黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(115) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)1/5


さるほどに、一人の「天使」の目に見えぬ加護のおかげで
この廃嫡の「少年」は太陽の光に酔って生きつづけ
その飲むものは悉く、その食ふものは悉く、
朱金の色の神酒と化り、不老長寿の御饌となる。
風を相手にふざけたり、雲を相手に語ったり、
「十字架の道」歌ひつつ恍惚したり
森の小鳥をそのままに浮かれはしゃぐ彼を見てこの巡礼に
付き添ひの「精霊」は涙にむせぶ。
ボードレール悪の華」より「祝祷」堀口大学

 

ジョージにはわからないことがあった。ある日、学校から家に帰ると、居間のテーブルの脇で母が泣いていた。母の目の前には広げられた手紙があった。側に立っていた女中のアグネスが帰ってきたジョージに気づき、ジョージのほうに歩み寄るとジョージを抱きしめた。母は顔を上げた。
「ジョージ、おめでとう。あなたは小公子(リトル・ロード)になったのよ。私は結婚しているからあなたと一緒にイングランドに行くことはできません。だから妹のメイが私に替わって坊ちゃんのお世話をすることになります。私はここで坊ちゃんの幸福をいつでも心からお祈りします。」こう言ってアグネスはジョージを放すと涙を拭った。ジョージには小公子(リトル・ロード)なるものが何なのかわからなかった。母は立ち上がって涙を拭うとジョージに言った。
「明日から学校に行かなくてもいいのよ。小公子(リトル・ロード)になるための準備があるから。明日は先生にお別れのご挨拶をしに学校にいきましょうね。」


ジョージは学校での成績は入学した時からいつでも一番だったが、最近、「びっこ」あるいは「ちんば」と言って自分をからかう子供を喧嘩でぎゅうの音も出ないほど痛めつけ、昨年の夏に覚えた泳ぎにこの夏にはもっと磨きをかけて他の子供たちを抜きん出てやろうと考えていたところだったので、今いる学校を止めたくはなかった。
「もう、ずっと学校に行かないの。」とジョージが母に尋ねると、母は「いいえ、お引越ししたら、もっといい学校に行くのよ。あなたのことを『びっこ』と言ってからかうような悪い子供のいない学校にね。」
翌日、ジョージは母に連れられて学校に行った。校長に向かって母が何かを説明すると校長はジョージをじろりと睨んでこう言った。
「この子が小公子(リトル・ロード)にねえ。」


家に戻ると母はトランクにジョージの服をつめ始めた。自分の服もトランクにつめた。洋服箪笥の中から刺繍のあるきらびやかな服を取り出し、母はため息をつきながらそれを胸に当てた。そして、その服を丁寧にたたむとトランクの脇に置いた。ジョージは遊びに行ってもいいかと母に尋ねたが、母は「家で遊びなさい。」と言った。大きな男たちが香水屋の二階にあるジョージと母の部屋に出入りし、家具などを次々と運び出していった。ジョージはしかたなく、好きだった安楽椅子がなくなった後の床に寝そべって本を読んだ。

 

家の中の家具は日に日に減っていった。ジョージが「小公子(リトル・ロード)になった。」とアグネスに言われてから一週間立つと、家の中にはベッドと食卓以外にはほとんど何も残っていなかった。ジョージが好きだった物語の本も消えうせ、聖書だけが残された。
「明日、ベッドと食卓を取りに人が来ます。そしたら別の家に引越します。」と母が言った。
翌日、母が言ったとおりに数人の男が家を訪れ、ジョージが物心ついてから母と一緒に住んでいた家には本当に空になった。ジョージは母に連れられ、家の外で待っていたアグネスと一緒に馬車に乗り込んだ。聖書を抱えているジョージを見てアグネスが言った。
「信心深い子だこと。」
ジョージが聖書を抱えているのは信心深いからではなく、これが唯一残された本だったからだった。ジョージは八歳の時に、教会の牧師が演壇の上で広げて説教の元にする聖書には数知れない冒険物語や不思議な物語が隠されているということを発見した。なぜ、牧師がそのような面白い話をせず、教訓の材料としてしか聖書に触れないのか、ジョージにはその理由がわからなかった。牧師は本が読めないみじめな人々に対して面白い話を隠しているのではないかとさえジョージは思っていた。ジョージは母やアグネスが聖書に触れる時の態度から、母やアグネスは聖書をまじないの道具だと思っているのではないかと思った。ジョージにとって、聖書は空想の材料がつまっている宝の箱だった。
ジョージと母とアグネスが乗った馬車は見慣れたアバディーンcii[1]の街中を通り抜け、いつしか街外れに来ていた。三人はそこで馬車を降りた。
「さあ、ここが私たちがこれからしばらくの間、住む場所です。」と母が言って指差したその場所
はジョージが街中で一度も見たことのないようなみすぼらしい小屋だった。母が入り口の扉を押す
と扉はきしんだ音を立てて開いた。
「ここにはテーブルもベッドもないのよ。今日からしばらくの間、私たちは藁布団で寝ます。」と母がジョージに言った。そして母はアグネスに向かって言った。
「もうしばらくの間だけだけれど、ジョージをよろしくね。私はまだ訪ねないといけないところがいっぱいあります。このままでは旅立つことはできません。」
「ええ、坊ちゃんとお別れするのはつらいですが、坊ちゃんのためです。最後だと思って一生懸命お仕えします。」とアグネスは答えた。
ジョージには母とアグネスとの会話の意味がわからなかった。「小公子(リトル・ロード)になった。」と言われてなぜ、学校を止めてこのようなみすぼらしい小屋で過ごすことになったのかもわからなかった。
小公子(リトル・ロード)の意味さえ、それが良いものなのか、良くないものなのかもわからなかった。
その夜、母はトランクを二つ重ねた仮ごしらえの書き物机の上で、蝋燭の明かりを便りに手紙を書いた。五通は書いただろうとジョージは思った。藁布団から漂うほのかな匂いは心地よかったが、ちくちくする感触にすぐには慣れることができず、ジョージはとうとう母が最後の手紙に封をし、部屋の反対側の藁布団に横になるまで薄目を開けて母を見つめ続けた。

(読書ルームII(116)に続く)

 

【読書ルームII(114) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 17/17)

 

翌日、ヴィアレッギオ近辺の漁民たちが、かつては詩人パーシー・ビッシュ・シェリーだった、その見るもおぞましい物体を麻布でくるみ、ボートに乗せて悲劇の結末を確かめようと人々が集まった場所まで運んできた時、その集団の中にバイロンの姿はなかった。人々はウィリアムズの時と同じく、頭蓋骨鑑定の専門家であるバイロンシェリーの遺体を確認することを期待していたのだが、香油をしみ込ませた布で口を覆った捜索者たちは姿を消したバイロンのことは諦め、朽ちかけた肉体以外の衣服などから遺体の身元を特定する手がかりを探そうとした。トレローニーが遺体の上着のポケットを探って小冊子をとりだした。潮に濡れて開くこともままならないその書籍の著者はジョン・キーツ、書籍の題は「レーミア」だった。英語の詩集をポケットに入れて持ち歩く人間はシェリー以外にはあり得ない、ということで人々の意見は一致した。遺体はウィリアムズと同様、火葬に附されることになった。


この頃、バイロンは河口の向こう側のかなたに停泊しているボリバル号を目指して泳いでいた。腰に巻いた布がほどけそうだったが気にも留めなかった。腰布がほどけて生まれたままの姿になってもボリバル号にたどり着けば替わりになるものが何かある、また何もなければ帆布がある、とバイロンは思った。


「一八一六年の夏、レマン湖畔でシェリーに泳ぎを教えておくべきだった。」バイロンは思った。もう何度目になるかわからなかった。「空気の妖精のようなあの男は水を怖がっていた。だからヨットなどに金を使うべきではなかったのだ・・・。」この考えももう数え切れないほどの回数、バイロンの心中に浮かび、そして消えていった。
「思えばヨットの『ドン・ファン』という名前も不吉だった。トレローニーがヨットの楽しさについて語った時、シェリーは『僕が船を所有したら閣下の作品の名前をつけたいんですが、いいですか?』と尋ねた。『ドン・ファン』という名前だけはやめてくれ。』と言ったらシェリーはすぐに『だったら、僕が大好きなシェークスピアテンペストにちなんで、空気の妖精エアリエルを船の名前にするかもしれません。』と言った。シェリーが業者に名前の変更を伝えたのに船腹に『ドン・ファン』という名前が書かれたままヨットが届けられたのも、すべてが悪い予兆だった・・・。」


バイロンは無我夢中で泳いだ。頭を水から出して薄暮の中に霞む入り江の向こう岸を仰いだり温度を失いかけている海水に頭をつけたりする平泳ぎの動作を繰り返しながら、バイロンの頭の中は熱く混乱していた。やがて、太陽が水平線の彼方に沈む頃、バイロンは目の前の景色がぼやけて見えるのはあたりを包む夕闇のせいなのか、それとも熱を帯びた頭から両眼を通って流れ出る涙のせいなのか、自分でもわからないまま、ただひたすら泳いでいた。

(「第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)」に続く)

 

【読書ルームII(113) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 16/17 )

 

テレサの馬車がピサとリヴォルノの間十マイルを並み足の速さで進み、リヴォルノ郊外のバイロンの別荘に三人の女と従者たちが到着した時、あたりはもう真っ暗な闇に包まれていたが、別荘の中にバイロンの姿はなかった。もちろん、シェリーとウィリアムズの姿もなかった。


夜がさらに更け、バイロンが従者を連れて戻ってきた。バイロンテレサと一緒にメアリーとジェーンが来ているのを見るとがっくりと肩を落としてうなだれた。
「閣下(ロード)!」とメアリーはテレサが側にいる時の常とは異り、英語で叫んでいた。

「メアリー、ちょっと用があってリヴォルノまで行ってきたんだ。それだけだ。」とバイロンも英語で答えた。
「それだけではないんでしょう?パーシーは?エドワードは?」
「役所に行って私のスクーナー船を沖に出す許可をもらってきた。それから、水夫を三人雇ってきた。それだけだ。」
「その理由を聞かせてください。」と今度はジェーンが詰め寄った。


バイロンはその日の昼過ぎ、埠頭まで散歩に行った際、船が遭難したらしいと地元の漁師が噂しているのを耳にしていた。漁師に詰め寄ってそう思った理由を聞きただすと、その漁師は漁に出た時に沖でリヴォルノでしか手に入れることのできない食料品の木箱が海に浮いているのを見たと言った。それを聞くなり、もしやとの予感を得たバイロンは、直ちに従者を連れてボリバル号の航行の許可を得るためにリヴォルノの役所へと急いだ。


「約束する。明日、きっとパーシーとエドワードを見つけ出す。もしかしたら、船の操作を誤って、沖の島に流れついているのかもしれない。さあメアリー、もう寝なさい。」バイロンはこう言うと、流産で大量の血を失ったばかりのメアリーの蒼白い額に接吻した。


翌朝、シェリーとウィリアムズの消息の伝言がピサのリー・ハントのところに送られ、驚いたハントがテレサの従者と共に馬で駆けつけた時、トスカナ沿岸をリヴォルノシェリーの別荘があるレリチの間に限って、事件解決の目的でのみ航行することを許されたボリバル号は、バイロンと三人の水夫、二人の従者を乗せてすでに出帆していた。


トスカナの沿岸を航行しながら、バイロンは軍艦を指揮する提督のように望遠鏡を手にし、岸にシェリーやウィリアムズの手がかりになるものはないかどうか隈なく探索した。何箇所かで船を陸につけて地元の住民にも尋ねた。時には二人が沖を漂流しているのではないかと、沖にまで望遠鏡を向けた。最初の日には漂流物以外の手がかりは得られず、バイロンは心配して待つメアリーとジェーン、それにリー・ハントとテレサを加えた人々が待つリヴォルノ郊外の別荘に空しく戻った。


バイロンは大家族を抱えて新居にまだ落ち着いていないハント、そしていても役に立たないテレサをピサに返し、翌日、二日目の捜索に赴くボリバル号にメアリーとジェーンを乗せてレリチの別荘に返した。この往復でも二人の手がかりは得られず、バイロンは雇い入れた三人の水夫をリヴォルノに返した。


焦燥ばかりつのるバイロンの元に手がかりになる情報が入ったのはそれから五日後だった。元海賊だったと吹聴している男トレローニーもピサから駆けつけ、成り行きに気をもんでいた。リヴォルノの北方で漁師をしている男が「身元不明の水死体がヴィアレッギオの辺鄙な浜辺に打ち上げられて当局の手によって直ちに浜辺に土葬にされた。」と知らせにきた。バイロンはすぐにでも水夫を雇い直してボリバル号でその場所を見に行きたいと言ったが、地元の事情に詳しい漁師は二つの理由で反対した。
「一つには、すごく辺鄙な場所な上に埋めた場所がはっきりしないんでさあ。もう一つは、お役所の許可がねえと一度埋めた死人を掘り返すなんてことはできないんでさあ。」とその男は訛のひどいトスカナ方言で言った。


しかしバイロンはトレローニー、そして雇いなおした水夫と共にボリバル号でとりあえず沿岸の様子を調べた。そして、消息を絶った二人のものらしい遺体が埋められたというヴィアレッギオの浜辺とリヴェルノのちょうど中間に位置し、馬で行くのにも便利なセルキオ河の河口を落ち合う場所にするという伝言をリー・ハントに送った。
「もし不幸にして彼らだったら、海賊のやり方で手厚く弔うことにしましょう。」とトレローニーが沈痛な表情を浮かべて言い、バイロン不本意ながらうなずいた。シェリーとウィリアムズの消息が途絶えてからすでに二週間近くが経過していた。


浜に打ち上げられた、一旦は土葬にされた水死体を掘り出す許可を得、場所を探し当て、漁師の有志をつのって身の毛がよだつような作業が行われたのはそれからさらに三週間たってからだった。


麻布にくるまれ、ボートに乗せられた遺体は漁師たちが漕ぐ別のボートに曳かれてセルキオ河の河口に到着した。誰もがかつては人間だったその物体に近寄るのをためらった。しかし、バイロンは若い頃に頭蓋骨を収集して生前の有様を再現するという奇妙な趣味に耽ったことがあり、気味悪さを我慢して死体に近寄ることができた。バイロンは香油をしみ込ませた布で口と鼻を覆うと遺体識別をかって出た。バイロンはへらで遺体の口をこじあけ、歯の特徴から遺体はエドワード・ウィリアムズのものだと断定した。ウィリアムズの遺体は生前の姿を留めないほど痛んでいたが、バイロンはその首に巻かれて全く破れていない絹のスカーフを、結び目をナイフで切って遺体から取り去り、妻ジェーンへ証拠と形見として渡すことにした。遺体はトレローニーの指示で、海賊を葬る時の儀式に従って河口の砂地で火葬にされた。

(続く)

https://kawamari7.hatenablog.jp/entry/2021/09/06/200153

【読書ルームII(112) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 15/17 )

 

その後の四日の間、バイロンはハント家のことはシェリーとウィリアムズに任せっきりで、ガンバ伯爵父子が国境の外で必要とするものを買い揃えたり、自分の屋敷で預かれるものを運ばせたりする用を使用人たちに言いつけ、監督を行った。ハント家の人々とテレサとの軋轢もガンバ父子が無事にトスカナの国境を越えるまではお預けにして、バイロンはランフランチ邸には寝るためだけに戻った。


嵐のような四日間の猶予期間が過ぎ、ガンバ伯爵父子がトスカナからの退去の命令を受けた日から五日目、バイロンはガンバ伯爵父子を国境からほど遠くない仮の滞在地であるルッカに送りとどけた。テレサは来なかった。「さようなら(アッディオ)。」と言って二人を見送ってから、バイロンは従者と共にトスカナの国境からピサのランフランチ邸には寄らずに真っ直ぐに別荘に戻り、疲れのためにベッドに頭をつけるなり眠りに落ちた。


翌日は夏に入ってから変ることのない晴天だった。朝早く目覚めたバイロンは書斎の机に向かうとまず、原稿を整理した。「ドン・ジュアン」の第六巻から第八巻までの原稿を整理し、先を書き進む作業と筆写をどのような手順で行おうか思案した。そして、いつもどおり朝食を抜いて早めに昼食をすませた後、うだるような暑さの中で午睡を取り、午後遅くなってから目覚めた。バイロンは昨日、猛暑の中で酷使した馬のことが心配になったので馬屋に赴いた。すると、シェリーとウィリアムズに貸した馬が戻っていた。自分が午睡を取っている間に二人が馬を返しにきて、眠っている自分を起こすのを憚って挨拶もせず、そのまま近くの埠頭に留めてあった、「ドン・ファン号」と船体に記されたままのエアリエル号に乗って帰宅したのだと思い、バイロンはそれ以上のことは考えなかった。シェリーとウィリアムズは一週間、ハント一家の面倒を見るつもりで妻たちにもそう言ってあると語っていたが、ハントのことが心配になるか、あるいは買ったばかりのヨットに乗りたくなってすぐにまたやってくるのに違いなかった。バイロンは気の赴くまま昨日とは別の馬に乗って外の散策に出かけた。


七月に入ってからの狂奔を思い出し、バイロンはほっと息をついた。狂奔は七月に始まったことではなかった。六月に入ってから、日照りが続いたせいでどこの井戸も水が枯れ、使用人たちに遠くの山際まで水を汲みにやらせる必要が生じていた。暑さも手伝って、使用人たちの間で喧嘩や水汲みをめぐる争いが頻繁に起きていた。
「この夏の狂奔全てがわれわれ全員を発展に導いてくれるのならば何でもないことだ。カンバ親子と協力できる日もきっとすぐにやってくる。」とバイロンは思った。ピサにいるテレサとハント一家もこの暑ささえどうにかしのいでくれれば、そして涼しい秋がくれば全てがうまくいく、とバイロンは思おうとした。その時、ぽつりぽつりと雨が降リ出した。バイロンが馬の歩調を速めるうちに、風が強くなり、空がにわかにかき曇り、雨は急に大粒になってバイロンが馬に乗って歩んでいる田園の、あたりは一面驟雨に覆われた。バイロンがあたりを見回すと一軒の小屋が目に入った。小屋まで駆け足で馬を進め、馬を下りて扉をそっと押してみると小屋は農具などを置く場所らしく、農民が扉を開け放しにしたままで農作業に出かけたのか、中には人気がなかった。バイロンは中に入り、馬具が雨に濡れないように馬も中に引き入れた。バイロンがこのような場所に身を置くのは初めてではなかったが、藁の山に身を寄せたのは遥か昔のことだった。バイロンには藁の匂いが懐かしかった。バイロンは親友ホブハウスや小姓のロバート・ラシュトンと三人でスペインを旅行した時にもこのような場所で一夜を明かしたことがあったのを思い出した。しかし、かつて一人でこのような場所に留まった時のことは追憶の彼方でほろ苦い思いに包まれていた。


外は暴風雨になり、時折雷がなっていた。三十分が過ぎた。雷は止み、雨はだいぶ納まってきたようだった。バイロンが小屋の外に顔を出すと雨は止んでいたが、湿った風だけが時折強く吹いていた。バイロンは馬を引いて小屋から出すと馬にまたがって別荘を望む高台を目指した。丘の一番高い地点にまで来るとバイロンは馬を止めた。ティレニア海の上に広がる西の空を真っ赤に染めて太陽が沈もうとしていた。南南西の方角の海を望むと、煙った視界のかなたにエルバ島c[20]とコルシカ島ci[21]が霞んで見えた。北東の彼方の内陸にはガンバ伯爵父子が一時の落ち着き場所にしたルッカが、北西にはサヴォイ公国の一部となっている港町ジェノバがあった。バイロンはこの地をこよなく愛していた。
「命ある限り、私は希望を捨てない。ピエトロも同じだろう。ナポレオンがそうだったように・・・。」バイロンは自分自身に言い聞かせると自分の別荘へ戻るために馬を進めた。


四日後、父ガンバ伯爵や弟ピエトロと別れ、同居人のハント一家とも相入れずに寂しく暮らし始めたテレサが夕涼みにランフランチ邸のバルコニーにたたずんでいると、一台の小さな馬車がバルコニーのすぐ下に乗り付け、中から二人の女性が出てきた。先に下り立ってバルコニーに立っているテレサを見上げたのは大理石のように蒼白な顔をしたメアリー・ゴッドウィン・シェリー、もう一人はエドワード・ウィリアムズの妻、ジェーンだった。
シェリーをご存知ありませんか?一週間で戻ると言ったのにまだ家に戻らないんです。」とメアリーはイタリア語で絶叫した。
「四日前にここを立たれました。その後、何も聞いていません。」とテレサはバルコニーから叫び返した。バイロンシェリー、ハントの三人の間、そして、バイロンテレサとの間には頻繁に使者のやりとりがあり、三箇所に別れて住むこれらの人々の消息が三日以上途絶えることはないはずだった。しかしシェリーとウィリアムズとが何かの用でバイロンの別荘に滞在することにして、そのことを使者が伝え忘れた可能性もあった。ただ、夕闇の中に浮かんだメアリーの幽霊のように蒼ざめた顔を見た時にテレサの背中に冷たいものが走っていた。
「すぐに大きな馬車を用意させましょう。バイロン卿のところに行くのよ。」とテレサはこう言ってバルコニーのある二階から階下に駆け下りた。
(続く)

https://kawamari7.hatenablog.jp/entry/2021/09/06/200013

【読書ルームII(111) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 14/17 )


「二週間ほど前、あれは六月十六日でした。メアリーが昼前に腹が痛いと言い出したので寝室に寝かせて、僕が書斎で『生の勝利』の始めのほうを書いていると突然、寝室からメアリーのものすごいうめき声が聞こえたんです。僕が飛んでいくと、メアリーが下半身を血まみれにして苦しんでいるじゃないですか・・・。それで僕はどうしたと思いますか?」
「さあ・・・。」とバイロンは言ったが、話の内容をすでに知っているらしいウィリアムズは微笑していた。

「すぐにメアリーを抱いて下の台所に連れていきました。それから彼女を素っ裸にして、ここからが肝心なところなんですが、下女に手伝わせてメアリーの出血が止まるまで、井戸から冷たい水を汲んできては彼女の腹に水をかけ続けたんです。台所の床が川みたいになりましたが、メアリーの命には代えられませんでしたから。」
「すごい話しだな。」とバイロンが言った。
「僕じゃないとできなかったでしょう。」とシェリーが得意そうに言った。
「うん。医者だったらこんなことは到底思いつかなくて、メアリーはどうなっていたかわからない。」
「僕は無駄に化学や生物学の本を読んでいたわけではありませんでした。今、彼女に命があるのは僕の知恵の賜物です。」
「それから、君の愛情・・・。」とバイロンが言った。
「メアリーはまだ二十五歳ですから、体が元に戻ったら子供なんていくらでも作れますよ。だから、閣下が『残念だ。』とおっしゃった時に僕は思わず聞き返してしまったんです。生きているということは本当に素晴らしいことです。」シェリーはこう言うと悪戯っぽく片目をつむってみせた。
寝室に向かう途上、シェリーの話を聞いてバイロンも満足していた。
シェリーはこれで良かったんだ・・・。」とバイロンは思った。「リー・ハントは来たし、メアリーともこれからは仲良くやっていけるだろう。シェリーは現代版の『神曲』になるかもしれない『生の勝利』を完成させ、散文で社会批判もする。シェリーとの意見の相違についてのリー・ハントの意見を聞けるし、イタリア人の自由主義者の考え方を組織的に知ることができるようになるだろう。」


翌朝、バイロンが予想していたとおり、リー・ハントが現金を全く所持していないということがわかった。リー・ハントにとりあえずの小遣いを与えた後、必要なものを取り揃えようとするハント夫人と従者の間に立ってバイロンは通訳まですることになった。ところが、午後になり、ガンバ伯爵家の従者が気が動転した様子でバイロンを訪ねてきた。
「どうした?」と尋ねたバイロンに従者はがっくり肩を落すと言った。
「閣下(シニョーリ)・・・。伯爵様親子がトスカナから退去するよう裁判所に命令されました。四日間しか猶予を与えられていません。」
バイロンはこのような不当な扱いを薄々予測してはいたが、やはり残念に思った。ガンバ伯爵父子がラベンナから追放処分を受けた時には二十四時間の猶予しか与えられなかったが、今回は四日の猶予があるのでバイロンも何かと手助けができた。
「ここはシェリーとウィリアムズがいるからどうにかなる。後のことをと従者たちに言いいつけたらすぐにそちらに行くと伯爵に伝えてくれ。」バイロンがこう言うと従者はさらにつけ加えた。
「伯爵様から閣下(シニョーリ)にお願いするよう承っております。お嬢様を夏の間だけでも閣下のお屋敷に住まわせてほしいとのことです。」
バイロンはリー・ハント一家の大家族が越してきたせいで騒然となっている自宅にさらにテレサが加わったらどうなることかと頭を抱えた。しかし、困惑しているガンバ家の人々を助けないわけにはいかなかった。
「伯爵にどうぞ、と言ってくれ。ただし、イギリス人の家族と一緒だけどね・・・。」
「では、伯爵様にお使えできる日も残り少なくなりましたが、精一杯お勤めしに戻ります。」こうして、自分自身の雇用のことで頭が一杯になっているガンバ家の従者は去っていった。

 

ガンバ家の屋敷の中は上を下への大騒ぎだった。使用人たちの中にはたった四日の猶予で解雇を言い渡され、途方に暮れて涙ぐんでいる者もいた。ピエトロはバイロンを見つけると近寄ってきて言った。
「僕のためにご迷惑をおかけしてすみませんでした。」
「何を言っているんだ。元はと言えばうちのヴィンツェンツィオ・ピッパがやったことじゃないか・・・。」
「いいえ、ガンバ家のような国粋主義者の家系に生まれた僕らが、風見鶏みたいなグィッチオーリのような人間とは相入れずに、時代が変っても頑なに信念を変えなかったせいなんです。でも、僕はローマにいた間に南イタリアの連中とよく話し合いました。イタリアは一つだと・・・。僕らはジュリアス・シーザーの時代の夢を見ているだけなのかもしれません。でも、シーザーやナポレオンみたいに外国を侵略しようなんて野心はありません。それなのに、裁判官や役所の連中からピッパに殴られた下士官に至るまで、みんなイタリア人のくせにオーストリアに味方して僕らを敵扱いするんです・・・。」
「ピエトロ・・・。」と、言ってバイロンは初めて出会った時よりも背丈が伸びて男らしくなったピエトロの両肩に手を置いた。
「君が信じてきたこととやってきたことは正しい。これからも信念を持って生きるんだ。そのうち、きっとまた一緒になって協力しあうことがあるだろう。」
「はい、閣下(シニョーリ)。どうか、姉をよろしくお願いします。」
夜になってランフランチ邸に戻ると、すでに衣類などを満載した馬車とともにテレサが到着していて、ハント夫人との間でものすごい口論が始まっていた。ただし口論とは言っても、テレサは英語が話せず、ハント夫人はイタリア語を話さないので、意志の疎通がないままお互いにわめきあっているだけだった。ハント夫人は自分たち一家が先に到着したことを盾に、豪華なドレスや調度品などを運び込んだテレサを責めていた。テレサテレサでハント家の子供たちの行儀の悪さを非難していた。バイロンはまず二人をなだめ、それから屋敷の中でのハント家とテレサの居住区域を定め、二人を納得させた上で今度はガンバ家のほうへと急いだ。

(続く)

https://kawamari7.hatenablog.jp/entry/2021/09/06/195951

 

【読書ルームII(110) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 13/17 )

 

夕食の後で長旅で疲れきったハント家の人々はさっさと寝室に引き下がり、バイロンシェリー、ウィリアムズの三人が居間に残った。シェリーは上機嫌だった。
「彼が創刊する雑誌はきっと、うまくいきますよ。」とシェリーは言った。「僕は彼に協力するためだったら原稿取りの使い走りの役までやりますから。」
「うまくいくといいな。」とバイロンが言った。バイロンは年の初めに長年付き合いがあった出版者のマレーに丁重に出版を断られた「決定版、審判の幻影」を出版してくれる出版者をまだ探していた。しかし、リー・ハントが雑誌を創刊するからといって、その雑誌に「決定版、審判の幻影」の掲載を依頼することには気が進まなくなっていた。その理由は、シェリーの懇願によってバイロンがすでにハント一家の渡航費用のかなりの部分を負担し、その上自宅まで無料で提供しているからに他ならなった。リー・ハントの雑誌に「決定版、審判の幻影」の掲載を依頼することは、バイロンにとって自分の作品を金を払って出版してもらうのに等しい気がした。また、リー・ハントが発行する雑誌というのは急進的な自由主義を主張する評論を発表するのが目的だろうとバイロンは予想していた。そこで、バイロンシェリーに尋ねた。
「ところで、君は評論を寄稿するのか?」
「散文と詩の両方です。去年、僕はピーコックxcvi[16]に対抗して詩論を書きました。この詩論はそのままでは長すぎますから、リー・ハントの雑誌の目的に添った部分だけ抜粋して書き直してみるかもしれません。それから三韻句法(テルツァリ マ)で長詩を書いています。『生の勝利』という題名なんです。ヴェルギリウスに導かれたダンテの地獄から天国に至る旅xcvii[17]を模倣しているんですが、僕の作品はもっと近代的で、僕の案内役はジャン・ジャック・ルソーです。閣下の『決定版、審判の幻影』はもしかしたらリー・ハントの雑誌の創刊号に掲載されるかもしれませんが、その次には僕の『生の勝利』を掲載できるよう頑張って書いています。閣下は三韻句法では詩を書かれないですか?」
「僕は目下、八韻句法(オッタヴァリ マ)xcviii[18]に凝っているからね・・・。」とバイロンは答えた。
「僕は閣下に三韻句法(テルツァリ マ')の作品をなるべく早く書いていただこうとは思いません。ダンテは三韻句法で百巻からなる『神曲』を書きましたが閣下は八韻句法(オッタヴァリ マ)で『ドン・ジュアン』百巻を書いてください。」
「冗談じゃない。」
三人はこう言って笑いあった。

 

シェリー。」トバイロンが言った。
「君は『エウガネイの丘にて』で完全にワーズワースを超えたね。」
「そうでしょうか?」とシェリーが答えた。
ワーズワースは湖や空が美しいと言う。それだけだ。でも、君の詩からは自然とそこで生きる人間との関わりが感じられる。人間がいるからこそ自然には意味があるんだ。言い換えれば、人間が自然に意味をもたせる。君は自然の意味を描くことに成功している。」
「ありがとうございます。」とシェリーは素直に言った。
「閣下はキーツをお嫌いなようなので『アドニス』は評価していただけなかったかもしれませんが、
アドニス』を書いた時から僕は死を超える永遠について考えてきました。今度の『生の勝利』では生きることの意義を徹底的に追求したいと思います。」
「頑張れよ。」とバイロンが言ってグラスを掲げたのでシェリーとウィリアムズもそれに倣った。
「ところで・・・。」とウィリアムズがバイロンに尋ねた。
「閣下はせっかく購入されたボリバル号で航海なさらないんですか?」
ウィリアムズのこの質問はバイロンにとっては痛かった。六月半ばにボリバル号がジェノバの船舶工場から別荘近くの埠頭に届けられてから間もなく、バイロンが散歩に出かけたついでにボリバル号を見に行くと、ボリバル号の船体に大きな貼り紙がしてあった。
「この船で近海を航行することを禁じる。 警察署」
バイロンボリバル号でシェリーの別荘を訪ねることができない理由を説明した。
「近海でなければ航行してもいいんだそうだ。あるいは一度航海に出たら二度と戻ってくるなという意味でもあるらしい。ベネズエラxcix[19]にでも行ってしまえ、ということらしい。」
「それは残念でした。」とシェリーとウィリアムズが口々に言った。
「君たちは、一週間ほどしたらヨットでうちに帰ると言っていたが、またリヴォルノ経由でピサに来るんだろう。そしたら、シェリー、そのときには『生の勝利』を始めのほうだけでもいいから見せてくれたまえ。」とバイロンは言った。
「もちろんです。でも、写しがいつできるのかわからないんです。」とシェリーが答えた。
「メアリーがいつでもやってくれるんだろ。いいな、君は自分で筆写をしなくていいから。」とバイロンが言うとシェリーは真顔になって言った。
「メアリーは今、筆写ができるような状態じゃないんです。彼女は二週間前に流産して、まだ寝たり起きたりの生活をしています。だから、今日も手伝いに来られなかったんです。」
「流産か・・・それは残念だった。」とバイロンが言うと、驚いたことにシェリーはいきなり甲高い声で「何ですって!」と叫んだ。しかし、すぐに表情を和らげて言った。
「そうか、また子供を亡くしたから『残念だ。』とおっしゃったのですね。でも、僕にとってはメアリーが死ななかったことが幸いなんです。ちょっとした英雄譚なんですが聞いていただけますか?」
こう言ってシェリーは話し始めた。

(続く)

https://kawamari7.hatenablog.jp/entry/2021/09/06/195933

【読書ルームII(109) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 12/17 )

 

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[現在のリヴォルノの入江から対岸を望む。対岸にバイロンの避暑地があった。]

 

「閣下(ロード)。」とシェリーが言った。バイロンが振り向くとシェリーは続けた。
「リー・ハントがとうとうイタリアに来ることになりました。」
リー・ハントがイタリアに来るという話しは、前年の冬にシェリーに「決定版、審判の幻影」の写しを見せた時にすでに聞いていたが、その後のいろんな出来事やアレグラの死によってバイロンは自分の創作以外の面倒なことに関わる意欲を失っていた。
「それで・・・?」とバイロンはわざととぼけて聞き返した。

「閣下(ロード)はリー・ハントが大きな仕事をここですると思われないのですか?」
「さあ・・・。」
自由主義を擁護する評論や文芸作品を掲載する雑誌を発刊するんですよ。」
「誰が寄稿するんだ。」
「閣下や僕や、イタリア人の自由主義者、そしてメアリーも子育ての傍ら、母親を超える文筆家を目指して努力しています。」
バイロンはまた海を見つめた。バイロンにはシェリーとウィリアムズの目的が薄々理解できていた。シェリーはリー・ハントをその大家族と共にイタリアに連れて来るための協力を要請しにきたのだとバイロンは思った。バイロンと長年付き合いのあった出版社の経営者マレーとの間の関係は、一年前に発行された「ドン・ジュアン」の第五巻に多数の誤植が発見されて以来、ぎくしゃくしていた。自分が抱えている出版社との問題、とりわけ過激な内容の「決定版、審判の幻影」の出版の問題などの弱みなどをシェリーは知り尽くした上で自分に更なる援助を要請しにきたということがバイロンにはわかっていた。「小賢しいやつだ。」とバイロンはいまいましく思った。しかし、リー・ハントがイタリアに来ると決めてその計画の最初の頃に賛意を示してしまった以上、今さら、その気になっているリー・ハントやシェリー、その他協力を申し出た人々を落胆させるわけにはいかなかった。バイロンシェリーのほうを振り向くと言った。
「住む家なんかを確保してほしいというんだろ。」
シェリーは黙ってウィリアムズのほうを見た。
「ランフランチ邸をしばらくの間、無料で貸そう。」とバイロンは静かに言った。
シェリーとウィリアムズは肩の荷が降りたとでもいうような表情で帰っていった。バイロンはできの悪い子供に金をねだられては断れずに子供の言いなりになっている親のような気分になり、困惑していた。しかし、ピクニックの際の事件でシェリーに怪我をさせたこと、その時に自分が行った自由主義を標榜する演説、アレグラの死など、すべてがバイロンの立場を弱くしていた。


シェリーとウィリアムズが次にヨットに乗ってバイロンの別荘を訪れたのは七月一日だった。従者が二人の到着を知らせるのとほとんど同時に玄関先でシェリーの甲高い声が響いた。
「閣下(ロード)。リー・ハントがとうとうやってきました。リヴォルノで僕たちを待っています。昨日、ジェノバに到着して、すぐにリヴォルノ行きの船に乗ったと知らせてきました。」
シェリーとウィリアムズが訪れた時、バイロンは執筆に没頭していたわけではなかったが、ピクニックでの事件の責任を一身に背負わされたピエトロと父ガンバ伯爵が翌日七月二日にその件でリヴォルノの裁判所に出頭することになっていて、バイロンはそのことで頭がいっぱいだった。二人は過去三ヶ月間にフィレンツェの裁判所にも召還されていたが、バイロンフィレンツェのイギリス公使などを通じて二人に有利に事を運ぼうとしたのにもかかわらず、結果は芳しいくはなかった。しかし、シェリーと共にリー・ハントとその一家を招き、しかも自分が住んでいる場所を一時期ハント一家に明け渡すことにした以上、一家が落ち着くまで面倒を見ないわけにはいかなかった。


バイロンは四頭立ての馬車に御者をつけ、シェリー、ウィリアムズと一緒に騎馬で入り江の向こうのリヴォルノの港に赴いてリー・ハント一家を出迎えた。ハント一家は牧師の息子で苦学して評論家の地位を築いたやせぎすのリー・ハント、顔色が悪くて咳ばかりしているその妻マリアンヌ、そして外国についたせいで興奮してわけもわからず騒ぎ立てている六人の子供からなっていた。リヴォルノからピサまでは十マイルほどの道のりをハント家の一行と荷物を乗せたバイロン馬車はバイロンシェリー、ウィリアムズの三人の馬に守られて歩み、一行は無事、バイロンが通常居住するランフランチ邸に到着した。
バイロンは「決定版、審判の幻影」の原稿をリー・ハントに渡すことを忘れなかった。バイロンシェリーのようにリー・ハントから恩を受けているわけではなかったが、かつてリー・ハントとその兄が出版物のせいで投獄された時にはしばしば面接に赴いたことがあり、古今の話題がつきなかった。


六人の子供を含めた賑やかな夕食の際、到着を祝って乾杯をしようとバイロンが従者に蒸留酒を振舞わせたが、生真面目なリー・ハントとハント夫人は蒸留酒を断ってグラスに半分ほどのワインで乾杯した。屋敷に到着した時からバイロンは、理想主義者の夫に従順に使えるハント夫人が邸内を見回す際の贅沢を蔑むような目つきが気にいらなかった。

(続く)

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[リヴォルノの一風景]