黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(120) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等  1/5)

 

「閣下(シニョーリ)、気がつかれましたか?」
ピエトロ・ガンバはバイロンの横でかがみ込んで熱でやせこけたバイロンに顔を近づけた。バイロンとピエトロ・ガンバは数名の従者と共通の友人トレローニーと共に一八二三年の暮れにイタリアを立ち、一八二一年に始まったギリシア独立運動に参加していた。ギリシアオスマントルコ支配下から独立させるための運動とは言え、独立軍が戦う相手はすでに実質的に行政権を失っているオスマントルコではなかった、独立軍は得体の知れない土着のイスラム教徒の豪族などを相手にせざるを得ず、独立運動の先行きは全く不透明だった。


ギリシアのミソロンギでバイロンは熱病にかかり、臥せっていた。バイロンの寝室に入ることを許されているのはピエトロ・ガンバ、元海賊のトレローニー、イタリア人の従者ティタ・ファルシエリとイギリス人の従者ウィリアム・フレッチャーの四人だけだった。ピエトロがバイロンに言った。
ギリシア人のヘボ医者が、僕らが止めているのに瀉血が必要だといって蛭を閣下(シニョーリ)のこめかみにあてて、出血があまりひどかったので失神されたんです。覚えておられますか?」
バイロンは無言のままあたりを見回した。
「まったくここの医者ときたら、病人に水を飲ませるなとか、僕らの常識では考えられないことを指示するんです。僕は閣下(シニョーリ)に来ていただいたことを本当に後悔しています。」
バイロンは黙ってピエトロ・ガンバの顔を見つめた。ピエトロは続けた。
「閣下(シニョーリ)、これは最初から僕だけの問題でした。僕がいたから父と姉はラベンナとピサを追われたんです。僕がギリシアに来てから父が改めてローマ法王に懇願したら、どうやらラベンナに戻れる見通しになったようです。」
バイロンは黙って首を横に振った。
「閣下はピサからジェノバに移ったばかりの頃にも病気をされました。新しい土地で軍隊の生活をするのは無茶だということはわかっていたのに・・・。」
バイロンは静かに言った。
「私がイタリアから去ったから、伯爵とテレサがラベンナに戻れるようになったんだ。それに私にはここに来なければならない理由があった。」
ピエトロ・ガンバは水差しからコップに水を注し、バイロンに与えた。水を飲むとバイロンは言った。
「夢を見た。なぜここにいるのか、そればかり考えていたが、夢がその答えだった。ジュネーブ湖のほとりにいた。シェリーに出会った。なぜだ。妻に捨てられたから・・・。放浪してヴェニスに到着し、ホブハウスに慰められ、テレサに会い、君に会い、ラベンナに、ピサに、そしてジェノバに来た。」
「そうです。そして今、閣下はギリシアのミソロンギにいらっしゃいます。」
「なぜここに来たのか考えた。思い出した。イギリスでの楽しかったこと、苦しかったこと。若い頃の冒険のこと、学生時代のこと、子供の頃のこと・・・。」

「閣下(シニョーリ)、・・・。」と言ったきり、ピエトロは何を続けて言えばいいのかわからなかった。バイロンは続けた。
「今までで一番嬉しかったことは、イギリスでホブハウスがギリシア独立支援基金を設立してくれたこと・・・。一番悲しかったことは、シェリーとアレグラの死だった。残念なのはネルソンciii[1]のように、勝利を知ってから死ねないことだ。」
「閣下(シニョーリ)、そんなことをおっしゃらずに、どうか元気になってください。すぐには無理かもしれませんが、ギリシアはきっと独立します。イタリアもきっと一つになります。イタリアで姉が待っています。閣下の『ドン・ジュアン』はまだ十六巻までしか完成していないじゃないですか。ダンテが『神曲(ディヴィノ・コメディア)』百巻を三韻句法(テルツァリマ)で書いたのなら、閣下は八韻句法(オッタヴァリマ)で『人曲(ウマノ・コメディア)』というべき『ドン・ジュアン』百巻を書かなくてはなりません。閣下のジュアンはモーツアルトのオペラのドン・ジョバンニみたいな老獪なプレイボーイにならなくてはなりません。」
バイロンは力なく微笑んだ。そして言った。
「もうたくさんだ。私の英雄を休ませてあげたい。」
バイロンはここまではイタリア語で会話していた。しかし、自分を見つめているピエトロから目をそらすと英語で呟いた。
「明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)、
最後の一呼吸に至るまで、日々この単調な歩調で歩む。
昨日までには、ただ道化師が、照明を浴びて立っているだけ。
塵にまみれた死に至る道。消えろ、消えろ。はかない蝋燭!
人の命は歩む影、つたない役者。
舞台の上で威張ったり、不平を言ったり・・・。
でも、もう何も聞こえない。
道化役者の語りの中の、やかましい台詞や立ち回り、
全てに何も意味がない。civ[2]」


か細い声で英語の詩句を口ずさむバイロンの顔に、ピエトロは耳をつけるようにして内容を聞き取ろうとした。しかしピエトロには最初の文句しか理解することができなかった。そこで、バイロンが沈黙した時、ピエトロは意味が理解できた最初の文句を繰り返した。
「明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)。」
バイロンはピエトロを見つめなおして言った。
「ピエトロ、それでいいんだ。明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)。君はまだ若いんだから、私が見ることができなかったいい日を見ることがあるだろう。明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)。Io lascio qualche cosa di caro nel mondo (この世の素晴らしさを私に教えてくれたものがあったよ。)」
バイロンは瞑目した。そして二度と再び目を覚ますことがなかった。

 

CIV(2)  シェイクスピアマクベス」 第五幕第五場より

 

(読書ルームII(121)  に続く)