黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(58) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第五話 小公子(一七九八年夏 ~ 一八〇二年夏  イギリス  4 /9 )

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ニューステッドで暮らす二回目の夏、もはやメイ・グレーが来ることもない寝室の窓辺に寄りかかって、薄暮の中に沈む窓の外の沼沢地をあたりがすっかり暗くなるまで眺めてから眠りにつくのが坊ちゃんの習慣になった。昨年の夏と同様、坊ちゃんは猟犬と戯れて遊んだが、今度の夏には屋敷の周りをもっと良く知り、特にアバディーンで覚えた水泳の腕前を伸ばせるような湖か川に連れていってほしいと坊ちゃんはマレーに頼んだ。


子馬に乗った坊ちゃんを連れてマレーは近くの小川に行った。流れに顔を出している岩の上を滑ってころばないようにおっかなびっくり渡っていく小作人たちを見ながら、水の中にいる坊ちゃんは小作人たちに水をかけたりしてはしゃいだ。
「大人の本を読んでいても坊ちゃんはやはりまだ子供だ。」とマレーは微笑んだ。


ある時、泳ぎ疲れて木陰で休息を取っている時、坊ちゃんがマレーに尋ねた。
「ねえ爺や、人の魂というものは死んだ後でもこの世界にいるのだろうか、それとも天国や地獄にいってしまうのだろうか?」
「天国に行くのも地獄に行くのも、この世の中にさまよっているのもあるでしょう。」とマレーは答えた。
「その違いはどうして起きるの?」と坊ちゃんが尋ねた。
「この世でしたいことを全部やって満足して亡くなった人の魂が天国に行くんです。この世で人を困らせたり苦しめたりした人の魂は地獄に行き、この世の中に諦めきれないことがあるまま亡くなった人の魂が天国にも地獄に行かずにこの世の中をさ迷うんです。」
「じゃあ、魂がこの世に残るということはいいことじゃないんだね。僕、死んでからもこの世に残れるほうがいいのかと思った。」
「とんでもない。天国が一番ですよ。坊ちゃんも天国に行けるように努力してください。私も毎日そのように努力し、そうなれるように神様に祈っています。」こう言いながら、マレーはふと先代が犯したとされている恐ろしい殺人事件について坊ちゃんに話したものかどうか迷った。マレー自身は先代が人殺しを犯すその場面を目撃したわけではなかった。しかし、隣接する郷紳チョワーズ家の者やチョワーズ家の小作人たちは一人残らず先代の第五代バイロン男爵がチョワーズ家の先代を居酒屋で殺したと信じていた。実際、マレーが目撃したのは、居酒屋の中で形相凄まじく目を開けたままこと切れていた先代のチョワーズだけだった。先代のバイロン男爵はその脇で震えていた。
「ご主人さま!」とマレーが叫ぶと周囲の人間は全てバイロン男爵に責任があるかのようにバイロン男爵とマレーのほうをふり向いた。主人達が飲んでいるのとは別の部屋で食事をしていたチョワーズの従者とマレーは居酒屋の女に医者を呼びに行くよう言われただけだったが、二人ともわけがわからず、まず何が起きたのか確かめるために主人たちが飲んでいた部屋に入り、この光景を目撃した。


チョワーズの従者が医者を呼びに走り去り、マレーは気が動転している主人を落ち着かせようとした。医者が駆けつけてバイロン男爵に気付け薬を与え、チョワーズには外傷がなく、不意の心臓発作か脳溢血で絶命したと言った。マレーは医者の言葉を信じて主人には非がないと信じた。また、バイロン男爵にももちろん何の咎めもなかった。しかし、死んだチョワーズの恐ろしい形相をマレーはその日から忘れることがなかく、バイロン家に何か不都合なことが起きる度にマレーは死んだチョワーズの呪いではないかと思い、初めて坊ちゃんを迎えた時にも坊ちゃんの奇形の脚はチョワーズの呪いによるのではないかと一瞬思った。
「しかし・・・。」とマレーは坊ちゃんの曲がった脚を見てチョワーズの呪いのことを思い出す度に自分に言い聞かせた。「チョワーズがもし先代を本気で呪ってその子孫に祟るのならば、脚の形を異常にするだけではなく、顔を醜くするか、知恵遅れにするだろうな。」こう考えてマレーはバイロン男爵家の当主である坊ちゃんが先代のチョワーズに祟られているという考えを頭から追い払った。坊ちゃんは美しく、賢かった。


「マレー、何を考えているの。」と坊ちゃんが尋ねた。マレーはわれに返ってこう答えた。
「坊ちゃん、人をひどい目に遭わせると、たとえお咎めがなくても神様が見ていらっしゃって、必ずしっぺ返しを受けます。どうか、お咎めのあるなしに関わらず、決して人を困らせるようなことはなさらないでください。」
「しっぺ返しをするのは神様なの、それともこの世をさ迷っている魂なの・・・。」と坊ちゃんはマレーがさっき言ったばかりの魂の行き場の話を覚えていて尋ねた。
「さあ・・・。でも、しっぺ返しをするのは神様だけでなければいけません。人間がしっぺ返しをしようとするときっと悪いことが起きると私は信じています。」
坊ちゃんはマレーにそれ以上は何も尋ねなかった。
夏が終わり、ノッティングハムに戻った坊ちゃんはグレニー・スクールに通い始めた。坊ちゃんは脚のことで同級生にいじめられることはなかった。しかし、ハンソンががっかりしたことに、グレニー校長がやんちゃ盛りの子供たちが坊ちゃんを脚のことでいじめないようにするために取った方法というのは、坊ちゃんが「小公子(リトル・ロード)」で特別な身分だということを他の子供たちに教え、曲がった脚もいわば特別であることの対価として坊ちゃんが甘受しなければならないもので、揶揄したりするのは当たらないと子供たちに理解させることだった。


坊ちゃんの人並み外れた知性を校長がどう扱ってくれているのか、ハンソンはしばらくの間は何も知ることがなかった。ただ、坊ちゃんは「授業がつまらない。知っていることしか教えない。」とこぼしていた。しかしある時、坊ちゃんがいるノッティングハムを訪ねたハンソンは居間の安楽椅子に腰掛けた坊ちゃんが分厚い本を顔を埋めるようにして読んでいるのを見た。
「坊ちゃん。何を読んでいらっしゃるのですか?」とハンソンは訪ねた。
プルタークの英雄伝。」と坊ちゃんは答えた。「これを読み終えたらクセノフォン、そしてヘロドトスも面白いと校長先生が言った。」
ハンソンは納得した。グレニー校長は坊ちゃんだけを特別に自分の図書室に呼んで、坊ちゃんに本を貸し与えて教育しているのだった。成長するにつれてますます彫りが深くなり美しさを増してきた坊ちゃんの本に没頭する姿を見てハンソンは思った。「福の皮を被り、奇形の脚を持って生まれた坊ちゃん、人並みはずれた美貌と知性、激しい気性と自尊心を持つ坊ちゃんはどんな大人になるのだろうか?」
坊ちゃんが生まれた時に福の皮を譲り受けたハンソンの船長の兄は大西洋でフランス船の駆逐に大きな手柄を立てた後、帰国の途上で嵐に会い、船もろとも海に沈んでいた。

(読書ルームII(59) に続く)

 

 

【参考】

プルターク/プルタルコス (ウィキペディア)

 

クセノフォン/クセノポン (ウィキペディア)

 

ヘロドトス (ウィキペディア)