黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(124) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等 5/5

 

付記2 (史実との異同)

 

本作は歴史小説ではあるが、史実をできる限り詳細に写すことが目的ではなく、ナポレオン失脚後のヨーロッパを生き抜いた詩人の模索を綴るために「夢」という形を取ったものである。従って中には史実を大幅に逸脱している箇所やフィクションもある。史実との異同は最後に掲げるとして、物語とは別に現代の視点から特記したいことにバイロンの故国イギリス以外で彼が関わったり見聞したりした国々の現在の様子である。折しも数日前に東京2020年オリンピックが閉幕したが、イタリアの陸上選手の活躍は目覚ましく、男子走り幅跳びや100メートル走でイタリア人が金メダルを獲得した。イタリアではバレーボールやサッカーなどの団体競技も盛んで競技人口が多く、オリンピックや国際大会において優秀な成績を収めることが多いが、イタリア人たちは1871年の統一なしにこれらの快挙を成し遂げることができただろうか? またギリシア古代オリンピック競技会を開始した栄光の国として四年に一度のオリンピックで必ず真っ先に会場に入場する国であるが、ギリシア人がトルコの支配下にあったままでこの栄光が果たしてギリシア人に与えられていたであろうか? 一方、スペインがカトリック教徒を軸にした民族主義に目覚めたのは歴史を遡って1492年の国土回復以前であり、だからこそ19世紀初頭のナポレオン侵攻の際にバイロンと親友のホブハウスが目撃しフランシスコ・ゴヤが銅版画に留めたような激しい抵抗活動をスペイン人たちは行ったのであるが、これはナポレオンが掲げた「自由、平等、博愛」の理念が間違っていたからではない。この事実はむしろ、いかなる理念も対話の中で磨かれ、人々の日常生活の中でどう生かされるかが論じられてこそ価値があるという真理の証である。このような理由からナポレオン失脚後の西欧にはロマン主義に通じる理念と共に民族主義の嵐が吹き荒れたのである。イギリスで演説者として議会に立ったことがあり、英語を駆使する上での言葉の魔術師であり、古典語を含むヨーロッパの数カ国後に通じていたバイロンは理念と理念の資金石たる民族主義とそれを支える議会制民主主義などとの制度に同時代人の誰よりも精通していたはずである。そしてバイロンの夢想の全てとは言わないが大半は多くの人々の努力によって今日では実現されているか実現されつつあると筆者は信じたい。

 

史実との異同

第一話. レマン湖の月 (1816年夏 スイス )
・ ポリドリをバルコニーから飛び降りさせたのはバイロン
ジュネーブ湖畔で四人の間で語られた話は全て、怪奇小説集「ファンタスマゴリア」に類似した怪奇物語だったが、このうちで世界文学に題名を留めたのはもちろん、メアリー・ゴッドウィン・シェリーの「フランケンシュタイン」でバイロンが考えた吸血鬼の物語をポリドリが受け継いで完成させた。パーシー・ビッシュ・シェリーが語った話については内容不明なので虚構である。
第二話 優しき姉よ (1814年 ~ 1816年春 イギリス)
・アン・イザベラ・ミルバンクが女学校時代の親友エスターに送った手紙はすべて虚構。またバイロンとの別離の理由については憶測がなされているだけで今もって不明である。本挿話は死に瀕した人間は自分と関わった人間の意図や隠された本心をある程度知ることができるというわたしの勝手な思い込みに基づいている。

バイロンと異母姉のオーガスタ・リーと関係はウィキペディアに記載されているほど道徳的にセンセーショナルなものではないと筆者は信じている。若い頃から相当の年齢に至るまで王族の相談相手を務めたというオーガスタの経歴が彼女の聡明で安定した人格を証明している。

第三話 ため息橋にて  (1816年秋-1818年初、イタリア)
・ この章には大幅な脚色がほどこしてある。バイロンとホブハウスは十一月十日にヴェニスに到着したが、ホブハウスは十二月三日にローマに向けて旅立ち、クリスマスからカーニバルの季節にかけてはバイロンと生活をともにしていない。ただし、伝えられているホブハウスの人柄、バイロンとの関係、「ハロルド卿の巡礼 第四巻」がホブハウスに捧げられている事実などから、傷心のバイロンを慰め、創作意欲を回復させるためにホブハウスが多大な努力を払ったことは間違いない。
バイロンとパン屋の妻マルガリータ・コグニとの関係はローマ旅行の後で生じ、バイロンはラ・ミラの別荘にマルガリータ・コグニを伴ったらしいが、ストーリーを単純にするためにその事実は省き、マルガリータ・コグニの名前だけを借りた。
バイロンヴェニスフリーメーソンとの関連を裏付ける確証はないが、「ベッポー」の第三節の最後に “Freethinker”という言葉が用いられている。
第四話 青い海、青い空  (1809年夏 ~ 1811年秋   ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス)
・ フランシスコ・ゴヤバイロンと同時代人でマドリッドを中心に活躍した画家だが、アンダルシア地方も頻繁に訪れている。出生地はスペイン北部のサラトガで、この地の商人はフランス語が堪能だったはずである。ゴヤはこの地の幼馴染の商人と深い親交があった。バイロンとホブハウスがゴヤの使者に出会ったというエピソードはもちろん虚構である。
バイロンが「ハロルド卿の巡礼第一巻、第二巻」に着手したのは一八一九年十月、アルバニアにおいてであるが、正確な日付には本人とホブハウスの記述に二、三週間前後の異同がある。しかし、ジトラの悪天候の中でバイロンがホブハウスとはぐれた後に本腰を入れたと考えるのは自然であろう。バイロンはこの時にホブハウスに従ってジョン・エーデルトンを歌った詩稿を破棄したしたことを一生後悔した。
・ ホブハウスとアン・エーデルトンからの手紙は内容を推測したものであるがエーデルトンとマシューズ、加えてバイロン自身の母のこの時期の死は全て事実である。
第五話(小公子)(1798年夏 ~ 1802年夏 イギリス)、第六話(若き貴公子) (1805年夏 ~ 1809年夏 イギリス)
バイロンの幼少期と青年時代初期に関しては詳らかでないか検証できないことが多く、概ねフィクシンであるがバイロンの執事を彼が死ぬまで務めた弁護士のハンソンや隣家の豪農の娘メアリー、ケンブリッジ大学でのバイロンの学友、ケンブリッジ聖歌隊の主席歌手だったジョン・エーデルトンらは実在の人物である。
第七話 レディー・キャロライン  (1812年 イギリス)
バイロンとキャロライン・ラム夫人が偶然ではなく夫人からの招待状によって会った時、夫人はサミュエル・ロジャース、トマス・ムーアとの乗馬から戻ったばかりでこの二人が同席していたのは事実であるが、出会った場所に関して、ホランド・ハウスとメルボルン・ハウスの両方の記載がある。状況からみてメルボルン・ハウスが自然だと思われる。なお、四人は屋内で出会ったが、ロジャース/ムーアにメルボルン子爵家について語らせるために屋外で出会ったという脚色をほどこした。
・ 一八一二年七月二十九日、ロンドン、セント・ジェームズ街のバイロンのアパートをホブハウスが訪問中にラム夫人が男装して現われ、女装で帰っていったというのは史実であるが、夫人の訪問中に何が起きたかは不明。なお、ホブハウスはこれより前にラム夫人の母親からラム夫人とバイロンを引き離すよう依頼されている。同年八月十二日のラム夫人の失踪と、発見後に夫と母親とともに
アイルランドに出発したことは史実。
・ オックスフォード夫人とバイロンとの馴初め、なぜバイロンが同夫人と急速に親しくなったのかなどは不明。ホブハウスのさしがねだったというのは虚構である。

・なお、章頭のバイロンの演説はイギリス議会で行われたトップ10の名演説として記録されている。

第八話  暴風雨(1818年 ~ 1822年 イタリア)
バイロンは北イタリアのカルボナリに関わっていたというだけで、その役割については記録がない。バイロンがカルボナリのメンバーに議会制度のありかたに関する考え方を提供したというのは推測。
バイロンとピエトロ・ガンバが最初に出会った時にはテレサ・グイッチオーリは旅行中でラベンナ
にはいなかった。
・ 一八二○年の暮れにバイロンの屋敷の外で起きた殺人事件に関しては、殺された男の名前と軍隊での身分などがわかっているだけで、真犯人も殺人の動機に関しても全くわかっていない。したがって殺された男が二重活動家だったというのは仮説。
第九話 スコットランドの荒野 (1798年夏 イギリス)
スコットランドアバディーンでの香水屋の二階での間借り、ノッティンガムシャー、ニューステッドに旅立つまでの掘っ立て小屋での仮住まい、このころから始まった母親との確執などを素材にした虚構である。
最終話 ギリシアでの死 (1824年)
バイロンの死を見取ることのできた人間の中で、英語が理解できたのはトレローニーとフレッチャー、バイロンの話し相手になれる知的レベルの人間はイタリア語しか話せないピエトロ・ガンバだった。バイロンシェリーに関する回想を執筆したトレローニーには文才はあったが、彼の知的なレベルやバイロンとの親密度は不明。そこで、バイロンを看取ったのはピエトロ・ガンバだったということにして、瀕死のバイロンマクベスの台詞をしゃべらせた。バイロンが臨終の時に発したイタリア語は、本当に臨終の際に発せられたかどうかはわからないが、ピエトロ・ガンバが確かに聞き取ったとされている。

(完)