黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(117) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)3/5

 

「お帰りなさい。」とジョージとアグネスが言うと母は黙って小屋の中に入り、藁布団の上に座ってうなだれた。
「昨日の晩、思い当たるところには全部手紙を書いたと思ったけれど、二、三思いついたところがあるから手紙を書いてみます。」と母は言った。
「奥様、お昼ごはんを食べてから少し横になられたらいかがですか?とても疲れていらっしゃるようです。」とアグネスが言った。
「ええ、そうします。でもこんなところでいつまでも暮らすわけにはいかないし、気ばかり焦って・・・。」と母は苛立っていた。
「奥様、手紙の中には男爵について何か知っていることを教えてほしいとか、男爵の領地を見にいく機会があったらどんな様子なのか教えてほしいとか、そういった依頼もされたんでしょう?ハンソンさんによれば相当の領地があるんでしょう?」
「ええ、ハンソンはそう言っていました。」
「じゃあ、ジョージはお金持ちになれるでしょうね。」
「そうだといいけれど・・・。」

 

三人は黙って食事をした。アグネスと二人きりの間には聖書に関する楽しい会話がはずんだのに、母が帰ってくるなりジョージには雰囲気が重苦しく感じられた。
「私はこの子のために服を売り、宝石や家具を売り、今度は自尊心まで売っているようなものじゃありませんか・・・。この片輪の子のために・・・。この子が領地を手に入れることができないなんてことになったら、私たちは一生この小屋から出られないかもしれないわ。」と母が呟いた。母の言葉は同年輩の子供たちから投げられるどんな意地悪な言葉よりもジョージの心を深くえぐった。食事が終わるとアグネスは結婚したばかりの夫が待っている家へ帰っていった。


ジョージは午後になっても夢中で聖書のサミュエル記を読み続けたが、本から目を上げると苛立っている母が目に入り、母と一緒にいるのがわずらわしくなってきた。未来を楽天的に信じるアグネスと一緒にいるほうがよかった。ジョージはアグネスよりも母のほうが聖書の内容をよく知っているような気がしたが、母に聖書の内容について尋ねることは自分の密かな関心や知識を母に知らせることになるような気がしたので母には聖書についての質問はしないことにした。


それから数日の間、アグネスは朝になるとパンとミルクを持ってやってきて昼前になると母が昼食と夕食を買いに出かけ、母が戻ってきて三人で昼食を済ますとアグネスは帰っていった。ジョージは相変わらず聖書に没頭していた。手紙を投函してから約一週間ほどすると、今まで二階を借りて住んでいた香水屋に手紙の返事が届いていないかどうか見に行くと言って母は今までよりも長く、ジョージとアグネスを二人っきりにするようにした。最初の何日かは母は手ぶらで帰ってきた。それから、落胆して帰ってくるようになった。ジョージと母が香水屋の二階を出て街はずれの掘っ立て小屋に移ってから、スコットランドに遅い夏がやってきた。ジョージは母に、アグネスの付き添いで川に泳ぎに行ってもいいかと尋ねた。母は構わないと言った。


ジョージとアグネスが川に着くと、川で水遊びに興じていた子供たちの中でジョージを知っている何人かがジョージを指差して言った。
「ロード、ロード、ちんば(レ イム)のロード!」
「僕はちんば(レ イム)のロードじゃないぞ、小公子(リトル・ロード)だ!」とジョージは言い返した。
「ロード、ロード、ちんば(レ イム)のロード!」と子供たちはジョージを指差して唱え続けた。ジョージには他の子供たちとは境遇が変わった自分をうらやんでこのように自分をからかうのだということがわかっていた。だから、ただの「ちんば(レイム)!」と言ってからかわれた今までとは異なり、ジョージは「ぼくは敵から逃げないようにとちんば(レイムネス)を授かったんだ!」と言い返すことも、他の子供たちに泳ぎを見せびらかすことも、しかえしに水しぶきを浴びせることもできなかった。ジョージはしかたなく、アグネスを誘ってジョージをはやしたてている子供たちから離れた川の深いよどみにまで行き、冷たい水に体を浸した。その時、ジョージの頭にひらめいたものがあった。
「ロードというのはこの世に領地を持っている貴族のことじゃない。神様のことなんだ。」
ジョージは聖書の中でしばしば神様が「ロード」と呼ばれているのを知っていたが、その時まで「神」を意味する「ロード」とこれからの自分の身分である「小公子(リトル・ロード)」を結びつけて考えてみたことはなかった。
「人間の貴族がちんば(レイム)でもおかしくも何ともないけれどあの子供たちは僕が『ちんばの神様(レイム・ロード)』になったと言って騒いでいるんだ。僕は神様(ロード)の子だ。」
その日、心ゆくまで泳ぎを楽しみ、水泳の腕が昨年から全く変わっていないことを確かめたジョージは帰りがけにアグネスに言った。
「僕はもう、ここでは泳がないことにしたよ。」

翌日からジョージは今までよりも一層熱心に聖書を読み始めた。サミュエル記は上下巻ともにとっくの昔に読破していた。ジョージは今までつまらないと決めつけていた新約聖書も真剣に読み始めた。


ある日の夕暮れ時、母が夕食を整えに外出し、遅くなってから帰りたくないと言うアグネスが小屋を去った後では小屋から出てはいけないとジョージは言われていたが、陽が傾きかけた荒野をジョージは聖書を抱えてそぞろ歩いた。
ダビデは巨人のゴリアテを石を投げて倒した。タビデが巨人を倒すのに脚は必要なかった。ダビデゴリアテから逃げなかった。真っ直ぐな脚は逃げるためだけに必要なんだ。」ジョージはこう思い、聖書を側の岩の上に置くと、側にあった大きな石を抱えて力まかせに投げた。
「僕はダビデの子孫で神様(ロード)の子だ。」
ジョージは新約聖書のマタイ伝の冒頭のアブラハムからダビデに至る系譜とダビデからイエス・キリストに至る系譜をそらんじていた。そしてイエス・キリストが福音の説教や病人の治癒で活躍する以前、四十日間に渡って荒野をさまよい、粗食だけに耐え、悪魔の誘惑にうち勝ったという新約聖書の逸話もすでに繰り返し読んでいた。
「そして今、僕は荒野のはずれにいる。」とジョージは思った。

(読書ルームII(118)に続く)