黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(116) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)2/5

 

翌朝、目が覚めた時には陽が高く上っていた。学校に行かなくてよくなってから数日間は目まぐるしさもてつだってジョージは学校を恋しいとは思わなかった。しかし、町外れの小屋に落ち着き、別れた友達のことが恋しくなってきたのでジョージは母に尋ねた。
「新しい学校にはここから行くの?」
「いいえ、これから旅をして、住むことになる場所で学校に行くのよ。」
ジョージはこの小屋が落ち着き場所ではないとわかってまた不安に捕われた。自分の近い未来で何が展開していくのか全く見当がつかなかった。トランクの中に忍ばせてきた数少ない玩具も友達がいなければ価値がなかった。しばらくすると、アグネスがパンと搾りたてのミルクが入った水差しを持って現われた。
「奥様、今日はどうなさるんですか?」とアグネスが尋ねた。
「夕べ書いた手紙を出してきます。誰かがお金を工面してくれるかもしれません。」
「ハンソンさんが何とかしてくださらないのかしら?」
「いいえ、ハンソンはジョージが男爵の後継ぎだということを確認しただけで、男爵にどのくらい財産があるのかわからないんです。もしかしたら借金だらけで財産なんか何もないかもしれないと言うし・・・。ジョージと私がニューステッドに到着するまではハンソンが男爵家の財産について調べるわけにもいきません。ハンソンはいわばうちの使用人の立場だからハンソンからお金を借りるわけにはいかないでしょう。ハンソンだって四人の子供と奥さんがいるし・・・。」
「じゃあ、やはり親戚しか当てにできないんですね。親戚の方の中で男爵家の財産について知っている人がいればお金を貸してくれるかもしれませんね。」
「ええ、それしか当てにできるものはありません。ニューステッドまでの旅費と宿泊料、そして万が一・・・。」
「奥様、そんなことは考えないで希望を持ってください。坊ちゃんはきっと今までよりもずっと幸せになります。私はそう信じています。二歳の時からずっとお仕えした坊ちゃんとこれから坊ちゃんにお仕えする妹のために私はそう固く信じます。」
ジョージは部屋の隅でトランクの中から取り出したおもちゃの刀を磨いていたが、母とアグネスの会話を聞いて息苦しくなってきた。
「私はこの子のために私の宝石は晴れ着や家具の一切を売り払いました。これでお金を使ってはるばるニューステッドまで行ってみてこの子が何かの間違いで小公子(リトル・ロード)ではないということがわかったら、私は一体どうすればいいのでしょう。」と母はうつむき、目の前に置かれたパンとミルクにも手をつけずに言った。
「奥様、希望を持って、神様とハンソンさんのおっしゃることを信じて、勇気を持ってください。今日手紙を出す方の中から誰かがきっとお金を都合してくださるわ。」
アグネスはこう言うと立ち上がり、持ってきたコップについだミルクとパンがのった皿をジョージの傍らに置いた。トランクを重ねただけの、ただでさえ狭い仮ごしらえの机の上には郵便局に持っていくばかりになっている封書が並べられたままだった。
三人は黙って朝食を食べた。少ない朝食を終えると母は立ち上がって手紙を出しに行くと言った。ジョージはアグネスと一緒に薄暗い小屋の中から外に出て、ジョージはたった一冊手元に残った本である聖書を読み始め、アグネスはバスケットから縫い物を取り出して針仕事に精を出した。
ジョージは教会の牧師の仕事というものはは聖書の中から説教じみたつまらない箇所だけを抜き出して語ることだと思っていた。
「人はパンのみにて生きるものにはあらず。」「隣人を愛せ。」「父母を敬え。」このような教えをジョージは物心ついた頃から母やアグネスに連れられて行った教会でいやというほど聞かされていたが、八歳の時に旧約聖書の創世記を読み、天地創造ノアの箱舟の話の迫力に圧倒された。牧師さんの説教は普通の人は放って置けばつまらない箇所を読み飛ばすからかもしれないとジョージは思った。しかし、聖書をお祈りかまじないの道具と考えているらしいアグネスのような人間は一体、聖書の面白さをわかって読んでいるのだろうかとジョージは思い、隣で縫い物をしているアグネスに尋ねてみた。

「ねえ、アグネスは聖書の中の面白い話を何か知っている?」
「知っていますとも。」とアグネスは答えた。
「坊ちゃんはノアの箱舟はもうお読みになりましたか?」
「読んだ。」
「じゃあ、エバが蛇に誘惑される話もバベルの塔の話もお読みになったのね。」
「読んだ。」
「じゃあ、モーゼがイスラエルの民を連れてエジプトから逃れる話は?」
出エジプト記だろ。読んだよ。創世記と出エジプト記を読んだけれどレビ記になったら神様の命令ばかりでつまらないから止めた。あとは、誰かが面白いと言ったところだけ読んだ。」
「まあ、坊ちゃんはまだ十歳なのに賢いのね。サムソンとデリラの話はお読みになりましたか?」
「読んだ。師士記だよね。」
「ヨナが魚の腹の中で暮らす話は?」
「読んだ。」
「坊ちゃんにはかなわないわ。イスラエルの美少女エスターが異教徒の女王になってイスラエルの民を救う話は?」
「読んでない。」
「男の子だから興味がないのね。ダビデが巨人のゴリアテを倒す話は?」
「まだ。」
「じゃあ、是非お読みなさい。サミュエル記ですよ。」
ジョージはアグネスに言われたとおりに聖書のサミュエル記を広げるとむさぼり読んだ。


ジョージと母が越してきた小屋や住居と呼べるような場所ではなかった。ジョージには街のはずれの荒野との境になぜこんな小屋が建っているのかさえわからなかった。最初の夜、ジョージが母に用を足したいと言ったら、母は「男の子はいいわね。どこででも用が足せるから。」と言った。
この言葉を聞いてジョージはどうすればいいのかがすぐにわかった。そして、ジョージはアグネスにもまた同じことを聞かなければならなくなった。アグネスは黙ってジョージを小屋の裏に連れていくと低い囲いのある場所を示した。ジョージはこのような場所で用を足すのは初めてだったが、人から見られることもなく、囲いから見え隠れしている頭を見れば誰でも遠慮して入り口の粗末な扉を開けてズボンを下ろしている自分の様を見たりはしないだろうと思った。そうこうしているうちに母が昼食を携えて戻ってきた。

(読書ルームII(117)に続く)