黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(115) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)1/5


さるほどに、一人の「天使」の目に見えぬ加護のおかげで
この廃嫡の「少年」は太陽の光に酔って生きつづけ
その飲むものは悉く、その食ふものは悉く、
朱金の色の神酒と化り、不老長寿の御饌となる。
風を相手にふざけたり、雲を相手に語ったり、
「十字架の道」歌ひつつ恍惚したり
森の小鳥をそのままに浮かれはしゃぐ彼を見てこの巡礼に
付き添ひの「精霊」は涙にむせぶ。
ボードレール悪の華」より「祝祷」堀口大学

 

ジョージにはわからないことがあった。ある日、学校から家に帰ると、居間のテーブルの脇で母が泣いていた。母の目の前には広げられた手紙があった。側に立っていた女中のアグネスが帰ってきたジョージに気づき、ジョージのほうに歩み寄るとジョージを抱きしめた。母は顔を上げた。
「ジョージ、おめでとう。あなたは小公子(リトル・ロード)になったのよ。私は結婚しているからあなたと一緒にイングランドに行くことはできません。だから妹のメイが私に替わって坊ちゃんのお世話をすることになります。私はここで坊ちゃんの幸福をいつでも心からお祈りします。」こう言ってアグネスはジョージを放すと涙を拭った。ジョージには小公子(リトル・ロード)なるものが何なのかわからなかった。母は立ち上がって涙を拭うとジョージに言った。
「明日から学校に行かなくてもいいのよ。小公子(リトル・ロード)になるための準備があるから。明日は先生にお別れのご挨拶をしに学校にいきましょうね。」


ジョージは学校での成績は入学した時からいつでも一番だったが、最近、「びっこ」あるいは「ちんば」と言って自分をからかう子供を喧嘩でぎゅうの音も出ないほど痛めつけ、昨年の夏に覚えた泳ぎにこの夏にはもっと磨きをかけて他の子供たちを抜きん出てやろうと考えていたところだったので、今いる学校を止めたくはなかった。
「もう、ずっと学校に行かないの。」とジョージが母に尋ねると、母は「いいえ、お引越ししたら、もっといい学校に行くのよ。あなたのことを『びっこ』と言ってからかうような悪い子供のいない学校にね。」
翌日、ジョージは母に連れられて学校に行った。校長に向かって母が何かを説明すると校長はジョージをじろりと睨んでこう言った。
「この子が小公子(リトル・ロード)にねえ。」


家に戻ると母はトランクにジョージの服をつめ始めた。自分の服もトランクにつめた。洋服箪笥の中から刺繍のあるきらびやかな服を取り出し、母はため息をつきながらそれを胸に当てた。そして、その服を丁寧にたたむとトランクの脇に置いた。ジョージは遊びに行ってもいいかと母に尋ねたが、母は「家で遊びなさい。」と言った。大きな男たちが香水屋の二階にあるジョージと母の部屋に出入りし、家具などを次々と運び出していった。ジョージはしかたなく、好きだった安楽椅子がなくなった後の床に寝そべって本を読んだ。

 

家の中の家具は日に日に減っていった。ジョージが「小公子(リトル・ロード)になった。」とアグネスに言われてから一週間立つと、家の中にはベッドと食卓以外にはほとんど何も残っていなかった。ジョージが好きだった物語の本も消えうせ、聖書だけが残された。
「明日、ベッドと食卓を取りに人が来ます。そしたら別の家に引越します。」と母が言った。
翌日、母が言ったとおりに数人の男が家を訪れ、ジョージが物心ついてから母と一緒に住んでいた家には本当に空になった。ジョージは母に連れられ、家の外で待っていたアグネスと一緒に馬車に乗り込んだ。聖書を抱えているジョージを見てアグネスが言った。
「信心深い子だこと。」
ジョージが聖書を抱えているのは信心深いからではなく、これが唯一残された本だったからだった。ジョージは八歳の時に、教会の牧師が演壇の上で広げて説教の元にする聖書には数知れない冒険物語や不思議な物語が隠されているということを発見した。なぜ、牧師がそのような面白い話をせず、教訓の材料としてしか聖書に触れないのか、ジョージにはその理由がわからなかった。牧師は本が読めないみじめな人々に対して面白い話を隠しているのではないかとさえジョージは思っていた。ジョージは母やアグネスが聖書に触れる時の態度から、母やアグネスは聖書をまじないの道具だと思っているのではないかと思った。ジョージにとって、聖書は空想の材料がつまっている宝の箱だった。
ジョージと母とアグネスが乗った馬車は見慣れたアバディーンcii[1]の街中を通り抜け、いつしか街外れに来ていた。三人はそこで馬車を降りた。
「さあ、ここが私たちがこれからしばらくの間、住む場所です。」と母が言って指差したその場所
はジョージが街中で一度も見たことのないようなみすぼらしい小屋だった。母が入り口の扉を押す
と扉はきしんだ音を立てて開いた。
「ここにはテーブルもベッドもないのよ。今日からしばらくの間、私たちは藁布団で寝ます。」と母がジョージに言った。そして母はアグネスに向かって言った。
「もうしばらくの間だけだけれど、ジョージをよろしくね。私はまだ訪ねないといけないところがいっぱいあります。このままでは旅立つことはできません。」
「ええ、坊ちゃんとお別れするのはつらいですが、坊ちゃんのためです。最後だと思って一生懸命お仕えします。」とアグネスは答えた。
ジョージには母とアグネスとの会話の意味がわからなかった。「小公子(リトル・ロード)になった。」と言われてなぜ、学校を止めてこのようなみすぼらしい小屋で過ごすことになったのかもわからなかった。
小公子(リトル・ロード)の意味さえ、それが良いものなのか、良くないものなのかもわからなかった。
その夜、母はトランクを二つ重ねた仮ごしらえの書き物机の上で、蝋燭の明かりを便りに手紙を書いた。五通は書いただろうとジョージは思った。藁布団から漂うほのかな匂いは心地よかったが、ちくちくする感触にすぐには慣れることができず、ジョージはとうとう母が最後の手紙に封をし、部屋の反対側の藁布団に横になるまで薄目を開けて母を見つめ続けた。

(読書ルームII(116)に続く)