黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(72) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  9/18)

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デービス、マシューズ、ホブハウスの三人がフレッチャーが御者を勤めるバイロンの馬車に乗ってケンブリッジに戻る日、フレッチャーがバイロンの新しい生活に必要な品をケンブリッジから運んでくるまでホブハウス邸に留まることを許されたバイロンは玄関の前で三人を見送った。馬車が走り始めた時、マシューズが窓から顔を出して叫んだ。

「おい、馬屋の中で飼っている熊はどうするんだ。」
「ピーターが毎日餌をやるけれど・・・」とバイロンは叫んだ。「ピーターが用があってこっちに来ている時には
すまないけれど残飯をやってください!」
バイロンの頭の中は初めてのロンドンでの生活のことでいっぱいだった。
「イタリア語、新しい詩集、泳いで体を鍛えること・・・そして・・・。」
バイロンの頭の中は太い眉のりりしい顔立ちに逞しい体躯のマシューズに占められていた。フレッチャーにロンドンに運ばせる身の回り品の筆頭にボクシングのグローブとサンドバッグがあった。


ケンブリッジからフレッチャーが戻るとバイロンはさっそく自分に課した厳しい課題を実行した。夏の間ほとんど毎日、フレッチャーに衣類と馬の手綱をもたせテームズ河をロンドン塔から議事堂まで、つまり川下から川上へと河の流れに逆らって泳いだ。やがて、艀(はしけ)をあやつる商人たちなどから海の潮の満干の時間を聞き出し、わざわざ引き潮の時を狙って川下から川上へと泳いだ。雨の日には室内に吊るしたボクシングで体を鍛え、運動をしていない時にはダンテやペトラルカの詩の暗唱につとめたり「遁走詩集」を今一度開いて次の詩集に再度収録する詩を選び新しい詩を書いた。


読書と詩作の夜が明け、通りから聞こえるロンドンの喧騒に目覚めるとバイロンは着替えて身なりを整えると朝食を取るよりも先に外に出て、ホブハウスが使用人に買いに行かせていた新聞を自分で買い求めることを習慣にしていた。新聞はいつでもナポレオンの大陸封鎖のことやそれに対応するイギリス議会の動きの報道で溢れ返っていた。
「僕が貴族院議員になって議会に登院できるようになるまであと三年ない。」とバイロンは真新しい新聞のインクの匂いを嗅ぎながら思った。三年前にハンソンのロンドンの家を訪れた際、バイロンはハンソンの次男で同級生のハーグリーブスと伴に美術品店を訪れナポレオンの胸像を購入した。ハーグリーブスと自分が生まれた翌年に始まったフランス大革命を決定的に収拾し、ヨーロッパ全土に秩序と繁栄をもたらす者はナポレオンでしかありえないとバイロンハーグリーブスは固く信じていたが、その観測と期待はナポレオンが皇帝の位についてからもいささかも揺るぐことはなかった。


「僕の祖父は囲い込みで土地を失った農民に職を与えるために毛織物の工場を建てた。最初は小さな工場だったが親父は工場の生産性を向上させる手段は何でも試し、新しい技術を取り入れた綿紡績を始めて 郷 紳(ジェントリー)から工場主へ、そして終には国会議員の地位についた。僕がその跡をついでどのように親父の事業を発展させればいいのかはまだわからないが、私利私欲だけを追求せずに蓄積した富をいかに公正に人に分け与えるか、そして専制政治を許さない進歩(ホイッグ)党の精神をいかに守っていくかが僕の課題だと思う。」とホブハウスがバイロンに語ったことがあった。


「ホブハウスと比べたら僕は政治に関しては赤ん坊みたいなものだ。それなのにあと二年半したら僕は貴族院議員としての重い責任を背負わなくてはならなくなる。僕のように十歳で貴族の当主になるどころか、二十一歳で当主になるものさえ稀だろうから、僕は議会では小僧っ子扱いされるだろう。それでも僕には発言権と投票権が与えられるんだ。」とバイロンは思い、新聞を読む時にはホブハウスの顔を、イタリア語の勉強をするときや詩作をする時にはマシューズの顔を思い浮かべた。

 

秋になり、冬になり、テームズ河で泳ぐことができなくなってからはもっぱらボクシングと読書に明け暮れる生活になった。クリスマスでニューステッドに帰省する前、期末試験の最中にバイロンケンブリッジで試験の準備に余念がないホブハウスやマシューズに再会したが、その時もバイロンの頭の中は自分で自分に課した課題で溢れ返っていた。


母親やニューステッドの使用人たちとの再会を懐かしんだクリスマスが終わり、新しい年になってロンドンに戻ったバイロンには自分自身に課した課題図書として購入した数々の書籍を読むことに加え、新しい詩集を編むことが眼前の大きな課題になった。バイロンはホブハウスなど、ケンブリッジで知り合った友人や母に頻繁に手紙を書いて近況を知らせ、執事のハンソンとの連絡も欠かさなかったが、必要な連絡に加えて、ハロー校時代から文通をするようになった姉のオーガスタはバイロンが夢や野心をあますところなく語り助言を乞うことのできる最も信頼できる人物だった。オーガスタは結婚を控えていた。


「姉さん、

大学ではいろんな経験ができるけれど、知識を得るのにはたいして役立ちはしないよ。僕はしばらくの間、ロンドンに住むことにした。機会があったら是非会いにきてください。
あなたの親愛なる弟のジョージ」

 

やっと出版にこぎつけた詩集「懶惰の時」を何部か携えてバイロンは凱旋した気分になり、マシューズの卒業式の前にケンブリッジの寮に戻った。ロンドンから戻るに当たってバイロンはエーデルトンにもケンブリッジに戻ることを告げていた。学士号を取得した後も大学に残ることに決めているマシューズが日当たりの悪い元の寮に戻る準備を整えている時にホブハウスが訪ねてきたのでバイロンはさっそく「懶惰の時」をホブハウスに見せた。

(読書ルームII(73) に続く)

 

 

【参考】

ダンテ・アルギエレ (ウィキペディア)

 

ペトラルカ (ウィキペディア)