黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(112) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 15/17 )

 

その後の四日の間、バイロンはハント家のことはシェリーとウィリアムズに任せっきりで、ガンバ伯爵父子が国境の外で必要とするものを買い揃えたり、自分の屋敷で預かれるものを運ばせたりする用を使用人たちに言いつけ、監督を行った。ハント家の人々とテレサとの軋轢もガンバ父子が無事にトスカナの国境を越えるまではお預けにして、バイロンはランフランチ邸には寝るためだけに戻った。


嵐のような四日間の猶予期間が過ぎ、ガンバ伯爵父子がトスカナからの退去の命令を受けた日から五日目、バイロンはガンバ伯爵父子を国境からほど遠くない仮の滞在地であるルッカに送りとどけた。テレサは来なかった。「さようなら(アッディオ)。」と言って二人を見送ってから、バイロンは従者と共にトスカナの国境からピサのランフランチ邸には寄らずに真っ直ぐに別荘に戻り、疲れのためにベッドに頭をつけるなり眠りに落ちた。


翌日は夏に入ってから変ることのない晴天だった。朝早く目覚めたバイロンは書斎の机に向かうとまず、原稿を整理した。「ドン・ジュアン」の第六巻から第八巻までの原稿を整理し、先を書き進む作業と筆写をどのような手順で行おうか思案した。そして、いつもどおり朝食を抜いて早めに昼食をすませた後、うだるような暑さの中で午睡を取り、午後遅くなってから目覚めた。バイロンは昨日、猛暑の中で酷使した馬のことが心配になったので馬屋に赴いた。すると、シェリーとウィリアムズに貸した馬が戻っていた。自分が午睡を取っている間に二人が馬を返しにきて、眠っている自分を起こすのを憚って挨拶もせず、そのまま近くの埠頭に留めてあった、「ドン・ファン号」と船体に記されたままのエアリエル号に乗って帰宅したのだと思い、バイロンはそれ以上のことは考えなかった。シェリーとウィリアムズは一週間、ハント一家の面倒を見るつもりで妻たちにもそう言ってあると語っていたが、ハントのことが心配になるか、あるいは買ったばかりのヨットに乗りたくなってすぐにまたやってくるのに違いなかった。バイロンは気の赴くまま昨日とは別の馬に乗って外の散策に出かけた。


七月に入ってからの狂奔を思い出し、バイロンはほっと息をついた。狂奔は七月に始まったことではなかった。六月に入ってから、日照りが続いたせいでどこの井戸も水が枯れ、使用人たちに遠くの山際まで水を汲みにやらせる必要が生じていた。暑さも手伝って、使用人たちの間で喧嘩や水汲みをめぐる争いが頻繁に起きていた。
「この夏の狂奔全てがわれわれ全員を発展に導いてくれるのならば何でもないことだ。カンバ親子と協力できる日もきっとすぐにやってくる。」とバイロンは思った。ピサにいるテレサとハント一家もこの暑ささえどうにかしのいでくれれば、そして涼しい秋がくれば全てがうまくいく、とバイロンは思おうとした。その時、ぽつりぽつりと雨が降リ出した。バイロンが馬の歩調を速めるうちに、風が強くなり、空がにわかにかき曇り、雨は急に大粒になってバイロンが馬に乗って歩んでいる田園の、あたりは一面驟雨に覆われた。バイロンがあたりを見回すと一軒の小屋が目に入った。小屋まで駆け足で馬を進め、馬を下りて扉をそっと押してみると小屋は農具などを置く場所らしく、農民が扉を開け放しにしたままで農作業に出かけたのか、中には人気がなかった。バイロンは中に入り、馬具が雨に濡れないように馬も中に引き入れた。バイロンがこのような場所に身を置くのは初めてではなかったが、藁の山に身を寄せたのは遥か昔のことだった。バイロンには藁の匂いが懐かしかった。バイロンは親友ホブハウスや小姓のロバート・ラシュトンと三人でスペインを旅行した時にもこのような場所で一夜を明かしたことがあったのを思い出した。しかし、かつて一人でこのような場所に留まった時のことは追憶の彼方でほろ苦い思いに包まれていた。


外は暴風雨になり、時折雷がなっていた。三十分が過ぎた。雷は止み、雨はだいぶ納まってきたようだった。バイロンが小屋の外に顔を出すと雨は止んでいたが、湿った風だけが時折強く吹いていた。バイロンは馬を引いて小屋から出すと馬にまたがって別荘を望む高台を目指した。丘の一番高い地点にまで来るとバイロンは馬を止めた。ティレニア海の上に広がる西の空を真っ赤に染めて太陽が沈もうとしていた。南南西の方角の海を望むと、煙った視界のかなたにエルバ島c[20]とコルシカ島ci[21]が霞んで見えた。北東の彼方の内陸にはガンバ伯爵父子が一時の落ち着き場所にしたルッカが、北西にはサヴォイ公国の一部となっている港町ジェノバがあった。バイロンはこの地をこよなく愛していた。
「命ある限り、私は希望を捨てない。ピエトロも同じだろう。ナポレオンがそうだったように・・・。」バイロンは自分自身に言い聞かせると自分の別荘へ戻るために馬を進めた。


四日後、父ガンバ伯爵や弟ピエトロと別れ、同居人のハント一家とも相入れずに寂しく暮らし始めたテレサが夕涼みにランフランチ邸のバルコニーにたたずんでいると、一台の小さな馬車がバルコニーのすぐ下に乗り付け、中から二人の女性が出てきた。先に下り立ってバルコニーに立っているテレサを見上げたのは大理石のように蒼白な顔をしたメアリー・ゴッドウィン・シェリー、もう一人はエドワード・ウィリアムズの妻、ジェーンだった。
シェリーをご存知ありませんか?一週間で戻ると言ったのにまだ家に戻らないんです。」とメアリーはイタリア語で絶叫した。
「四日前にここを立たれました。その後、何も聞いていません。」とテレサはバルコニーから叫び返した。バイロンシェリー、ハントの三人の間、そして、バイロンテレサとの間には頻繁に使者のやりとりがあり、三箇所に別れて住むこれらの人々の消息が三日以上途絶えることはないはずだった。しかしシェリーとウィリアムズとが何かの用でバイロンの別荘に滞在することにして、そのことを使者が伝え忘れた可能性もあった。ただ、夕闇の中に浮かんだメアリーの幽霊のように蒼ざめた顔を見た時にテレサの背中に冷たいものが走っていた。
「すぐに大きな馬車を用意させましょう。バイロン卿のところに行くのよ。」とテレサはこう言ってバルコニーのある二階から階下に駆け下りた。
(続く)

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