黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(24) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  1/13)

このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。ヴェネツィアの写真を多数掲載予定。

 

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ヴェニスの「ため息橋」はサンマルコ広場の隅、グラン・カナル(大運河)の河口でアドリア海を背にする地点から望むことができる。}

 

わたしはヴェニスのため息橋の上に立つ。
宮殿と牢獄がその両端にそびえる。
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タッソーix[1]の詩句の掛け声も絶え、
ただ無言のゴンドリエの、櫂の音がこだまするだけ。
「ハロルド卿の巡礼 第四巻」巻頭

 


「何がどうなっているのか全くわからなかった。」とバイロンは親友のホブハウスに向かってやりきれなさそうに言った。
「僕のどこがどういけなかったのか、全くわからないものだから、自己弁護のしようもなかった。
気がついたら、僕は世間の非難の矢面に立っていた。」


バイロンが、ケンブリッジ大学で知り合って以来変らない友情を感じているジョン・カム・ホブハウスに初めて妻との離別について話したのはヴェニスに到着してしばらくしてからだった。
船 頭(ゴンドリエ)が漕ぐゴンドラに揺られながら、バイロンはようやく、「そのこと」に関して重たい口を開いた。十一月の陽光が運河のたゆたう水面に反射してきらめいていた。二人は買い物に出かけたついでに、つい最近誘われたアルブリッチ伯爵夫人のコンヴェルサチオーニ(社交サロン)の場所を確かめてきた。その帰りの水路でのことだった。


バイロンと子爵令嬢アナベラ・ミルバンクとの結婚、そして短い期間を経ての破局に至る間、ホブハウスは陰になり、日向になりしてバイロンにつくしてきたが、バイロンとその妻との不仲が決定的になってから、不仲の理由をあえてバイロンに尋ねることはなかった。シェリーらと同行していた間も一同のリーダー格のバイロンにそのことを尋ねる者はいなかった。


「世間の僕に対する中傷を知っているだろう。僕には全く覚えがない。いや、そうかもしれないと推測させるような言動を僕は取っていたのかもしれない。でも、例えば、僕が同性愛者だということ・・・学生時代の僕のジョン・エーデルトンに対する好意、そしてエーデルトンを『サーザ』と呼んで彼の死を悼んだ挽歌・・・。どうしてこれが同性愛なんていう場当たり的で、動物的で、ソドムやゴモラx[2]で行われていたような自然の摂理に反する行為と混同されなければいけないんだ・・・。しかも、彼が死んだ後はロバート・ラシュトンが僕の相手をしたという。聞きただされたってロバートがそんな事実を肯定するわけがない。そもそも事実自体がないのだから・・・。でもロバートは僕の使用人だから口をつぐむのは当然だ。そうするとそれでもう、僕の同性愛の事実が証明されたことになるというんだ。僕とバイロン夫人との間には正常な夫婦の関係があり、もし僕が同性愛者だったとしても、夫としての義務を果たしていれば問題ないはずなのに・・。この単純な事実まで僕が同性愛者、いや両性愛者(バイセクシュアル)だという根拠になった。」
こう言うとバイロンは揺れるゴンドラの上でホブハウスの顔を黙って見つめた。ホブハウスはどう答えていいのかわからなかった。
「それから、僕と姉との関係。確かに姉は僕が今までに知り合ったどの女性にもない優しさを備えていて僕に安らぎを与えてくれた。でも、姉の娘のメドゥーラが僕の子供だなんていうのはでたらめだ。姉の夫が留守がちなんで僕は姉の子供達の父親役を務めようとしたことがあった。そしてメドゥーラが生まれた時に名づけ親になった。何よりも僕にはバイロン夫人がいた。これもさっきの同性愛と同じで話に尾ひれがついて広がっていた。そして・・・。」
「もうよせよ。」とホブハウスはバイロンを制した。
「いや、言わせてくれ。一番ひどい中傷、それは・・・」とバイロンは一旦息をつめ、声をひそめて言った。
「異性間ソドミスト・・・。誰がこんなことを言い出したんだ・・・。」
今度はホブハウスがやりきれなくなって頭を振り、そして言った。
バイロン夫人ではないことだけは確かだ。万が一、それが真実だったとしても彼女の口からそんなひどい言葉が洩れるとは考えられない。」
「そう。彼女は僕と別れて以来、世間に対して沈黙を守っている。そして世間はその沈黙さえもが僕に対する数々の中傷の根拠であるかのように取るんだ。もっとも彼女が沈黙しているのは世間に対してだけではない。僕に対してもだ。思えば新婚当初から彼女は心を開いてはくれなかった。」
バイロン夫人が語ったと言われることで僕が唯一本当かもしれないと思うのは、君が彼女に対して決して心を開こうとはせず、彼女は通常の夫婦間のように君と心を通わせようとして疲れ果ててしまったということだ。」
「そうかもしれない。でも、夫婦ではあっても心なんか何年も通わせず、同じ屋根の下でも別の部屋で寝起きして、何をするのも別々だけれど外向きに夫婦としての対面だけは保っているなんていう夫婦はいくらだっているじゃないか・・・。」
バイロン夫人はそれが嫌だったんだろうな。女性の権利についての急進的な考え方を持っていることにかけて、彼女の母親はこの前まで一緒だったメアリー・ゴッドウィンの生みの母親と肩を並べられるほどだという噂だし、バイロン夫人も人並みはずれた才気を持っている・・・。」
「結婚制度に反対していたゴッドウィンと熱烈な恋愛をして、彼と正式な結婚をして、本を書いて、メアリーを生んで死んでいったウルストンクラフトの人生は幸せだったと言えるんだろうな。バイロン夫人もそんな人生に憧れていたのかもしれない。彼女はエイダを生んでも死ななかったが、エイダを生んだ機会に別の人生が欲しくなったんだ。でも、世間の僕に対する中傷はあまりに唐突で、バイロン夫人が経験したかもしれない事実と何の関連もないでたらめばかりなんだ。」
「僕もそう思う。僕は君に対するこういった一連の中傷を裏で捏造している者がいると思うんだ。」
「誰だ?キャロxiか?」
ホブハウスは黙ってうなずいた。

(読書ルームII(25) に続く)

 

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【注】

キャロ = キャロライン・ラムは第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムの妻

後の「第七話 レディー・キャロライン (一八一二年 イギリス)」で大活躍(???)する女性。文才に恵まれていたがバイロンを含む数々の相手との不倫によって有能な政治家だった夫のウィリアム・ラムを衆議院選挙(改選)で落選させ、爵位を継いで貴族院議員となるまで政界からの一時引退を余儀なくさせた。ウィリアム・ラムは政界復帰後に支持者の要請を受けてキャロラインと離婚し、首相の地位に上りつめた。詳しくは上に掲げたウィキペディアのURLをお読みください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%A0_(%E7%AC%AC2%E4%BB%A3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%AD%90%E7%88%B5)?wprov=sfti1

 

ヴェネツィア共和国 (7世紀末〜1797年) (ウィキペディア)

 

ヴェネツィアの風景 (ハテナブログ)

 

トルクァート・タッソ または タッソー (ウィキペディア)