黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(122) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

最終話 ギリシャに死す(一八二四年)およびあと書き等 3/5

 

バイロンの異母姉のオーガスタ・リーはバイロン社交界の寵児だった頃から王家の侍女として王族の人々の相談相手となる大人しい賢女として高い評価を得ていた。バイロンが亡くなる数年前に新国王が即位し、その後王族の人々の顔ぶれが代わり、オーガスタ自身、多くの子供を出産して育てながら宮廷に出仕する生活に体力的な限界を感じることを王家の者に仄めかしたところ、王室は喜んで彼女が出仕するのに便利なように王宮に近接する住宅を彼女に貸与した。こうしてオーガスタは年老いても王族の人々の話し相手を務め、また大勢の子女とさらに大勢の孫たちの頻繁な訪問を受ける充実した人生を送った。第ニ話 優しき姉よ に登場する。

 

メアリー・ゴッドウィン・シェリーは夫パーシー・ビッシュ・シェリーの死後、同時に寡婦となったエドワード・ウィリアムズの妻ジェーンやリー・ハント一家と共にジェノバに引っ越したバイロンの後を追ってバイロンの近くに居を定め、バイロンの作品の筆写などを手伝った。リー・ハントが短命に終わった雑誌「リベラル」を創刊してバイロンの「審判の幻影」を公にしたのもジェノバにおいてである。メアリーはバイロンとピエトロ・ガンバがギリシアに赴いた後、ジェーンやリー・ハントらと共にイギリスに戻り、たった一人生き残った息子パーシー・フローレンスを育てる傍ら、パーシー・ビッシュ・シェリーの遺稿の整理と編集を手がけ、自分でも数編の小説を書いた。パーシー・ビッシュ・シェリーが亡くなった際に二十五歳だったメアリーはその後再婚せず、一人息子のパーシー・フローレンスをバイロンと同じハロー校からケンブリッジ大学に進学させ、その息子がパーシー・ビッシュ・シェリーの父ティモシー・シェリーの爵位と財産を受け継ぎ、結婚して幸福な家庭を築くのを見届け、一八五一年に五十三歳で没した。第一話 レマン湖の月 と 第八話 暴風雨 に登場する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC?wprov=sfti1

 

キャロライン・ラムバイロンが亡くなった翌年の一八二五年にウィリアム・ラムと正式に離別し、その後、零落した生活を送るが、一八二八年、自閉症だった息子の後を追うようにしてウィリアム・ラムの屋敷の中で亡くなった。享年四十三歳だった。第七話 レディー・キャロライン  に登場する。


ウィリアム・ラムは妻キャロラインとバイロンとのスキャンダルがあった一八一二年に、「信教の自由や工場設備打ち毀しに対する同情的かつ急進的な考え方」を表向きの理由として衆議院での議席を失った。しかし、後にメルボルン子爵の称号を継いで貴族院議員として政界に復帰した。一八二五年には支持者の意見を聞き入れて愛する妻キャロラインと離別、一八三○年にイギリス政府内閣の内相、一八三四年に短期間首相を務めた後、一八三五年から一八四一年までの六年間に渡ってビクトリア女王の最初の首相として敏腕を振い、国内外におけるイギリスの隆盛と安定とを築いた。第七話 レディー・キャロライン に登場する。

ウィリアム・ラム (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%A0_(%E7%AC%AC2%E4%BB%A3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%AD%90%E7%88%B5)?wprov=sfti1

 

クレア・クレアモントはフィレンツェ、ウィーン、ロシア、ドレスデンなどで裕福なイギリス系住民の家庭教師を務め、一生を独身で通した。第一話 レマン湖の月 に登場する。

 

父と共に生まれ故郷のラベンナに戻ったテレサ・グイッチオーリ伯爵夫人(旧姓ガンバ)はバイロンの死後しばらくして、別れた夫であるアレッサンドロ・グイッチオーリ伯爵と元の鞘に収まった。年配の伯爵の死後、しばらくは寡婦だったが、四十七歳の時に別の貴族と結婚し、社交サロンを主催したりバイロンの思い出を執筆したりして残りの一生を過ごした。第八話 暴風雨に登場する。


一八二○年にナポリウィーン体制に対する最初の烽火を上げたカルボナリ運動は一八三○年までに数々の謀略によってオーストリアによるイタリア支配を揺るがそうとしたが、全ての努力は灰塵に帰し、替わって一八三三年にカルボナリ党出身のジュゼッペ・マッツィーニが組織した青年イタリア党がサヴォイで烽火を上げた。次いで、一八四八年のフランス二月革命とこれに次ぐウィーン体制の崩壊を受け、青年イタリア党が中心となって憲法制定とオーストリア勢力追放を目的とした戦いが開始された。オーストリア勢力はその後漸次イタリアから締め出され、一八六六年には青年イタリア党の分派「赤シャツ党」を率いるガリバルディーが南イタリアを解放して現在のイタリアは完全に独立と統一を達成した。

イタリア統一運動 (ウィキペディア)


ピエトロ・ガンバのその後については寡聞にして何もわからない。しかし、一八○三年に生まれ、バイロンが人生の最後で弟に対するような信頼と愛情を寄せ、バイロンの最期を看取ったピエトロが1830年ギリシア独立だけではなく、1871年のイタリア統一の輝かしい瞬間まで健在だったことを願わずにはいられない。第八話 暴風雨最終話 ギリシャに死す に登場する。

 

絶対王制下で議会の権威を拡充し、イギリスのみならず現代の世界各国の議会制度の模範を築いたイギリス進歩(ホイッグ)党は、十九世紀半ば頃までは数々の社会改革を推し進め、メルボルン子爵ウィリアム・ラムのような優れた政治家を輩出したが、十九世紀後半に至り、社会の変化に対応した支持層を獲得できないまま後のイギリス労働党の母体となる修正社会主義と現在のイギリス保守党の母体である王党(トーリー)派の両方に吸収され、あるいは、修正社会主義イギリス労働党の動きに取って替わられて自然消滅した。


イギリスに搬送されたバイロンの遺骸は約一世紀半の間、バイロンが少年時代を過ごした先祖代々の土地、ノッティンガムシャーのニューステッドに葬られていたが、一九六八年にバイロンの棺はロンドンのウェストミンスター寺院内にある「詩人の区画」に移された。バイロンの棺をこの区画に移すべきであるという意見はそれより以前からあり、一九六八年以前には少なくとも一九二四年にそのような提案が公になされていた。しかし、バイロンの棺が死後一世紀半もの間この区画に移されなかった理由は、彼の作品の中で辛らつな風刺の対象となった人々が完全に過去に属するのをバイロンの作品の愛好者たちが辛抱強く待ったためか、あるいは、島国イギリスの人々にとって、バイロンがあまりに大陸的で、あまりに世界市民的だったせいかもしれない。

 

(読書ルームII(123) に続く)