黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(111) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 14/17 )


「二週間ほど前、あれは六月十六日でした。メアリーが昼前に腹が痛いと言い出したので寝室に寝かせて、僕が書斎で『生の勝利』の始めのほうを書いていると突然、寝室からメアリーのものすごいうめき声が聞こえたんです。僕が飛んでいくと、メアリーが下半身を血まみれにして苦しんでいるじゃないですか・・・。それで僕はどうしたと思いますか?」
「さあ・・・。」とバイロンは言ったが、話の内容をすでに知っているらしいウィリアムズは微笑していた。

「すぐにメアリーを抱いて下の台所に連れていきました。それから彼女を素っ裸にして、ここからが肝心なところなんですが、下女に手伝わせてメアリーの出血が止まるまで、井戸から冷たい水を汲んできては彼女の腹に水をかけ続けたんです。台所の床が川みたいになりましたが、メアリーの命には代えられませんでしたから。」
「すごい話しだな。」とバイロンが言った。
「僕じゃないとできなかったでしょう。」とシェリーが得意そうに言った。
「うん。医者だったらこんなことは到底思いつかなくて、メアリーはどうなっていたかわからない。」
「僕は無駄に化学や生物学の本を読んでいたわけではありませんでした。今、彼女に命があるのは僕の知恵の賜物です。」
「それから、君の愛情・・・。」とバイロンが言った。
「メアリーはまだ二十五歳ですから、体が元に戻ったら子供なんていくらでも作れますよ。だから、閣下が『残念だ。』とおっしゃった時に僕は思わず聞き返してしまったんです。生きているということは本当に素晴らしいことです。」シェリーはこう言うと悪戯っぽく片目をつむってみせた。
寝室に向かう途上、シェリーの話を聞いてバイロンも満足していた。
シェリーはこれで良かったんだ・・・。」とバイロンは思った。「リー・ハントは来たし、メアリーともこれからは仲良くやっていけるだろう。シェリーは現代版の『神曲』になるかもしれない『生の勝利』を完成させ、散文で社会批判もする。シェリーとの意見の相違についてのリー・ハントの意見を聞けるし、イタリア人の自由主義者の考え方を組織的に知ることができるようになるだろう。」


翌朝、バイロンが予想していたとおり、リー・ハントが現金を全く所持していないということがわかった。リー・ハントにとりあえずの小遣いを与えた後、必要なものを取り揃えようとするハント夫人と従者の間に立ってバイロンは通訳まですることになった。ところが、午後になり、ガンバ伯爵家の従者が気が動転した様子でバイロンを訪ねてきた。
「どうした?」と尋ねたバイロンに従者はがっくり肩を落すと言った。
「閣下(シニョーリ)・・・。伯爵様親子がトスカナから退去するよう裁判所に命令されました。四日間しか猶予を与えられていません。」
バイロンはこのような不当な扱いを薄々予測してはいたが、やはり残念に思った。ガンバ伯爵父子がラベンナから追放処分を受けた時には二十四時間の猶予しか与えられなかったが、今回は四日の猶予があるのでバイロンも何かと手助けができた。
「ここはシェリーとウィリアムズがいるからどうにかなる。後のことをと従者たちに言いいつけたらすぐにそちらに行くと伯爵に伝えてくれ。」バイロンがこう言うと従者はさらにつけ加えた。
「伯爵様から閣下(シニョーリ)にお願いするよう承っております。お嬢様を夏の間だけでも閣下のお屋敷に住まわせてほしいとのことです。」
バイロンはリー・ハント一家の大家族が越してきたせいで騒然となっている自宅にさらにテレサが加わったらどうなることかと頭を抱えた。しかし、困惑しているガンバ家の人々を助けないわけにはいかなかった。
「伯爵にどうぞ、と言ってくれ。ただし、イギリス人の家族と一緒だけどね・・・。」
「では、伯爵様にお使えできる日も残り少なくなりましたが、精一杯お勤めしに戻ります。」こうして、自分自身の雇用のことで頭が一杯になっているガンバ家の従者は去っていった。

 

ガンバ家の屋敷の中は上を下への大騒ぎだった。使用人たちの中にはたった四日の猶予で解雇を言い渡され、途方に暮れて涙ぐんでいる者もいた。ピエトロはバイロンを見つけると近寄ってきて言った。
「僕のためにご迷惑をおかけしてすみませんでした。」
「何を言っているんだ。元はと言えばうちのヴィンツェンツィオ・ピッパがやったことじゃないか・・・。」
「いいえ、ガンバ家のような国粋主義者の家系に生まれた僕らが、風見鶏みたいなグィッチオーリのような人間とは相入れずに、時代が変っても頑なに信念を変えなかったせいなんです。でも、僕はローマにいた間に南イタリアの連中とよく話し合いました。イタリアは一つだと・・・。僕らはジュリアス・シーザーの時代の夢を見ているだけなのかもしれません。でも、シーザーやナポレオンみたいに外国を侵略しようなんて野心はありません。それなのに、裁判官や役所の連中からピッパに殴られた下士官に至るまで、みんなイタリア人のくせにオーストリアに味方して僕らを敵扱いするんです・・・。」
「ピエトロ・・・。」と、言ってバイロンは初めて出会った時よりも背丈が伸びて男らしくなったピエトロの両肩に手を置いた。
「君が信じてきたこととやってきたことは正しい。これからも信念を持って生きるんだ。そのうち、きっとまた一緒になって協力しあうことがあるだろう。」
「はい、閣下(シニョーリ)。どうか、姉をよろしくお願いします。」
夜になってランフランチ邸に戻ると、すでに衣類などを満載した馬車とともにテレサが到着していて、ハント夫人との間でものすごい口論が始まっていた。ただし口論とは言っても、テレサは英語が話せず、ハント夫人はイタリア語を話さないので、意志の疎通がないままお互いにわめきあっているだけだった。ハント夫人は自分たち一家が先に到着したことを盾に、豪華なドレスや調度品などを運び込んだテレサを責めていた。テレサテレサでハント家の子供たちの行儀の悪さを非難していた。バイロンはまず二人をなだめ、それから屋敷の中でのハント家とテレサの居住区域を定め、二人を納得させた上で今度はガンバ家のほうへと急いだ。

(続く)

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