黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(62) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第五話 小公子(一七九八年夏 ~ 一八〇二年夏  イギリス  8/9 )

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待ちに待った夏休みが訪れ、ニューステッドに帰ったジョージは去年より背丈も伸び、馬に乗る時にマレーに持ち上げてもらう必要がなくなっていた。ただ、まだ鞍をしっかり押えて鐙まで飛び上がることができなかったので馬に乗る際に反対側で鞍を押えてもらう必要があった。ある日、ジョージはマレー老人の手を借りて馬にまたがると、また隣接する領地の地主チョワーズの屋敷へと向かった。


昨年、メアリーに出会った屋敷の脇の菜園には人影がなかった。ジョージは昨年の夏、反対側の裏手にぶらんこや鳥小屋があったのを思い出し馬に乗ったまま裏に回ってみた。メアリーはそこにいた。しかし一人ではなかった。ぶらんこに座っているメアリーの横には若い男が立っていた。
「こんにちは。」とジョージはメアリーに声をかけた。
「あら、去年のちびちゃんだわ。」とメアリーが言った。「誰?」と男がメアリーに聞いた。メアリーはジョージが隣の領地の所有者である男爵ジョージ・バイロン卿だと男に言ったのだとジョージは思った。
「ふうん。」と男は言った。

「閣下(ロード)はもう一人で馬に乗れるようになったのかしら?」とメアリーが言った。ジョージはなぜか「閣下(ロード)」と呼ばれるのをうとましく感じた。ジョージは黙って馬から下りた。しばらくの間、咲乱れる夏の花々の間を飛び交う蜂や虻の羽音まで聞こえそうなほどあたりは静まり返った。ジョージはメアリーと一緒にいる若い男にはっきりと敵意を感じた。若い男はジョージよりも頭一つ分背が高かった。若い男は黙っていたが、自分のことを何と呼ぼうか思案しているのだとジョージは思った。若い男はやっと口を開いた。
「こいつがバイロン男爵か。チビのくせに。」
それを聞いたジョージは男に詰め寄るために馬の前から後ろ手で手綱を取り、男のほうに歩んだが、自分の特異な歩き方がメアリーと男の注目を引いたと思った時にはすでに遅かった。


「何だ。僕らをじゃましに来たのか?」と男は言った。ジョージは黙って引き下がるのが得策だと思った。そこで「別に。ちょっと遊びにきただけだ。」と言ってまた馬に乗ろうとした。しかし飛び上がっても鞍にしっかり手をつくことができず、鐙に足をかけられなかった。
「ジャック、手伝ってあげて。」メアリーがこう言ったのでジャックと呼ばれた若い男はジョージの腰に手をかけようとしたが、ジョージは毅然としてその手を払いのけた。
「チビのくせに。せっかく手助けしてやろうとしているのに・・・。」とジャックはぼやいた。しかし、ジョージが馬に乗れないのは片足が曲がって跳躍できないせいではなく、まだ背が低いので鞍をしっかり押えることができないのだと気づき、ジャックは馬の反対側に回って鞍を押えた。ジョージは馬にまたがると黙ったまま憮然として立ち去った。


チョワーズ家の裏庭をゆっくりと立ち去るジョージの後ろ姿を見送りながら、ジャックは「待てよ。ちょっとやつに言っておかなければいけないことがある。」と、言って留めてあった自分の馬に歩み寄ってまたがった。


ジョージがゆっくりとした歩調で馬を進めてニューステッド・アベイに戻ろうとしている時、後ろから馬に乗って駆け足でやってきたジャックが声をかけた。
「おい、チビ。ちょっと言っておきたいことがある。」
ジョージはジャックのほうをふり向いた。ジャックはジョージの馬と並ぶと言った。
「いいか、チビ、よく聞け。おまえの親父になるのか爺さんになるのか知らないが、おまえの先代はチョワーズの家の先代、つまりメアリーのお爺さんを居酒屋で殺したんだぞ。それなのに先代のバイロンには何の咎めもなかった。こんなことがまかり通っていいと思うか?きっとチョワーズの家の先代はバイロン家の人間に祟り続けているぞ。おまえの脚が曲がっているのだってきっとそのせいだ。」
ジョージには返す言葉がなかった。ジョージは会ったこともない先代のバイロン男爵に良い噂がなく、そのせいもあって使用人たちが自分に対して多大な期待を抱いていることを知っていたが、まさか先代が殺人を犯すような人物だったとは使用人たちのうちの誰からも聞いたことがなかった。ジョージは馬を飛ばして帰宅し、馬小屋に馬をつけるとすぐさまマレー老人のもとへと急いだ。


「マレー、さっきチョワーズのうちに出入りしているジャックという男から聞いたんだけれど、第五代バイロン男爵は先代のチョワーズを殺したの?」
「嘘ですよ。坊ちゃん。私はその場所にいたんですから、そんなのでたらめだと証言することができます。」
「本当だね。先代のバイロン男爵は人殺しなんかしていないよね。」
「していません。」

「ジャックは僕の曲がった脚が先代のチョワーズの祟りのせいだなんて言った。」
「馬鹿馬鹿しい。」
「じゃあ、僕の脚が曲がっていることはやはり別の理由からなんだ。」
マレーは黙ってジョージを見つめた。マレーは坊ちゃんが「僕の脚が曲がっているのは敵に後ろを見せないようにするためだ。」と吹聴していることを薄々知っていた。ハロー校での最初の夏休みに帰省した時にもクリスマスの休みの時にも、ジョージは「新入生の洗礼式」での英雄譚や悪口を言った少年との喧嘩のこと、そしてクリケットの対外試合に打者として出場したことなどを得々としてマレーに語っていた。しかし、マレーは坊ちゃんの力に関する矜持と豪胆を鼓舞したくはなかった。そこでマレーはジョージにこう言った。
「坊ちゃん。手ごわい敵に出会ったら、どうか馬に乗って逃げてください。私は坊ちゃんが逃げられるように乗馬をお教えしたんです。神様は坊ちゃんが敵に後ろを見せないようにするために曲がった脚を与えられたわけではないと私は思います。神様は頭を使って仕事をするよう命じるために坊ちゃんに曲がった脚を与えられたのだと私は信じています。」
ジョージには乗馬は楽しかったが、乗馬を練習するのは敵から逃げるためで自分の曲がった脚は敵から逃げないために与えられたのではない、というマレー老人の意見には承服しかねた。頭を使って仕事をするということも何をどうすることなのか、それが男らしいことなのかどうかもわからなかった。

(読書ルームII(63) に続く)

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