黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(118) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)4 /5

 

ジョージの母は日に日にむずかしくなっていった。香水屋に手紙を取りに行って戻った後、鬱々として藁布団の上に身を横たえて何もしないでいることも多くなった。ある日、母はとうとう癇癪を起こしてジョージに向かって叫んだ。
「この悪魔の子!」
ジョージは心を決めた。右足が曲がって生まれたことも、「小公子(リトル・ロード)」なる身分を得たことも、全てはジョージには何の責任もなく、天から降ってわいたことだった。ジョージにとっては「ちんば(レ イム)ロード」と言ってからかわれることも、わずかばかりの持ち物に加えて母の自尊心を奪ったと悪魔呼ばわりされることも、すべてが不当なことだった。その夜、母が寝入ったのを見届けるとジョージは小屋を出た。


月が明るい夜だった。ジョージは足が赴くまま、びっこを引きながら街とは反対側に向かって荒野を歩んだ。母が寝ている小屋が見えなくなるまで歩くとさすがに疲れて眠気が襲ってきた。ジョージは柔らかな草地を選んで聖書を枕にして眠った。


朝、目が覚めると草地につけていた体の半分がしっとりと朝露で濡れていた。慌てて起き上がって聖書を手に取ると、下になっていたほうの表紙がやはり濡れていてページの端が湿ってでこぼこになっていた。しかし、太陽が昇れば全て乾くだろうとジョージは思い、荒野を前進することにした。朝食になるものを持ってこなかったのでひもじかった。しかし、イエス・キリストもこれに耐えたのだとジョージは考え、勇気を奮った。


馬に乗った二人連れの男とすれ違い、一人が馬を止めてジョージに尋ねた。
「坊や、どこに行くの?」

ジョージは黙って前方を指差した。二人の男は腑に落ちない様子でそのまま馬を駆って去っていった。新約聖書の四つの福音書をくまなく読んだジョージはこの先待ち構えているのが悪魔の誘惑、ヨハネによる洗礼、福音の伝道、そして十字架の上での死だということを知っていた。
「僕はこの世の領地なんていらない。福音を伝えたい。そして天国に行きたい。でも、僕が伝えられる福音とは一体何なのだろう?」
ひもじい腹を抱えながらジョージは自分が伝えなければならない福音のことについてばかり考えた。福音さえ伝えられれば、十字架にかけられることなどは怖くないとジョージは思った。悪魔の誘惑などは簡単にかわすことができる自信がジョージにはあった。


太陽が高く上ったころ、馬に乗った一人の若い男が後ろから全速力で駆けより、びっこを引きながら歩いているジョージの前で馬を止めて言った。
「アグネスの亭主だ。アグネスに言われて君を連れにきた。」こう言いながら男はジョージのほうに馬を進め、ジョージに向かって手を差し伸べた。
「嘘だ。僕は行かない。」とジョージは突っぱねた。
「何言っているんだ。君は小公子(リトル・ロード)になったんだ。お母さんもお屋敷の大勢の召使いたちもみんなが君を待っているんだぞ。」
「僕は領地や召使いなんかはいらない。」
「一体、どうするつもりだったんだ。本の他には何も持たずに、町外れに向かって歩くなんて、気が狂ったとしか思えない。」
「僕は狂ってなんかいない。」
「狂っていないのなら、さあ、馬にのってアバディーンに帰ろう。お母さんとアグネスとメイが待っている。」
「嫌だ。」
「強情な子だ。じゃあいい。ここでこうして睨みあっていよう。そのうちに手分けして君を探しているお母さんかアグネスかメイのうち誰かが馬の上の僕を見つけるだろう。」
男はそのまま黙った。ジョージもそれ以上は何も言葉を発することができなかった。腹のひもじさに加えて咽喉も渇いていた。
「坊や、水を飲むか?」と言って男は水筒を投げ下ろした。ジョージは頑なに「いらない。」と言った。頭や首筋に容赦なく照りつけるスコットランドの夏の太陽を感じた頃、ジョージは立っていられなくなり、草の上に腰を下ろした。男は馬から下り、水筒を拾うと蓋を開けてジョージを抱きかかえるようにして水を飲ませた。水は冷たく甘かった。
「さあ、ジョージ。お母さんとどんな面白くないことがあったのか知らないが、お母さんは君のことを本当に心配している。アグネスもだ。だから、一緒に帰ろう。」と男は言った。
ジョージはこれ以上逆らうことはできなかった。男はジョージを軽々と抱き上げると馬のあぶみにジョージの片足をかけさせ、ジョージの腰を押し上げて馬にまたがらせた。そして自分も馬に乗ると、アバディーンの街を目指して並足で馬を進め始めた。

(読書ルームII(119)に続く)