黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

黄昏のエポック これからどこへ?

作品目次   

 

編集が済み次第、アマゾンから電子出版します。出来れば今年中に本ブログで発表した本作品ともう一つの作品の発表を完了したいと思います。わたしがこの二作品の全文を公開した意図の根底にはある強いこだわりがあります。それは英米を中心として始まった Project Gutenberg と呼ばれる著作権消滅作品の電子化プロジェクトへの強い関心と支援の気持ちです。

 

折しも、自民党総裁が交代し、閣僚、特にレジ袋有料化を始めた例の大臣が退任し、環境への貢献は微細かほとんどないと思われるレジ袋政策そのものはしばらく続くと思われますが、読書文化を大切にし、国土の大半を森林が占めているわたしたち日本人には石油の余りや石油製品の屑を節約するよりももっと重要な使命があります。それは電子書籍を一般化し、著者と読者の対話を進めて改訂を容易にし、既に作品を購入した読者が改訂電子版を容易かつ無料で入手できるようにすることだとわたしは固く信じています。もちろんこれは従来の紙に印刷された本の存在を否定するものではありません。それどころか優れた書籍が全国津々浦々の図書館で愛読されることが益々盛んになるようわたしは願っています・

 

書籍はマーケティングが非常に難しい商品です。そして一つ一つの作品が著者の存命中に著者とともに成長し、進化していくことが必要だと思うのです。そしてそれを容易にするのはもちろん電子化です。単なる森林資源の節約を超える恩恵を Project Gutennberg (日本版: 青空文庫)はもたらしてくれたと思います。一人一人の著述家がもうひと頑張りして著作権保護やより良い電子書籍リーダーの開発に働きかけていくことで著作権フリーの書籍の電子化はかつてグーテンベルクが達成した印刷術の発明に匹敵する人類の大きな飛躍を達成できるとわたしは信じています。

 

二作品の電子出版を完了した後にこのブログをどうするかですが、もちろん残します。ブログと電子書籍の違いは明らかです。当然のことながら電子書籍の方が読みやすいです。一方でブログは改訂しやすくコメント欄を使った双方向性もあります。また、ブログはインターネットに常時接続しているので作品に書ききれなかった内容を深く説明しているサイトに読者を誘導することも容易です。まあ、いろんな面での二つのメディアの可能性を探っていくこともわたしの使命であるとも心得ています。

 

さて、この作品「黄昏のエポック 〜 バイロン郷の夢と冒険」は電子書籍の内容を全て掲載していますが電子書籍には無い内容としてこれから日本が迎える政治の季節(任期満了に伴う衆議院選挙と参議院選挙)に絡んでイギリス人の詩人バイロンがナポレオンの凋落後に思い描いた理想とウィーン反動体制に対する幻滅とそれに抗おうとする足掻きを作品の輪郭をなぞるように説明しつつわたしたち日本人の自由と民主主義を謳歌できる幸せとイギリスのように信頼するに足る野党を持たない悲しみ😅を語ってみたいと思います。

 

川本真理子

黄昏のエポック(目次)

目次

 

第一話 レマン湖の月 (1816年夏 スイス )

第二話 優しき姉よ (1814年 ~ 1816年春 イギリス) 

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア)

第四話 青い空、青い海 (1809年夏 ~ 1811年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス)

第五話  小公子1798年夏 ~ 1802年夏 イギリス)

第六話 若き貴公子 (1805年夏 ~ 1809年夏 イギリス)

第七話 レディー・キャロライン (1812年 イギリス)

第八話 暴風雨 (1818年 ~ 1822年 イタリア)

第九話 スコットランドの荒野にて1798年夏 イギリス)

最終話 ギリシャに死す(1824年)

 

 

目次(歴史的時系列)

 

第九話 スコットランドの荒野にて1798年夏 イギリス)

第五話  小公子1798年夏 ~ 1802年夏 イギリス)

第六話 若き貴公子 (1805年夏 ~ 1809年夏 イギリス)

第四話 青い空、青い海 (1809年夏 ~ 1811年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス)

第七話 レディー・キャロライン (1812年 イギリス)

第二話 優しき姉よ (1814年 ~ 1816年春 イギリス) 

第一話 レマン湖の月 (1816年夏 スイス )

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア)

第八話 暴風雨 (1818年 ~ 1822年 イタリア)

最終話 ギリシャに死す(1824年)

 

 

【読書ルームII(124) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等 5/5

 

付記2 (史実との異同)

 

本作は歴史小説ではあるが、史実をできる限り詳細に写すことが目的ではなく、ナポレオン失脚後のヨーロッパを生き抜いた詩人の模索を綴るために「夢」という形を取ったものである。従って中には史実を大幅に逸脱している箇所やフィクションもある。史実との異同は最後に掲げるとして、物語とは別に現代の視点から特記したいことにバイロンの故国イギリス以外で彼が関わったり見聞したりした国々の現在の様子である。折しも数日前に東京2020年オリンピックが閉幕したが、イタリアの陸上選手の活躍は目覚ましく、男子走り幅跳びや100メートル走でイタリア人が金メダルを獲得した。イタリアではバレーボールやサッカーなどの団体競技も盛んで競技人口が多く、オリンピックや国際大会において優秀な成績を収めることが多いが、イタリア人たちは1871年の統一なしにこれらの快挙を成し遂げることができただろうか? またギリシア古代オリンピック競技会を開始した栄光の国として四年に一度のオリンピックで必ず真っ先に会場に入場する国であるが、ギリシア人がトルコの支配下にあったままでこの栄光が果たしてギリシア人に与えられていたであろうか? 一方、スペインがカトリック教徒を軸にした民族主義に目覚めたのは歴史を遡って1492年の国土回復以前であり、だからこそ19世紀初頭のナポレオン侵攻の際にバイロンと親友のホブハウスが目撃しフランシスコ・ゴヤが銅版画に留めたような激しい抵抗活動をスペイン人たちは行ったのであるが、これはナポレオンが掲げた「自由、平等、博愛」の理念が間違っていたからではない。この事実はむしろ、いかなる理念も対話の中で磨かれ、人々の日常生活の中でどう生かされるかが論じられてこそ価値があるという真理の証である。このような理由からナポレオン失脚後の西欧にはロマン主義に通じる理念と共に民族主義の嵐が吹き荒れたのである。イギリスで演説者として議会に立ったことがあり、英語を駆使する上での言葉の魔術師であり、古典語を含むヨーロッパの数カ国後に通じていたバイロンは理念と理念の資金石たる民族主義とそれを支える議会制民主主義などとの制度に同時代人の誰よりも精通していたはずである。そしてバイロンの夢想の全てとは言わないが大半は多くの人々の努力によって今日では実現されているか実現されつつあるとわたしは信じたい。

 

史実との異同

第一話. レマン湖の月 (1816年夏 スイス )
・ ポリドリをバルコニーから飛び降りさせたのはバイロン
ジュネーブ湖畔で四人の間で語られた話は全て、怪奇小説集「ファンタスマゴリア」に類似した怪奇物語だったが、このうちで世界文学に題名を留めたのはもちろん、メアリー・ゴッドウィン・シェリーの「フランケンシュタイン」でバイロンが考えた吸血鬼の物語はポリドリが受け継いで完成させた。パーシー・ビッシュ・シェリーが語った話については内容不明なので虚構である。
第二話 優しき姉よ (1814年 ~ 1816年春 イギリス)
・アン・イザベラ・ミルバンクが女学校時代の親友エスターに送った手紙はすべて虚構。またバイロンとの別離の理由については憶測がなされているだけで今もって不明である。本挿話は死に瀕した人間は自分と関わった人間の意図や隠された本心をある程度知ることができるというわたしの勝手な思い込みに基づいている。

バイロンと異母姉のオーガスタ・リーと関係はウィキペディアに記載されているほど道徳的にセンセーショナルなものではないと筆者は信じている。若い頃から相当の年齢に至るまで王族の相談相手を務めたというオーガスタの経歴が彼女の聡明で安定した人格を証明している。

第三話 ため息橋にて  (1816年秋-1818年初、イタリア)
・ この章には大幅な脚色がほどこしてある。バイロンとホブハウスは十一月十日にヴェニスに到着したが、ホブハウスは十二月三日にローマに向けて旅立ち、クリスマスからカーニバルの季節にかけてはバイロンと生活をともにしていない。ただし、伝えられているホブハウスの人柄、バイロンとの関係、「ハロルド卿の巡礼 第四巻」がホブハウスに捧げられている事実などから、傷心のバイロンを慰め、創作意欲を回復させるためにホブハウスが多大な努力を払ったことは間違いない。
バイロンとパン屋の妻マルガリータ・コグニとの関係はローマ旅行の後で生じ、バイロンはラ・ミラの別荘にマルガリータ・コグニを伴ったらしいが、ストーリーを単純にするためにその事実は省き、マルガリータ・コグニの名前だけを借りた。
バイロンヴェニスフリーメーソンとの関連を裏付ける確証はないが、「ベッポー」の第三節の最後に “Freethinker”という言葉が用いられている。
第四話 青い海、青い空  (1809年夏 ~ 1811年秋   ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス)
・ フランシスコ・ゴヤバイロンと同時代人でマドリッドを中心に活躍した画家だが、アンダルシア地方も頻繁に訪れている。出生地はスペイン北部のサラトガで、この地の商人はフランス語が堪能だったはずである。ゴヤはこの地の幼馴染の商人と深い親交があった。バイロンとホブハウスがゴヤの使者に出会ったというエピソードはもちろん虚構である。
バイロンが「ハロルド卿の巡礼第一巻、第二巻」に着手したのは一八一九年十月、アルバニアにおいてであるが、正確な日付には本人とホブハウスの記述に二、三週間前後の異同がある。しかし、ジトラの悪天候の中でバイロンがホブハウスとはぐれた後に本腰を入れたと考えるのは自然であろう。バイロンはこの時にホブハウスに従ってジョン・エーデルトンを歌った詩稿を破棄したしたことを一生後悔した。
・ ホブハウスとアン・エーデルトンからの手紙は内容を推測したものであるがエーデルトンとマシューズ、加えてバイロン自身の母のこの時期の死は全て事実である。
第五話(小公子)(1798年夏 ~ 1802年夏 イギリス)、第六話(若き貴公子) (1805年夏 ~ 1809年夏 イギリス)
バイロンの幼少期と青年時代初期に関しては詳らかでないか検証できないことが多く、概ねフィクシンであるがバイロンの執事を彼が死ぬまで務めた弁護士のハンソンや隣家の豪農の娘メアリー、ケンブリッジ大学でのバイロンの学友、ケンブリッジ聖歌隊の主席歌手だったジョン・エーデルトンらは実在の人物である。
第七話 レディー・キャロライン  (1812年 イギリス)
バイロンとキャロライン・ラム夫人が偶然ではなく夫人からの招待状によって会った時、夫人はサミュエル・ロジャース、トマス・ムーアとの乗馬から戻ったばかりでこの二人が同席していたのは事実であるが、出会った場所に関して、ホランド・ハウスとメルボルン・ハウスの両方の記載がある。状況からみてメルボルン・ハウスが自然だと思われる。なお、四人は屋内で出会ったが、ロジャース/ムーアにメルボルン子爵家について語らせるために屋外で出会ったという脚色をほどこした。
・ 一八一二年七月二十九日、ロンドン、セント・ジェームズ街のバイロンのアパートをホブハウスが訪問中にラム夫人が男装して現われ、女装で帰っていったというのは史実であるが、夫人の訪問中に何が起きたかは不明。なお、ホブハウスはこれより前にラム夫人の母親からラム夫人とバイロンを引き離すよう依頼されている。同年八月十二日のラム夫人の失踪と、発見後に夫と母親とともに
アイルランドに出発したことは史実。
・ オックスフォード夫人とバイロンとの馴初め、なぜバイロンが同夫人と急速に親しくなったのかな
どは不明。ホブハウスのさしがねだったというのは虚構である。

・なお、章頭のバイロンの演説はイギリス議会で行われたトップ10の名演説として記録されているほど評価されている。

第八話  暴風雨(1818年 ~ 1822年 イタリア)
バイロンは北イタリアのカルボナリに関わっていたというだけで、その役割については記録がない。バイロンがカルボナリのメンバーに議会制度のありかたに関する考え方を提供したというのは推測。
バイロンとピエトロ・ガンバが最初に出会った時にはテレサ・グイッチオーリは旅行中でラベンナ
にはいなかった。
・ 一八二○年の暮れにバイロンの屋敷の外で起きた殺人事件に関しては、殺された男の名前と軍隊での身分などがわかっているだけで、真犯人も殺人の動機に関しても全くわかっていない。したがって殺された男が二重活動家だったというのは仮説。
第九話 スコットランドの荒野 (1798年夏 イギリス)
スコットランドアバディーンでの香水屋の二階での間借り、ノッティンガムシャー、ニューステッドに旅立つまでの掘っ立て小屋での仮住まい、このころから始まった母親との確執などを素材にした虚構である。
最終話 ギリシアでの死 (1824年)
バイロンの死を見取ることのできた人間の中で、英語が理解できたのはトレローニーとフレッチャー、バイロンの話し相手になれる知的レベルの人間はイタリア語しか話せないピエトロ・ガンバだった。バイロンシェリーに関する回想を執筆したトレローニーには文才はあったが、彼の知的なレベルやバイロンとの親密度は不明。そこで、バイロンを看取ったのはピエトロ・ガンバだったということにして、瀕死のバイロンマクベスの台詞をしゃべらせた。バイロンが臨終の時に発したイタリア語は、本当に臨終の際に発せられたかどうかはわからないが、ピエトロ・ガンバが確かに聞き取ったとされている。

(完)

 

【読書ルームII(123) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等 4/5

 

あと書き

 

「夢落ち」というのは小説の禁じ手である。もし力量のある小説家が主人公が翻弄される波瀾万丈の物語を描いた後で主人公が目を覚まして服を着替えて朝食を取って何食わぬ顔で満員電車で出勤する様を描きかつ主人公に「さっきのはやはり夢だったのか。」と語らせたなら読者は「今までの読書に費やした時間をどうしてくれる!」と憤るかもしれない。ただ本作の最終話を読んだ方なら分かっていただけるだろうが、第一話から第九話に至るまでの本作の大部分を占める部分は単なる泡沫(うたかた)のような毎晩、正確に言えば毎朝の目覚めの直前に見る夢ではなく、この世を生き抜いた人間が死ぬ間際に走馬灯のように見るというその人の一生を俯瞰した夢である。従って、その夢の巻頭は人生の岐路に立たされた時の映像であるのが相応しく、次は進まざるを得なくなった道を手探りで歩む苦しい過程が走馬灯に映され、そして自分をその道に追い込んだ原因などが外的要因が始まり、次第に幼少期に経験して自らの潜在意識の深い部分に隠されてしまった動機付けなどに沈潜していくのではないだろうか。この走馬灯では当然のことながら自分の生き方に大きな影響を与えた事象にはスポットライトが当てられて細部に至るまでが鮮明に映され、比較的影響が少なかった事象は曖昧にぼかされるであろう。本作品は史実に基づいてはいるが、挿話の選択と肉付けはこのような原則に拠っている。

 

付記1 

物語というものは何が何でも時間軸に沿って読まねばならないと考える方の為に一応、各挿話を時間に沿って並べてみる。本作品のテーマに照らすと時間軸に沿った配列の方が乱雑で意味をなさない。バイロンが自分の果たすべき使命とは何なのかという問いを鋭く突きつけられたジュネーブ(レマン)湖畔での挿話はあくまでも第一話でなければならないし、この疑問に対する決定的なヒントはバイロンが未だ貴族社会に属していなかった幼少時の体験を描く第九話で明らかにされるのでこの挿話は最後に語られなくてはならない。人生最後の走馬灯としての配列(目次とURL)は次のエントリーに掲載する。)

 

第九話 スコットランドの荒野にて1798年夏 イギリス)

第五話  小公子1798年夏 ~ 1802年夏 イギリス)

第六話 若き貴公子 (1805年夏 ~ 1809年夏 イギリス)

第四話 青い空、青い海 (1809年夏 ~ 1811年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス)

第七話 レディー・キャロライン (1812年 イギリス)

第二話 優しき姉よ (1814年 ~ 1816年春 イギリス)

第一話 レマン湖の月 (1816年夏 スイス )

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア)

第八話 暴風雨 (1818年 ~ 1822年 イタリア)

最終話 ギリシャに死す(1824年)

あと書きおよび付記1 完

 

(読書ルームII(124) に続く)

【読書ルームII(122) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等 3/5

 

バイロンの異母姉のオーガスタ・リーはバイロン社交界の寵児だった頃から王家の侍女として王族の人々の相談相手となる大人しい賢女として高い評価を得ていた。バイロンが亡くなる数年前に新国王が即位し、その後王族の人々の顔ぶれが代わり、オーガスタ自身、多くの子供を出産して育てながら宮廷に出仕する生活に体力的な限界を感じることを王家の者に仄めかしたところ、王室は喜んで彼女が出仕するのに便利なように王宮に近接する住宅を彼女に貸与した。こうしてオーガスタは年老いても王族の人々の話し相手を務め、また大勢の子女とさらに大勢の孫たちの頻繁な訪問を受ける充実した人生を送った。第ニ話 優しき姉よ に登場する。

 

メアリー・ゴッドウィン・シェリーは夫パーシー・ビッシュ・シェリーの死後、同時に寡婦となったエドワード・ウィリアムズの妻ジェーンやリー・ハント一家と共にジェノバに引っ越したバイロンの後を追ってバイロンの近くに居を定め、バイロンの作品の筆写などを手伝った。リー・ハントが短命に終わった雑誌「リベラル」を創刊してバイロンの「審判の幻影」を公にしたのもジェノバにおいてである。メアリーはバイロンとピエトロ・ガンバがギリシアに赴いた後、ジェーンやリー・ハントらと共にイギリスに戻り、たった一人の息子パーシー・フローレンスを育てる傍ら、パーシー・ビッシュ・シェリーの遺稿の整理と編集を手がけ、自分でも数編の小説を書いた。パーシー・ビッシュ・シェリーが亡くなった際に二十五歳だったメアリーはその後再婚せず、一人息子のパーシー・フローレンスをバイロンと同じハロー校からケンブリッジ大学に進学させ、その息子がパーシー・ビッシュ・シェリーの父ティモシー・シェリーの爵位と財産を受け継ぎ、結婚して幸福な家庭を築くのを見届け、一八五一年に五十三歳で没した。第一話 レマン湖の月 と 第八話 暴風雨 に登場する。

 

キャロライン・ラムバイロンが亡くなった翌年の一八二五年にウィリアム・ラムと正式に離別し、その後、零落した生活を送るが、一八二八年、自閉症だった息子の後を追うようにしてウィリアム・ラムの屋敷の中で亡くなった。享年四十三歳だった。第七話 レディー・キャロライン  に登場する。


ウィリアム・ラムは妻キャロラインとバイロンとのスキャンダルがあった一八一二年に、「信教の自由や工場設備打ち毀しに対する同情的かつ急進的な考え方」を表向きの理由として衆議院での議席を失った。しかし、後にメルボルン子爵の称号を継いで貴族院議員として政界に復帰した。一八二五年には支持者の意見を聞き入れて愛する妻キャロラインと離別、一八三○年にイギリス政府内閣の内相、一八三四年に短期間首相を務めた後、一八三五年から一八四一年までの六年間に渡ってビクトリア女王の最初の首相として敏腕を振い、国内外におけるイギリスの隆盛と安定とを築いた。第七話 レディー・キャロライン に登場する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%A0_(%E7%AC%AC2%E4%BB%A3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%AD%90%E7%88%B5)?wprov=sfti1

 

クレア・クレアモントはフィレンツェ、ウィーン、ロシア、ドレスデンなどで裕福なイギリス系住民の家庭教師を務め、一生を独身で通した。第一話 レマン湖の月 に登場する。

 

父と共に生まれ故郷のラベンナに戻ったテレサ・グイッチオーリ伯爵夫人(旧姓ガンバ)はバイロンの死後しばらくして、別れた夫であるアレッサンドロ・グイッチオーリ伯爵と元の鞘に収まった。年配の伯爵の死後、しばらくは寡婦だったが、四十七歳の時に別の貴族と結婚し、社交サロンを主催したりバイロンの思い出を執筆したりして残りの一生を過ごした。第八話 暴風雨に登場する。


一八二○年にナポリウィーン体制に対する最初の烽火を上げたカルボナリ運動は一八三○年までに数々の謀略によってオーストリアによるイタリア支配を揺るがそうとしたが、全ての努力は灰塵に帰し、替わって一八三三年にカルボナリ党出身のジュゼッペ・マッツィーニが組織した青年イタリア党がサヴォイで烽火を上げた。次いで、一八四八年のフランス二月革命とこれに次ぐウィーン体制の崩壊を受け、青年イタリア党が中心となって憲法制定とオーストリア勢力追放を目的とした戦いが開始された。オーストリア勢力はその後漸次イタリアから締め出され、一八六六年には青年イタリア党の分派「赤シャツ党」を率いるガリバルディーが南イタリアを解放して現在のイタリアは完全に独立と統一を達成した。

イタリア統一運動 (ウィキペディア)


ピエトロ・ガンバのその後については寡聞にして何もわからない。しかし、一八○三年に生まれ、バイロンが人生の最後で弟に対するような信頼と愛情を寄せ、バイロンの最期を看取ったピエトロが1830年ギリシア独立だけではなく、1871年のイタリア統一の輝かしい瞬間まで健在だったことを願わずにはいられない。第八話 暴風雨最終話 ギリシャに死す に登場する。

 

絶対王制下で議会の権威を拡充し、イギリスのみならず現代の世界各国の議会制度の模範を築いたイギリス進歩(ホイッグ)党は、十九世紀半ば頃までは数々の社会改革を推し進め、メルボルン子爵ウィリアム・ラムのような優れた政治家を輩出したが、十九世紀後半に至り、社会の変化に対応した支持層を獲得できないまま後のイギリス労働党の母体となる修正社会主義と現在のイギリス保守党の母体である王党(トーリー)派の両方に吸収され、あるいは、修正社会主義イギリス労働党の動きに取って替わられて自然消滅した。


イギリスに搬送されたバイロンの遺骸は約一世紀半の間、バイロンが少年時代を過ごした先祖代々の土地、ノッティンガムシャーのニューステッドに葬られていたが、一九六八年にバイロンの棺はロンドンのウェストミンスター寺院内にある「詩人の区画」に移された。バイロンの棺をこの区画に移すべきであるという意見はそれより以前からあり、一九六八年以前には少なくとも一九二四年にそのような提案が公になされていた。しかし、バイロンの棺が死後一世紀半もの間この区画に移されなかった理由は、彼の作品の中で辛らつな風刺の対象となった人々が完全に過去に属するのをバイロンの作品の愛好者たちが辛抱強く待ったためか、あるいは、島国イギリスの人々にとって、バイロンがあまりに大陸的で、あまりに世界市民的だったせいかもしれない。

 

(読書ルームII(123) に続く)

【読書ルームII(121) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等 2/5

 

ピエトロ・ガンバは涙でかき曇る目で父ガンバ伯爵に宛てて手紙を書き、バイロンの遺体をイギリスに搬送する費用負担を要請した。手紙の中でピエトロはこう書いた。
バイロン卿はヨーロッパ市民であり、世界市民(コスモポリタン)でした。しかし、バイロン卿はヨーロッパ市民そして世界市民である以前にイギリス人でした。僕たちは他人をよりよく理解する前に自分をよりよく理解しなければなりません。バイロン卿は優れたイギリス人であることによって優れたヨーロッパ市民、そしてすぐれた世界市民たりえたのだと思います。その証拠に彼は死ぬまで英語で詩を考え続けました。イギリスの議会政治を良く理解していたからこそ、彼は外国人でありながらイタリア統一運動やギリシア独立運動に参加することができたのです。どうか、彼の亡骸を故国イギリスに帰すことができるよう、お父様のご協力をお願いします。cv[3]」


バイロンの遺体に防腐処置が施されている間、ピエトロはジェノバで出会い簡単な会話しか交わすことのなかったバイロンの親友ホブハウスに宛ててバイロンの遺体到着後を依頼する手紙を書いた。言葉のことは構わず、ピエトロはイタリア語で自分の心情を吐露した。バイロンの姉オーガスタに簡単な英語で手紙を書くこともピエトロは忘れなかった。


一八二四年四月二十二日、折からの嵐でバイロンの葬儀は一日延長されたが、バイロン軍団の屈強なギリシア人たちによって担がれたバイロンの棺に多くのギリシア人とギリシア独立を願う人々が別れを告げた。


一八二四年五月二十五日、バイロンの死を悼む弔砲が轟く中、バイロンの棺とイギリスに帰るフレッチャー、付き添いのティタ・ファルシエリ、そしてピエトロによって丁寧に整理されたバイロンの遺品を乗せた船は地中海、そして大西洋に向けて出帆した。ピエトロ・ガンバは別の船でイギリスのリバプールで下船してリバプールからロンドンまで、バイロンが辿った道を確かめることに決めていた。兄であり師であり、姉が愛したバイロンの棺を乗せた船を見つめながらピエトロ・ガンバはまだ見ぬ霧の国イギリスと言葉が異なる義兄ホブハウスとの再会に想いを馳せた。ピエトロは思った。
バイロン卿の詩句を胸に、バイロン卿の遺志を継いで行動すれば、バイロン卿は僕らの中で生きているのと同じだ。」


 


付記

当初から攻撃目標も運動の中心も定かでなかったギリシア独立戦争バイロンの死後まもなく、トルコのスルタンの要請によってエジプトから大軍を率いて赴いたモハメッド・アリ・パチャによっていとも簡単に鎮圧された。しかしその後、一八二七年に英仏露の連合艦隊がモハメッド・アリ・パチャの艦隊をナバリノの海戦で破って戦局をギリシア独立派に有利に導き、一八三○年、ロンドン条約によって終に現在のギリシアの南半分がトルコの支配から独立することになった。ギリシア独立の背景に、ギリシア独立支援基金を設立したホブハウスら、イギリスの人々の熱い努力とギリシア独立を支援する西欧世界での世論の盛り上がりがあったことは確実である。

 

バイロン夫人アン・イザベラ・ノエル・ミルバンク(通称アナベラ・ミルバンク)はその後二度と結婚せず、慈善事業と娘エイダの訓育に没頭し、一八六○年に六十七歳でこの世を去った。彼女はバイロンとの別離については亡くなるまで一切を語らなかった。バイロン夫人は若い頃から知性を誇っていた反面、その容姿にはとりわけ人目を引くところはなかったようである。バイロンとの別離後は急速に老け込んで亡くなるまで実際の年齢よりも遥かに年老いて見えたという。彼女の思惑については様々な憶測がなされ、アメリカ人の作家で「アンクル・トムの小屋」を執筆したストウ夫人などが彼女についてのエッセイを執筆している。なお、バイロンバイロン夫人の姓と名の間に「ノエル」というミドル名が記されることがあるが、これはバイロン夫人の母方の伯父であるノエル子爵が爵位を継げる男児を残すことなくバイロン夫人の父であるミルバンク男爵に自分の死後に莫大な財産とともに爵位を引き継いで欲しいと遺言を残したからである。バイロンとアナベラは法律上は生涯夫婦だったため、バイロンは正式にはノエル子爵となってイタリア在住中にアナベラの母が死去した後は同子爵家の財産のかなりの部分を自由に使えるようになった。第ニ話 優しき姉よ の主人公。


バイロンの娘エイダは高名な父の影響と教育熱心な母の努力によって知的に育ったが、思春期には父母をめぐる複雑な思いから神経症に悩まされた。彼女は幼少期から両親から受け継いだ知性と父に生き写しの輝く美貌を持ち合わせていた。母アナベラはエイダが詩に関心を持つことを極端に嫌がったがエイダは数学に詩を感じ、科学技術に深い関心を寄せながら成人し、十九歳の時にラブレース伯爵と結婚、三児の母となった後も研究を続け、とりわけ分析機(Analytical Engine)と呼ばれる現在のコンピューターの前身に大きな関心を抱いた。人間の頭脳に取って替わる分析機の完成には、機械そのものの開発と並んで、機械に動きを指示するしくみ、すなわちプログラミングの開発が並行して行われなければならないという彼女の主張は、現在のコンピューター・サイエンスの基礎をなしている。エイダは一八五二年に父バイロンの享年とほぼ同じ三十七歳の若さで亡くなり、生前からの遺言通り、父の墓の隣に葬られた。

ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング (ウィキペディア)


ジョン・カム・ホブハウスは親友バイロンの遺志を継いで進歩(ホイッグ)党の政治家として数々の社会改革を手がけ、自らが所有する領地や生産設備の生産性を高めて小作人や従業員の福利厚生に手厚く気を配り、それらの功績によって男爵の称号を授与された。MP(国会議員)にも複数回選出され、進歩(ホイッグ)党内外の多くの政治家から尊敬を集めた。第三話 ため息橋にて第四話 青い空、青い海第六話 若き貴公子第七話 レディー・キャロライン に登場する。バイロンとはバイロンが17歳でケンブリッジ大学に入学して以来、政治思想や文学を共にする友人だった。

 

(読書ルームII(122) に続く)

 

【読書ルームII(120) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等  1/5)

 

「閣下(シニョーリ)、気がつかれましたか?」
ピエトロ・ガンバはバイロンの横でかがみ込んで熱でやせこけたバイロンに顔を近づけた。バイロンとピエトロ・ガンバは数名の従者と共通の友人トレローニーと共に一八二三年の暮れにイタリアを立ち、一八二一年に始まったギリシア独立運動に参加していた。ギリシアオスマントルコ支配下から独立させるための運動とは言え、独立軍が戦う相手はすでに実質的に行政権を失っているオスマントルコではなかった、独立軍は得体の知れない土着のイスラム教徒の豪族などを相手にせざるを得ず、独立運動の先行きは全く不透明だった。


ギリシアのミソロンギでバイロンは熱病にかかり、臥せっていた。バイロンの寝室に入ることを許されているのはピエトロ・ガンバ、元海賊のトレローニー、イタリア人の従者ティタ・ファルシエリとイギリス人の従者ウィリアム・フレッチャーの四人だけだった。ピエトロがバイロンに言った。
ギリシア人のヘボ医者が、僕らが止めているのに瀉血が必要だといって蛭を閣下(シニョーリ)のこめかみにあてて、出血があまりひどかったので失神されたんです。覚えておられますか?」
バイロンは無言のままあたりを見回した。
「まったくここの医者ときたら、病人に水を飲ませるなとか、僕らの常識では考えられないことを指示するんです。僕は閣下(シニョーリ)に来ていただいたことを本当に後悔しています。」
バイロンは黙ってピエトロ・ガンバの顔を見つめた。ピエトロは続けた。
「閣下(シニョーリ)、これは最初から僕だけの問題でした。僕がいたから父と姉はラベンナとピサを追われたんです。僕がギリシアに来てから父が改めてローマ法王に懇願したら、どうやらラベンナに戻れる見通しになったようです。」
バイロンは黙って首を横に振った。
「閣下はピサからジェノバに移ったばかりの頃にも病気をされました。新しい土地で軍隊の生活をするのは無茶だということはわかっていたのに・・・。」
バイロンは静かに言った。
「私がイタリアから去ったから、伯爵とテレサがラベンナに戻れるようになったんだ。それに私にはここに来なければならない理由があった。」
ピエトロ・ガンバは水差しからコップに水を注し、バイロンに与えた。水を飲むとバイロンは言った。
「夢を見た。なぜここにいるのか、そればかり考えていたが、夢がその答えだった。ジュネーブ湖のほとりにいた。シェリーに出会った。なぜだ。妻に捨てられたから・・・。放浪してヴェニスに到着し、ホブハウスに慰められ、テレサに会い、君に会い、ラベンナに、ピサに、そしてジェノバに来た。」
「そうです。そして今、閣下はギリシアのミソロンギにいらっしゃいます。」
「なぜここに来たのか考えた。思い出した。イギリスでの楽しかったこと、苦しかったこと。若い頃の冒険のこと、学生時代のこと、子供の頃のこと・・・。」

「閣下(シニョーリ)、・・・。」と言ったきり、ピエトロは何を続けて言えばいいのかわからなかった。バイロンは続けた。
「今までで一番嬉しかったことは、イギリスでホブハウスがギリシア独立支援基金を設立してくれたこと・・・。一番悲しかったことは、シェリーとアレグラの死だった。残念なのはネルソンciii[1]のように、勝利を知ってから死ねないことだ。」
「閣下(シニョーリ)、そんなことをおっしゃらずに、どうか元気になってください。すぐには無理かもしれませんが、ギリシアはきっと独立します。イタリアもきっと一つになります。イタリアで姉が待っています。閣下の『ドン・ジュアン』はまだ十六巻までしか完成していないじゃないですか。ダンテが『神曲(ディヴィノ・コメディア)』百巻を三韻句法(テルツァリマ)で書いたのなら、閣下は八韻句法(オッタヴァリマ)で『人曲(ウマノ・コメディア)』というべき『ドン・ジュアン』百巻を書かなくてはなりません。閣下のジュアンはモーツアルトのオペラのドン・ジョバンニみたいな老獪なプレイボーイにならなくてはなりません。」
バイロンは力なく微笑んだ。そして言った。
「もうたくさんだ。私の英雄を休ませてあげたい。」
バイロンはここまではイタリア語で会話していた。しかし、自分を見つめているピエトロから目をそらすと英語で呟いた。
「明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)、
最後の一呼吸に至るまで、日々この単調な歩調で歩む。
昨日までには、ただ道化師が、照明を浴びて立っているだけ。
塵にまみれた死に至る道。消えろ、消えろ。はかない蝋燭!
人の命は歩む影、つたない役者。
舞台の上で威張ったり、不平を言ったり・・・。
でも、もう何も聞こえない。
道化役者の語りの中の、やかましい台詞や立ち回り、
全てに何も意味がない。civ[2]」


か細い声で英語の詩句を口ずさむバイロンの顔に、ピエトロは耳をつけるようにして内容を聞き取ろうとした。しかしピエトロには最初の文句しか理解することができなかった。そこで、バイロンが沈黙した時、ピエトロは意味が理解できた最初の文句を繰り返した。
「明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)。」
バイロンはピエトロを見つめなおして言った。
「ピエトロ、それでいいんだ。明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)。君はまだ若いんだから、私が見ることができなかったいい日を見ることがあるだろう。明日(あした)、明日(あした)、そしてまた明日(あした)。Io lascio qualche cosa di caro nel mondo (この世の素晴らしさを私に教えてくれたものがあったよ。)」
バイロンは瞑目した。そして二度と再び目を覚ますことがなかった。

 

CIV(2)  シェイクスピアマクベス」 第五幕第五場より

 

(読書ルームII(121)  に続く)