黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(55) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第五話  小公子(一七九八年夏 ~ 一八〇二年夏  イギリス  1/9 )

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少年の日の数々の場面よ、それらに纏わる懐かしい思い出が
過去とは比べようもない現在を曇らせる。
科学の知識が頭脳の内部を初めて照らし、
夢に満ちた友情が育っては消えていった少年だったあの頃。
「丘の上から村とハロー校を遥かに望む」より


男爵家の執事役をおおせつかった弁護士のハンソンは、先代が荒らし放題にした領地のもめ事やほったらかしになったままの借金返済の請求書などでここ数日間、頭の痛くなるような毎日を過ごしていた。ハンソンの名目上の主人で第六代バイロン男爵である坊ちゃんは十歳にして十三世紀に建てられた大きな石造りの邸宅ニューステッド・アベイとそれに付属する森林および三千二百エーカーlx[1]の耕作地と十五人の小作人を抱える地主だった。坊ちゃんはニューステッド以外にもワイモンドハム、ノーフォーク、ロッシュデール、そしてランカシャーに土地を所有していた。


先代のバイロン男爵が亡くなり、坊ちゃんに爵位の相続権があることを坊ちゃんの母親であるバイロン夫人に知らせ、バイロン夫人から旅費の工面ができてスコットランドアバディーンからノッテインガムシャーのニューステッドに来るという知らせを受け取ると、ハンソンはすぐさま妻を連れてロンドンの自宅からバイロン男爵家の居城であるニューステッド・アベイに赴いた。そしてニューステッド・アベイを坊ちゃんとその母親、そして子守り女のメイ・グレーらが気持ちよく住めるように整えて三人を迎え、三人が落ち着いた頃に妻をロンドンに返して従者一人だけを残してニューステッド・アベイに泊り込んで事務の仕事をしていた。明日の朝早く、ロンドンにいる妻への伝言と子供達への土産を携えて従者が出立することになっていた。ハンソンは妻への重ねての伝言を思い出し、燭台を手に取るとまだ眠ってはいないはずの二階の従者の寝室に行こうとした。その時、階段の前で階段を下りてきた子守り女のメイ・グレーとすれ違った。


なぜか理由はわからなかったが、ハンソンはすれ違った時のメイ・グレーの態度に普通ではない何かを感じた。メイ・グレーは尊大な態度で、階段を下りしな、ハンソンを見るなりハンソンから目をそらした。ハンソンは平然を取り繕ったが、メイ・グレーが奥の部屋に姿を消すと、階段を駆け上がり、従者の部屋ではなく坊ちゃんの部屋の扉を叩いた。ハンソンは静かに扉を叩いたつもりだった。しかし扉を叩く音は屋敷の中に大きく反響した。ハンソンは坊ちゃんはまだ眠っていないと確信していた。しかし、部屋の中から返答はなかった。「坊ちゃん、ハンソンです。もうおやすみになっていますか。」と言いながらハンソンは再び、扉を叩いた。ハンソンは耳を澄ましたが我慢しきれずに坊ちゃんの寝室の中に飛び込んだ。


坊ちゃんは毛布を頭に被ってベッドに横たわっていた。「坊ちゃん。」とハンソンは声をかけた。返答はなかった。ただ、毛布の下の坊ちゃんの荒い息遣いを示すように毛布が上下していた。「坊ちゃん。」とハンソンはまた叫んだ。返答がないのでハンソンは思い切って坊ちゃんが被っている毛布を腰のところまで引き剥がした。坊ちゃんは上半身裸で横たわっていた。そしてハンソンが毛布をめくるのと同時に坊ちゃんは反対側の壁のほうを向いた。ハンソンは坊ちゃんの姿と態度を見た瞬間に全てが理解できたと思ったが、坊ちゃんに何をどう言ったらよいのかわからず、そっぽを向いた坊ちゃんを見つめてしばらく黙っていた。
「坊ちゃん。明日、お話ししましょう。今日はゆっくりお休みなさい。」とハンソンは穏やかに言い、引き剥がした毛布を引きあげて坊ちゃんの上半身を顎の下まで覆った。


翌日、飼い犬と戯れたり書斎に入り込んで大きな安楽椅子の上で顔を本に突っ込むようにして読書をしている坊ちゃんの姿にいつもと変わったところはなかったが、ハンソンは任されている事務の仕事をしながら坊ちゃんのことばかり考えていた。メイ・グレーを坊ちゃんから引き離す必要があった。スコットランドアバディーンに姉がいるというメイ・グレーに暇をやってスコットランドに返すことは簡単だった。しかし、坊ちゃんが納得するように説明をすることは難しかった。坊ちゃんは十歳になる今まで父親というものを知らず、女性だけの手によって育てられてきた。この事実さえなければ、ハンソンは自分の三人の息子たち、チャールズ、ハーグリーブスニュートンとわけ隔てなく坊ちゃんと接するつもりだった。


翌日、坊ちゃんが寝る時間に坊ちゃんの寝室に向かおうとしたメイ・グレーをハンソンは制した。
「坊ちゃんはもう大きいから子守りは要らない。」とハンソンは穏やかに言った。するとメイ・グレーはつっけんどんに答えた。
「坊ちゃんに本を読んでさしあげるんです。」
ハンソンは嘘だと思った。坊ちゃんは毎日のように書斎に入り込んでは読書に没頭していたが、坊ちゃんが手にしている本は子供の本ではなかった。
「坊ちゃんは大人の本も自分で読める。本を読んでもらわなければ眠れないなどというのなら、それは甘えだ。」ハンソンがこう言うとメイ・グレーは表情に敵意を露にした。しかし、女主人である坊ちゃんの母にハンソンを坊ちゃんの父と考え、ハンソンの言うことには逆らわないよう言われているため、メイ・グレーはふてくされた表情で奥の自分の部屋に戻った。


二階に上がり、昨日と同じように坊ちゃんの部屋の扉を叩いてから中に入ったハンソンは毛布にもぐりこんでいる坊ちゃんの脇に腰掛けて優しく語りかけた。

(読書ルームII(56) に続く)