黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(56) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第五話 小公子(一七九八年夏 ~ 一八〇二年夏  イギリス  2/9)

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「坊ちゃん。よくお聞きください。」
坊ちゃんは毛布を被ったまま何も答えなかった。
「メイ・グレーはもう来ません。坊ちゃんはメイ・グレーと何か秘密がありませんか?」
坊ちゃんは何も答えなかった。
「坊ちゃん。メイ・グレーのような女と秘密を持ってはいけません。彼女は坊ちゃんの使用人です。坊ちゃんはこれからは子守り女なしで眠らなければいけません。坊ちゃん、女と秘密を持ってはいけないのです。男は男同士でしか秘密を持ってはいけないのです。坊ちゃんが大きくなられたら、メイ・グレーのような女ではなく、生まれ育ちがよく、坊ちゃんと同じくらい賢くて美しい女たった一人だけとは秘密を持っても構いません。坊ちゃんが大きくなられたら、私たちは坊ちゃんのために素晴らしい女の人を探して差し上げます。でも、メイ・グレーのような女とは絶対に秘密を持ってはいけません。わかりましたか?坊ちゃん。」

ハンソンは自分の三人の息子と一人の娘にするように坊ちゃんの毛布を直し、その上から坊ちゃんの体を軽く叩いてから坊ちゃんの寝室を出た。ハンソンはこれでこの件に関しては役割が終わったと思った。後はメイ・グレーをスコットランドに送り返すだけだった。


ハンソンと坊ちゃんとの関係は坊ちゃんが第六代バイロン男爵としてニューステッドに到着した時に始まったわけではなかった。ハンソンは坊ちゃんの母親キャサリンの実家の顧問弁護士を駆け出しの頃から務め、坊ちゃんが生まれる以前から放蕩者で留守がちだった坊ちゃんの父親に代わって、生まれた子の将来の養育や財産問題を処理するようにと坊ちゃんの母親であるキャサリンバイロン夫人に紹介された。妻と共にバイロン夫人に始めて出会った時、臨月だったバイロン夫人は「私の子供の父親役としてご主人をお借りすることがあるかもしれません。」とでも言いたげに、妻にも何度も頭を下げていた。そしてハンソンの妻が紹介した産婆の介添えで、坊ちゃんは福の皮lxi[2]を被った脚に奇形がある赤ん坊として生まれた。ハンソンはその福の皮をもらい受け、船乗りの兄に贈った。船乗りの間では赤ん坊の福の皮は遭難を避けるための護符だとされていた。


ハンソンは坊ちゃんが何か超自然的な力に守られながら成長していくような予感を抱いていた。坊ちゃんがニューステッドに到着して間もなく、ハンソンは坊ちゃんにアバディーンからニューステッドに移って恋しいものはないかと尋ねた。坊ちゃんはこう答えた。
「ボンネットを被ったあの子は本当に可愛くて、その唇(lip)から蜜をすすり(sip)たかった。」
ハンソンは坊ちゃんのこの奇妙な答えの意味を何度も考え、何度も繰り返して唱えてみた。そして、この答えが韻を踏んでいるということを発見した。


ニューステッドに到着してから、坊ちゃんは日に何時間か書斎にこもって読書に没頭する以外は野生の鹿のように気ままに暮らしていた。屋敷に到着した当初から、坊ちゃんは屋敷で飼われている猟犬に関心を示したが、中でも狼との間に生まれたと言われて邪魔者扱いされている毛並みの悪いウーリーという犬に坊ちゃんは興味を持った。坊ちゃんはウーリーを他の猟犬と同じように従順にしつけようとしているらしかった。ある日、ハンソンは窓の外に先代から仕えている爺やの鋭い叫び声を聞いた。
「坊ちゃん、坊ちゃん、お止めください。」
ハンソンが居る部屋の窓から何がどうなっているのかわからなかった。そこでハンソンは階下に下りていった。
「ハンソンさん、あぶないから家の中に入ってください。」爺やが叫んで指さしている先を見ると、そこでは坊ちゃんがピストルを片手に、もう一方の手でウーリーの首につけた鎖を荒々しく操っていた。坊ちゃんはしきりに犬を脅して犬に向かってピストルをちらつかせていた。ハンソンは家の中に戻ると若い男の使用人に爺やに加勢して坊ちゃんを後ろから取り押さえるように命じた。


幸いにして坊ちゃんはピストルの使い方を知らず、二人の使用人にいとも簡単に取り押さえられた。しかし、坊ちゃんをこのまま野生児のように気ままに育つに任せるわけにはいかなかった。坊ちゃんが聖書や歴史に異常なほど熱心な関心を持ち、坊ちゃんが読むものにも書くものにも十歳の子供を遥かに越えた知力が現われていた。しかし、そうだからといって、坊ちゃんにはやはり、同じ年頃の子供といっしょにならずには得られない躾が必要だった。ハンソンは坊ちゃんを学校に通わせなければならないと思った。


坊ちゃんの母キャサリンバイロンにこのことについて相談した時、ハンソンはいささかがっかりさせられた。バイロン夫人は言った。
「ノッティングハムの親戚のうちでは家庭教師を雇って子供たちを教育しています。ジョージをそのうちに送っていっしょに教育を受けさせるのがいいと思います。」
ハンソンはメイ・グレーを送り返した後に坊ちゃんがまたもや女家庭教師によって教育されるのはあまり好ましくないと思った。しかし、ニューステッドにわざわざ家庭教師を呼ぶのには費用がかかり、またニューステッド・アベイの近くには適当な学校がなかった。ハンソンはバイロン母子がロンドンに移り、自分の子供たちが通っている学校に通うのがいいと提案しようとも思ったが、ロンドンに住むのには金がかかった。そこでハンソンはバイロン夫人の提案に従わざるを得なかった。また、バイロン母子がノッティングハムに移れば、その近辺に適当な学校があるかもしれなかった。

(読書ルームII(57) に続く)