるようになった。第ニ話 優しき姉よ の主人公。


バイロンの娘エイダは高名な父の影響と教育熱心な母の努力によって知的に育ったが、思春期には父母をめぐる複雑な思いから神経症に悩まされた。彼女は幼少期から両親から受け継いだ知性と父に生き写しの輝く美貌を持ち合わせていた。母アナベラはエイダが詩に関心を持つことを極端に嫌がったがエイダは数学に詩を感じ、科学技術に深い関心を寄せながら成人し、十九歳の時にラブレース伯爵と結婚、三児の母となった後も研究を続け、とりわけ分析機(Analytical Engine)と呼ばれる現在のコンピューターの前身に大きな関心を抱いた。人間の頭脳に取って替わる分析機の完成には、機械そのものの開発と並んで、機械に動きを指示するしくみ、すなわちプログラミングの開発が並行して行われなければならないという彼女の主張は、現在のコンピューター・サイエンスの基礎をなしている。エイダは一八五二年に父バイロンの享年とほぼ同じ三十七歳の若さで亡くなり、生前からの遺言通り、父の墓の隣に葬られた。

ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング (ウィキペディア)


ジョン・カム・ホブハウスは親友バイロンの遺志を継いで進歩(ホイッグ)党の政治家として数々の社会改革を手がけ、自らが所有する領地や生産設備の生産性を高めて小作人や従業員の福利厚生に手厚く気を配り、それらの功績によって男爵の称号を授与された。MP(国会議員)にも複数回選出され、進歩(ホイッグ)党内外の多くの政治家から尊敬を集めた。第三話 ため息橋にて第四話 青い空、青い海第六話 若き貴公子第七話 レディー・キャロライン に登場する。バイロンとはバイロンが17歳でケンブリッジ大学に入学して以来、政治思想や文学を共にする友人だった。

 

(読書ルームII(122) に続く)

 

【読書ルームII(120) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等  1/5)

 

「閣下(シニョーリ)、気がつかれましたか?」
ピエトロ・ガンバはバイロンの横でかがみ込んで熱でやせこけたバイロンに顔を近づけた。バイロンとピエトロ・ガンバは数名の従者と共通の友人トレローニーと共に一八二三年の暮れにイタリアを立ち、一八二一年に始まったギリシア独立運動に参加していた。ギリシアオスマントルコ支配下から独立させるための運動とは言え、独立軍が戦う相手はすでに実質的に行政権を失っているオスマントルコではなかった、独立軍は得体の知れない土着のイスラム教徒の豪族などを相手にせざるを得ず、独立運動の先行きは全く不透明だった。


ギリシアのミソロンギでバイロンは熱病にかかり、臥せっていた。バイロンの寝室に入ることを許されているのはピエトロ・ガンバ、元海賊のトレローニー、イタリア人の従者ティタ・ファルシエリとイギリス人の従者ウィリアム・フレッチャーの四人だけだった。ピエトロがバイロンに言った。
ギリシア人のヘボ医者が、僕らが止めているのに瀉血が必要だといって蛭を閣下(シニョーリ)のこめかみにあてて、出血があまりひどかったので失神されたんです。覚えておられますか?」
バイロンは無言のままあたりを見回した。
「まったくここの医者ときたら、病人に水を飲ませるなとか、僕らの常識では考えられないことを指示するんです。僕は閣下(シニョーリ)に来ていただいたことを本当に後悔しています。」
バイロンは黙ってピエトロ・ガンバの顔を見つめた。ピエトロは続けた。
「閣下(シニョーリ)、これは最初から僕だけの問題でした。僕がいたから父と姉はラベンナとピサを追われたんです。僕がギリシアに来てから父が改めてローマ法王に懇願したら、どうやらラベンナに戻れる見通しになったようです。」
バイロンは黙って首を横に振った。
「閣下はピサからジェノバに移ったばかりの頃にも病気をされました。新しい土地で軍隊の生活をするのは無茶だということはわかっていたのに・・・。」
バイロンは静かに言った。
「私がイタリアから去ったから、伯爵とテレサがラベンナに戻れるようになったんだ。それに私にはここに来なければならない理由があった。」
ピエトロ・ガンバは水差しからコップに水を注し、バイロンに与えた。水を飲むとバイロンは言った。
「夢を見た。なぜここにいるのか、そればかり考えていたが、夢がその答えだった。ジュネーブ湖のほとりにいた。シェリーに出会った。なぜだ。妻に捨てられたから・・・。放浪してヴェニスに到着し、ホブハウスに慰められ、テレサに会い、君に会い、ラベンナに、ピサに、そしてジェノバに来た。」
「そうです。そして今、閣下はギリシアのミソロンギにいらっしゃいます。」
「なぜここに来たのか考えた。思い出した。イギリスでの楽しかったこと、苦しかったこと。若い頃の冒険のこと、学生時代のこと、子供の頃のこと・・・。」

「閣下(シニョーリ)、・・・。」と言ったきり、ピエトロは何を続けて言えばいいのかわからなかった。バイロンは続けた。
「今までで一番嬉しかったことは、イギリスでホブハウスがギリシア独立支援基金を設立してくれたこと・・・。一番悲しかったことは、シェリーとアレグラの死だった。残念なのはネルソンciii[1]のように、勝利を知ってから死ねないことだ。」
「閣下(シニョーリ)、そんなことをおっしゃらずに、どうか元気になってください。すぐには無理かもしれませんが、ギリシアはきっと独立します。イタリアもきっと一つになります。イタリアで姉が待っています。閣下の『ドン・ジュアン』はまだ十六巻までしか完成していないじゃないですか。ダンテが『神曲(ディヴィノ・コメディア)』百巻を三韻句法(テルツァリマ)で書いたのなら、閣下は八韻句法(オッタヴァリマ)で『人曲(ウマノ・コメディア)』というべき『ドン・ジュアン』百巻を書かなくてはなりません。閣下のジュアンはモーツアルトのオペラのドン・ジョバンニみたいな老獪なプレイボーイにならなくてはなりません。」
バイロンは力なく微笑んだ。そして言った。
「もうたくさんだ。私の英雄を休ませてあげたい。」
バイロンはここまではイタリア語で会話していた。しかし、自分を見つめているピエトロから目をそらすと英語で呟いた。
「明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)、
最後の一呼吸に至るまで、日々この単調な歩調で歩む。
昨日までには、ただ道化師が、照明を浴びて立っているだけ。
塵にまみれた死に至る道。消えろ、消えろ。はかない蝋燭!
人の命は歩む影、つたない役者。
舞台の上で威張ったり、不平を言ったり・・・。
でも、もう何も聞こえない。
道化役者の語りの中の、やかましい台詞や立ち回り、
全てに何も意味がない。civ[2]」


か細い声で英語の詩句を口ずさむバイロンの顔に、ピエトロは耳をつけるようにして内容を聞き取ろうとした。しかしピエトロには最初の文句しか理解することができなかった。そこで、バイロンが沈黙した時、ピエトロは意味が理解できた最初の文句を繰り返した。
「明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)。」
バイロンはピエトロを見つめなおして言った。
「ピエトロ、それでいいんだ。明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)。君はまだ若いんだから、私が見ることができなかったいい日を見ることがあるだろう。明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)。Io lascio qualche cosa di caro nel mondo (この世の素晴らしさを私に教えてくれたものがあったよ。)」
バイロンは瞑目した。そして二度と再び目を覚ますことがなかった。

 

CIV(2)  シェイクスピアマクベス」 第五幕第五場より

 

(読書ルームII(121)  に続く)

【読書ルームII(119) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)5/5

 

アバディーンの街並みと仮住まいの掘立て小屋が見えるようになる前にジョージは前方のはるかかなたからこちらに向かって歩いている女の姿を見た。アグネスの夫だという騎手の男もほとんど同時にその姿を見たようだった。
「アグネスだ。」と男は言い、馬の歩調を速めた。アグネスは手を振りながら夫とジョージが乗った馬に駆け寄ってきた。アグネスの夫は馬から下り、喜びを隠し切れないと言った様子でアグネスと抱き合ってから二人同時に馬上のジョージを見上げた。
「まあ、坊ちゃん。みんな本当に心配したんですよ。神様のご加護で無事だったのね。聖書をしっかり抱えて・・・。」とアグネスは言い、エプロンの端で涙を拭った。
アグネスの若い夫は、馬にまたがったジョージはそのままにしてアグネスを馬の上に横座りに座らせ、自分は馬の前に廻した手綱を取って馬を引いた。帰りの道すがら、アグネスはバイロン夫人が受け取ったばかりの嬉しい知らせについてジョージに話した。一旦は援助を拒否したバイロン夫人の親戚の一人が、亡くなったばかりのジョージの大伯父で第五代バイロン男爵の資産について調べる手立てを持っていた。第五代バイロン男爵のいい加減な領地管理のせいで、男爵家の資産はかなり目減りしているものの、いまだ相当の価値があり、ジョージが第五代バイロン男爵の甥の子供だと証明することができ、名乗りを揚げた際に小作人たちや館の使用人たち、そして周囲の人々がその事実を受け入れるならばジョージは必ずや小公子(リトル・ロード)としてこれらの人々や領地に君臨する第六代バイロン男爵となることができると手紙の主は伝えた。そしてバイロン男爵家の資産と比べれば微々たるスコットランドからイングランドのニューステッドまでの旅費を貸す用意があるとその親戚はバイロン夫人に告げた。


それからの数日間、街の銀行に届けられた金を取りに行ったり、小屋の持ち主に申し訳ばかりの宿泊料を支払ったり、新しく子守りとしてイングランドに一緒に行くことになったアグネスの妹のメイに会ったりと、ジョージと母は目まぐるしい日を送った。そしてジョージと母、新しい子守り女のメイがイングランドに向けて出立する日が来た。アグネスは夫と一緒に三人を見送りにきた。アグネスは泣いていた。馬車が走り出し、ジョージはアグネスが「坊ちゃんに神様のご加護がありますように!」と叫ぶのを聞いた。


ジョージと母、そしてメイを乗せた馬車はひた走りに走った。グラスゴーを通った時にジョージは今までに見たことのない大きな都市の街並みに目を奪われたが、母はこの街など何でもないとジョージに言った。
「あなたはこれから、ロンドンの学校に行くかもしれないし、もっと素晴らしい外国の街を見ることができるかもしれません。」
馬車はスコットランドから逃れるかのようにひた走りに走り、三人は何度かみすぼらしい宿屋に泊まり、そして終に馬車は石造りの大きな建物へと通じるいかめしい鉄の門の前に止まった。
石造りの建物の中から人が出てくるのを見て母はジョージに言った。「メイの後ろに隠れなさい。」そして門を出て馬車の脇にまでやってきた男に向かって母はこう言った。
バイロン男爵にお目通りを願いたいのですが?」
バイロン男爵はお亡くなりになりました。」
「でも、後継ぎの方がいらっしゃるでしょう。」
「後継ぎになられるのはスコットランドに住んでいる十歳の男の子でまだこちらには到着されていません。」
ジョージとメイのほうを振り返った母は満面に笑みを浮かべていた。そしてまた馬車の窓に顔を出すと朗らかな声で叫んだ。
「ここにいるのが第六代バイロン男爵です。たった今、スコットランドから到着しました。」
ジョージと母、そしてメイは石造りの建物の中から繰り出してきた大勢の男女の使用人たちに迎えられた。こうしてジョージの小公子(リトル・ロード)としての新しい生活が始まった。

(最終話 ギリシアに死す(1824年) に続く)

 

【読書ルームII(118) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)4 /5

 

ジョージの母は日に日にむずかしくなっていった。香水屋に手紙を取りに行って戻った後、鬱々として藁布団の上に身を横たえて何もしないでいることも多くなった。ある日、母はとうとう癇癪を起こしてジョージに向かって叫んだ。
「この悪魔の子!」
ジョージは心を決めた。右足が曲がって生まれたことも、「小公子(リトル・ロード)」なる身分を得たことも、全てはジョージには何の責任もなく、天から降ってわいたことだった。ジョージにとっては「ちんば(レ イム)ロード」と言ってからかわれることも、わずかばかりの持ち物に加えて母の自尊心を奪ったと悪魔呼ばわりされることも、すべてが不当なことだった。その夜、母が寝入ったのを見届けるとジョージは小屋を出た。


月が明るい夜だった。ジョージは足が赴くまま、びっこを引きながら街とは反対側に向かって荒野を歩んだ。母が寝ている小屋が見えなくなるまで歩くとさすがに疲れて眠気が襲ってきた。ジョージは柔らかな草地を選んで聖書を枕にして眠った。


朝、目が覚めると草地につけていた体の半分がしっとりと朝露で濡れていた。慌てて起き上がって聖書を手に取ると、下になっていたほうの表紙がやはり濡れていてページの端が湿ってでこぼこになっていた。しかし、太陽が昇れば全て乾くだろうとジョージは思い、荒野を前進することにした。朝食になるものを持ってこなかったのでひもじかった。しかし、イエス・キリストもこれに耐えたのだとジョージは考え、勇気を奮った。


馬に乗った二人連れの男とすれ違い、一人が馬を止めてジョージに尋ねた。
「坊や、どこに行くの?」

ジョージは黙って前方を指差した。二人の男は腑に落ちない様子でそのまま馬を駆って去っていった。新約聖書の四つの福音書をくまなく読んだジョージはこの先待ち構えているのが悪魔の誘惑、ヨハネによる洗礼、福音の伝道、そして十字架の上での死だということを知っていた。
「僕はこの世の領地なんていらない。福音を伝えたい。そして天国に行きたい。でも、僕が伝えられる福音とは一体何なのだろう?」
ひもじい腹を抱えながらジョージは自分が伝えなければならない福音のことについてばかり考えた。福音さえ伝えられれば、十字架にかけられることなどは怖くないとジョージは思った。悪魔の誘惑などは簡単にかわすことができる自信がジョージにはあった。


太陽が高く上ったころ、馬に乗った一人の若い男が後ろから全速力で駆けより、びっこを引きながら歩いているジョージの前で馬を止めて言った。
「アグネスの亭主だ。アグネスに言われて君を連れにきた。」こう言いながら男はジョージのほうに馬を進め、ジョージに向かって手を差し伸べた。
「嘘だ。僕は行かない。」とジョージは突っぱねた。
「何言っているんだ。君は小公子(リトル・ロード)になったんだ。お母さんもお屋敷の大勢の召使いたちもみんなが君を待っているんだぞ。」
「僕は領地や召使いなんかはいらない。」
「一体、どうするつもりだったんだ。本の他には何も持たずに、町外れに向かって歩くなんて、気が狂ったとしか思えない。」
「僕は狂ってなんかいない。」
「狂っていないのなら、さあ、馬にのってアバディーンに帰ろう。お母さんとアグネスとメイが待っている。」
「嫌だ。」
「強情な子だ。じゃあいい。ここでこうして睨みあっていよう。そのうちに手分けして君を探しているお母さんかアグネスかメイのうち誰かが馬の上の僕を見つけるだろう。」
男はそのまま黙った。ジョージもそれ以上は何も言葉を発することができなかった。腹のひもじさに加えて咽喉も渇いていた。
「坊や、水を飲むか?」と言って男は水筒を投げ下ろした。ジョージは頑なに「いらない。」と言った。頭や首筋に容赦なく照りつけるスコットランドの夏の太陽を感じた頃、ジョージは立っていられなくなり、草の上に腰を下ろした。男は馬から下り、水筒を拾うと蓋を開けてジョージを抱きかかえるようにして水を飲ませた。水は冷たく甘かった。
「さあ、ジョージ。お母さんとどんな面白くないことがあったのか知らないが、お母さんは君のことを本当に心配している。アグネスもだ。だから、一緒に帰ろう。」と男は言った。
ジョージはこれ以上逆らうことはできなかった。男はジョージを軽々と抱き上げると馬のあぶみにジョージの片足をかけさせ、ジョージの腰を押し上げて馬にまたがらせた。そして自分も馬に乗ると、アバディーンの街を目指して並足で馬を進め始めた。

(読書ルームII(119)に続く)

 

【読書ルームII(117) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)3/5

 

「お帰りなさい。」とジョージとアグネスが言うと母は黙って小屋の中に入り、藁布団の上に座ってうなだれた。
「昨日の晩、思い当たるところには全部手紙を書いたと思ったけれど、二、三思いついたところがあるから手紙を書いてみます。」と母は言った。
「奥様、お昼ごはんを食べてから少し横になられたらいかがですか?とても疲れていらっしゃるようです。」とアグネスが言った。
「ええ、そうします。でもこんなところでいつまでも暮らすわけにはいかないし、気ばかり焦って・・・。」と母は苛立っていた。
「奥様、手紙の中には男爵について何か知っていることを教えてほしいとか、男爵の領地を見にいく機会があったらどんな様子なのか教えてほしいとか、そういった依頼もされたんでしょう?ハンソンさんによれば相当の領地があるんでしょう?」
「ええ、ハンソンはそう言っていました。」
「じゃあ、ジョージはお金持ちになれるでしょうね。」
「そうだといいけれど・・・。」

 

三人は黙って食事をした。アグネスと二人きりの間には聖書に関する楽しい会話がはずんだのに、母が帰ってくるなりジョージには雰囲気が重苦しく感じられた。
「私はこの子のために服を売り、宝石や家具を売り、今度は自尊心まで売っているようなものじゃありませんか・・・。この片輪の子のために・・・。この子が領地を手に入れることができないなんてことになったら、私たちは一生この小屋から出られないかもしれないわ。」と母が呟いた。母の言葉は同年輩の子供たちから投げられるどんな意地悪な言葉よりもジョージの心を深くえぐった。食事が終わるとアグネスは結婚したばかりの夫が待っている家へ帰っていった。


ジョージは午後になっても夢中で聖書のサミュエル記を読み続けたが、本から目を上げると苛立っている母が目に入り、母と一緒にいるのがわずらわしくなってきた。未来を楽天的に信じるアグネスと一緒にいるほうがよかった。ジョージはアグネスよりも母のほうが聖書の内容をよく知っているような気がしたが、母に聖書の内容について尋ねることは自分の密かな関心や知識を母に知らせることになるような気がしたので母には聖書についての質問はしないことにした。


それから数日の間、アグネスは朝になるとパンとミルクを持ってやってきて昼前になると母が昼食と夕食を買いに出かけ、母が戻ってきて三人で昼食を済ますとアグネスは帰っていった。ジョージは相変わらず聖書に没頭していた。手紙を投函してから約一週間ほどすると、今まで二階を借りて住んでいた香水屋に手紙の返事が届いていないかどうか見に行くと言って母は今までよりも長く、ジョージとアグネスを二人っきりにするようにした。最初の何日かは母は手ぶらで帰ってきた。それから、落胆して帰ってくるようになった。ジョージと母が香水屋の二階を出て街はずれの掘っ立て小屋に移ってから、スコットランドに遅い夏がやってきた。ジョージは母に、アグネスの付き添いで川に泳ぎに行ってもいいかと尋ねた。母は構わないと言った。


ジョージとアグネスが川に着くと、川で水遊びに興じていた子供たちの中でジョージを知っている何人かがジョージを指差して言った。
「ロード、ロード、ちんば(レ イム)のロード!」
「僕はちんば(レ イム)のロードじゃないぞ、小公子(リトル・ロード)だ!」とジョージは言い返した。
「ロード、ロード、ちんば(レ イム)のロード!」と子供たちはジョージを指差して唱え続けた。ジョージには他の子供たちとは境遇が変わった自分をうらやんでこのように自分をからかうのだということがわかっていた。だから、ただの「ちんば(レイム)!」と言ってからかわれた今までとは異なり、ジョージは「ぼくは敵から逃げないようにとちんば(レイムネス)を授かったんだ!」と言い返すことも、他の子供たちに泳ぎを見せびらかすことも、しかえしに水しぶきを浴びせることもできなかった。ジョージはしかたなく、アグネスを誘ってジョージをはやしたてている子供たちから離れた川の深いよどみにまで行き、冷たい水に体を浸した。その時、ジョージの頭にひらめいたものがあった。
「ロードというのはこの世に領地を持っている貴族のことじゃない。神様のことなんだ。」
ジョージは聖書の中でしばしば神様が「ロード」と呼ばれているのを知っていたが、その時まで「神」を意味する「ロード」とこれからの自分の身分である「小公子(リトル・ロード)」を結びつけて考えてみたことはなかった。
「人間の貴族がちんば(レイム)でもおかしくも何ともないけれどあの子供たちは僕が『ちんばの神様(レイム・ロード)』になったと言って騒いでいるんだ。僕は神様(ロード)の子だ。」
その日、心ゆくまで泳ぎを楽しみ、水泳の腕が昨年から全く変わっていないことを確かめたジョージは帰りがけにアグネスに言った。
「僕はもう、ここでは泳がないことにしたよ。」

翌日からジョージは今までよりも一層熱心に聖書を読み始めた。サミュエル記は上下巻ともにとっくの昔に読破していた。ジョージは今までつまらないと決めつけていた新約聖書も真剣に読み始めた。


ある日の夕暮れ時、母が夕食を整えに外出し、遅くなってから帰りたくないと言うアグネスが小屋を去った後では小屋から出てはいけないとジョージは言われていたが、陽が傾きかけた荒野をジョージは聖書を抱えてそぞろ歩いた。
ダビデは巨人のゴリアテを石を投げて倒した。タビデが巨人を倒すのに脚は必要なかった。ダビデゴリアテから逃げなかった。真っ直ぐな脚は逃げるためだけに必要なんだ。」ジョージはこう思い、聖書を側の岩の上に置くと、側にあった大きな石を抱えて力まかせに投げた。
「僕はダビデの子孫で神様(ロード)の子だ。」
ジョージは新約聖書のマタイ伝の冒頭のアブラハムからダビデに至る系譜とダビデからイエス・キリストに至る系譜をそらんじていた。そしてイエス・キリストが福音の説教や病人の治癒で活躍する以前、四十日間に渡って荒野をさまよい、粗食だけに耐え、悪魔の誘惑にうち勝ったという新約聖書の逸話もすでに繰り返し読んでいた。
「そして今、僕は荒野のはずれにいる。」とジョージは思った。

(読書ルームII(118)に続く)

 

【読書ルームII(116) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)2/5

 

翌朝、目が覚めた時には陽が高く上っていた。学校に行かなくてよくなってから数日間は目まぐるしさもてつだってジョージは学校を恋しいとは思わなかった。しかし、町外れの小屋に落ち着き、別れた友達のことが恋しくなってきたのでジョージは母に尋ねた。
「新しい学校にはここから行くの?」
「いいえ、これから旅をして、住むことになる場所で学校に行くのよ。」
ジョージはこの小屋が落ち着き場所ではないとわかってまた不安に捕われた。自分の近い未来で何が展開していくのか全く見当がつかなかった。トランクの中に忍ばせてきた数少ない玩具も友達がいなければ価値がなかった。しばらくすると、アグネスがパンと搾りたてのミルクが入った水差しを持って現われた。
「奥様、今日はどうなさるんですか?」とアグネスが尋ねた。
「夕べ書いた手紙を出してきます。誰かがお金を工面してくれるかもしれません。」
「ハンソンさんが何とかしてくださらないのかしら?」
「いいえ、ハンソンはジョージが男爵の後継ぎだということを確認しただけで、男爵にどのくらい財産があるのかわからないんです。もしかしたら借金だらけで財産なんか何もないかもしれないと言うし・・・。ジョージと私がニューステッドに到着するまではハンソンが男爵家の財産について調べるわけにもいきません。ハンソンはいわばうちの使用人の立場だからハンソンからお金を借りるわけにはいかないでしょう。ハンソンだって四人の子供と奥さんがいるし・・・。」
「じゃあ、やはり親戚しか当てにできないんですね。親戚の方の中で男爵家の財産について知っている人がいればお金を貸してくれるかもしれませんね。」
「ええ、それしか当てにできるものはありません。ニューステッドまでの旅費と宿泊料、そして万が一・・・。」
「奥様、そんなことは考えないで希望を持ってください。坊ちゃんはきっと今までよりもずっと幸せになります。私はそう信じています。二歳の時からずっとお仕えした坊ちゃんとこれから坊ちゃんにお仕えする妹のために私はそう固く信じます。」
ジョージは部屋の隅でトランクの中から取り出したおもちゃの刀を磨いていたが、母とアグネスの会話を聞いて息苦しくなってきた。
「私はこの子のために私の宝石は晴れ着や家具の一切を売り払いました。これでお金を使ってはるばるニューステッドまで行ってみてこの子が何かの間違いで小公子(リトル・ロード)ではないということがわかったら、私は一体どうすればいいのでしょう。」と母はうつむき、目の前に置かれたパンとミルクにも手をつけずに言った。
「奥様、希望を持って、神様とハンソンさんのおっしゃることを信じて、勇気を持ってください。今日手紙を出す方の中から誰かがきっとお金を都合してくださるわ。」
アグネスはこう言うと立ち上がり、持ってきたコップについだミルクとパンがのった皿をジョージの傍らに置いた。トランクを重ねただけの、ただでさえ狭い仮ごしらえの机の上には郵便局に持っていくばかりになっている封書が並べられたままだった。
三人は黙って朝食を食べた。少ない朝食を終えると母は立ち上がって手紙を出しに行くと言った。ジョージはアグネスと一緒に薄暗い小屋の中から外に出て、ジョージはたった一冊手元に残った本である聖書を読み始め、アグネスはバスケットから縫い物を取り出して針仕事に精を出した。
ジョージは教会の牧師の仕事というものはは聖書の中から説教じみたつまらない箇所だけを抜き出して語ることだと思っていた。
「人はパンのみにて生きるものにはあらず。」「隣人を愛せ。」「父母を敬え。」このような教えをジョージは物心ついた頃から母やアグネスに連れられて行った教会でいやというほど聞かされていたが、八歳の時に旧約聖書の創世記を読み、天地創造ノアの箱舟の話の迫力に圧倒された。牧師さんの説教は普通の人は放って置けばつまらない箇所を読み飛ばすからかもしれないとジョージは思った。しかし、聖書をお祈りかまじないの道具と考えているらしいアグネスのような人間は一体、聖書の面白さをわかって読んでいるのだろうかとジョージは思い、隣で縫い物をしているアグネスに尋ねてみた。

「ねえ、アグネスは聖書の中の面白い話を何か知っている?」
「知っていますとも。」とアグネスは答えた。
「坊ちゃんはノアの箱舟はもうお読みになりましたか?」
「読んだ。」
「じゃあ、エバが蛇に誘惑される話もバベルの塔の話もお読みになったのね。」
「読んだ。」
「じゃあ、モーゼがイスラエルの民を連れてエジプトから逃れる話は?」
出エジプト記だろ。読んだよ。創世記と出エジプト記を読んだけれどレビ記になったら神様の命令ばかりでつまらないから止めた。あとは、誰かが面白いと言ったところだけ読んだ。」
「まあ、坊ちゃんはまだ十歳なのに賢いのね。サムソンとデリラの話はお読みになりましたか?」
「読んだ。師士記だよね。」
「ヨナが魚の腹の中で暮らす話は?」
「読んだ。」
「坊ちゃんにはかなわないわ。イスラエルの美少女エスターが異教徒の女王になってイスラエルの民を救う話は?」
「読んでない。」
「男の子だから興味がないのね。ダビデが巨人のゴリアテを倒す話は?」
「まだ。」
「じゃあ、是非お読みなさい。サミュエル記ですよ。」
ジョージはアグネスに言われたとおりに聖書のサミュエル記を広げるとむさぼり読んだ。


ジョージと母が越してきた小屋や住居と呼べるような場所ではなかった。ジョージには街のはずれの荒野との境になぜこんな小屋が建っているのかさえわからなかった。最初の夜、ジョージが母に用を足したいと言ったら、母は「男の子はいいわね。どこででも用が足せるから。」と言った。
この言葉を聞いてジョージはどうすればいいのかがすぐにわかった。そして、ジョージはアグネスにもまた同じことを聞かなければならなくなった。アグネスは黙ってジョージを小屋の裏に連れていくと低い囲いのある場所を示した。ジョージはこのような場所で用を足すのは初めてだったが、人から見られることもなく、囲いから見え隠れしている頭を見れば誰でも遠慮して入り口の粗末な扉を開けてズボンを下ろしている自分の様を見たりはしないだろうと思った。そうこうしているうちに母が昼食を携えて戻ってきた。

(読書ルームII(117)に続く)