黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(37) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  1/18 )

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ヨーロッパ大陸はナポレオンのおかげで火薬庫同然だ。」
クィーン・エリザベス号の船尾からイギリスの陸地を仰ぐことができなくなってから、バイロンは黙って船首近くまで歩いて行き、陸がその向こうにあるはずの南の水平線を見つめながらこうつぶやいた。誰に向かって言ったわけでもなかったが無言のうちにバイロンに従っていた友人のホブハウスは打てば響くような返す言葉を心得ていた。
「われわれがこうやって暢気(のんき)に船で旅していられるのも・・・」こう言ってホブハウスは船首を振り仰いだ。
「あのユニオン・ジャックのおかげだ。」
一年前にケンブリッジ大学を卒業した二十一歳のバイロンと、共に文学を志す一歳年上の親友のホブハウスは、いわゆる「卒業旅行(グランド・ツアー)」と呼ばれる旅行の途上にあった。卒業旅行(グランド・ツアー)とはケンブリッジ大学やオックスフォード大学などの名門大学を卒業したイギリスの貴族や富豪の子弟が、多くの場合家庭教師を伴い、フランスやイタリアに長期間滞在して教養や語学力を磨く旅を意味していた。しかしフランス大革命以降、続く戦争によってこの習慣は途絶えていた。ただ、約四年前にイギリスのネルソン提督が率いる艦隊はナポレオンの部下ビエヌーブに率いられたフランスとスペインの連合軍をジブラルタル海峡の西の端、トラファルガー岬の沖で破り、イギリスの海上での覇権を確乎たるものにしたせいで、大西洋や地中海の海上交通の安全は確保されていた。一方、大陸では同年の末にナポレオンがアウステルリッツでロシアとプロシアの連合軍を破り、ヨーロッパ大陸におけるフランスの覇権を強固なものにしていた。


「死ぬ時にはネルソンのような死に方をしたいものだxxxii[1]。」とバイロンがまた無表情のままで言った。これにはホブハウスも親友の顔を覗き見ながら聞き返すしかなかった。
「おいおい・・・君はナポレオンを崇拝していることで有名じゃないか。」
バイロンはそれでも表情を変えずに言った。
「ネルソンが破ったのはフランス人ビエヌーブであってナポレオンではない。」
ホブハウスにはバイロンが言わんとしていることがこの一言で手にとるようにわかったのであるが、わざととぼけて言ってみせた。
「ナポレオンだってフランス人じゃないか。」
「いや。彼はコルシカ人だ。」
「コルシカはフランス領だ。」
「コルシカはサルジニアと同じで独立国であるべきだった。ナポレオンの親父はそのために戦った。」
「ナポレオンはイタリア人だと言いたいんだろう?」
バイロンは黙ったまま海を見つめていた。ホブハウスはバイロンのイタリアびいきを承知していた。学生時代、たしなみとして必須だったフランス語とラテン語、古典ギリシア語に加えてバイロンはイタリア語を学び、他の言語を上回る速さでこれを習得してたちどころにダンテやタッソーの詩を原文で読むようになっていた。またバイロンは、ナポレオンの苗字をフランス風の綴り”Bonapart” ではなくイタリア風に”Buonaparte”と綴り、それを決して改めようとはしなかった。


「われわれがイギリス人でなかったら、大陸を横断してイタリアに行けたはずなのに・・・。」とバイロンが言い、「そんなことはいくら考えたって無駄だよ。」とホブハウスは苦笑いして空想好きの友人の肩を軽くたたいた。

「それよりも、マルタ島への直行便がだめになってリスボンで乗り換えなくてはならなくなったこの偶然をどう生かすかを考えよう。」
リスボンはウェルズリーxxxiii[2]が掲げるユニオン・ジャックで溢れているんだろうな。」バイロン
はこう言って船首のユニオン・ジャックを仰いだ。
リスボンだけなら許せる。リスボンはわれわれイギリス人にとって大陸で産出するワインやその他の物資を輸入するための大切な港だ。ナポレオンがヨーロッパに自由主義を打ち立てるために大陸を封鎖して保守的なイギリスと大陸を切り離したのはもっともだが、物資の交流まで阻止されるのはアメリカの植民地を失ったばかりのわれわれにとってはやりきれないからな・・・。」ホブハウスはこう言ってユニオン・ジャックを仰いだ後でバイロンに向かって尋ねた。
「最近聞いた、ウェルズリーのスペインへの侵攻の噂はどう思う。ウェルズリーはスペインから要請があったと言っているそうだが・・・。」
「スペインの誰が要請するんだ・・・。チャールズ四世もフェルディナンドxxxiv[3]ももはやスペインを代表しているわけではない。それにやつらはたった四年前にナポレオンと組んでネルソンをトラファルガー沖に葬ったばかりじゃないか。でっちあげだよ。あのアイルランドの成り上がり男xxxv[4]の・・・。あの王党派(トーリー)の犬めはナポレオンの二番煎じの戯画みたいに振舞いたいだけなんだ。」バイロンはこう言うと口をつぐんだ。
太陽が広大な大西洋の上に広がる西の空に傾き、夏の夜風が吹き始めたころ、欄干に寄りかかっていたバイロンはまた口を開いた。
「ナポレオンは北イタリアをオーストリア専制君主の支配から解放した。そして、彼は東ヨーロッパでも、農奴を解放し、法典や度量衡を制定した。」
「他民族による支配からの解放、農奴解放に法典制定・・・全て、海に囲まれて国王と議会の下で安穏に生きているわれわれイギリス人には直接には関係のないことだ。」とホブハウスは言った。
「われわれは誰一人として自分が生まれる国を選ぶことはできない。ナポレオンも例外ではなかった。しかし、彼は歴史を作る男だ。」とバイロンが言い、「リスボンで我々は何を見ることができるのだろうか・・・。何かを見ることができれば幸いだ。」とホブハウスが言って、二人はまた黙った。

(読書ルームII(38) に続く)

https://kawamari7.hatenablog.jp/entry/2021/08/26/214621

 

【参考】

ダンテ・アルギエレ (ウィキペディア)

 

トルクァート・タッソー (ウィキペディア)