黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(3) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第一話 レマン湖の月 (一八一六年夏 スイス 3/17)

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メアリー、クレア、ジョン・ポリドリの三人はとっくの昔に朝食を済ませているようだった。バイロンは朝食は我慢することにした。母親譲りの太りやすい体質を気にし、もっと若かったころから腰や腹のぜい肉が気になる度に絶食と激しい運動を実行してきたので、朝食を抜くことは何でもなかった。

 

朝のとりとめもない慌ただしさの中、昨晩読んでいたルソーの「告白」の続きを読む気にもなれず、バイロンは書きさしの詩稿をかき集め、その中から「ハロルド卿の巡礼、第三巻」の最近完成したばかりの箇所に目を走らせ、より相応しい表現に置き換えることができる箇所に線を引いたり、構想が固まりかけている未完成の先の部分で使うことになる韻の揃った単語の組み合わせを書きなぐったりした。満足がいくまで推敲を重ねた後、バイロンもう手を入れるもないだろうと思われる「ハロルド卿の巡礼、第三巻」の巻頭の部分を見やったが、あたかも自分が吐いた血の跡を見せつけられたような眩暈に襲われ、すぐさま、巻頭のいくつかの節(スタンザ)が書かれた紙を脇へ押しやった。

 

「おまえの顔は母親似なのだろうか、かわいい我が子よ。
エイダ、わが一門とわが心にとっての唯一の子よ。
最後におまえの青い目を見た時、おまえの目は微笑んでいた。
おまえから別れなければならなかった時、
これが見納めだとは思わず、希望を抱いていた・・・。」

『ハロルド卿の巡礼 第三巻』第一節


クレアの歌声は続いていた。バイロンはメアリーとクレアの二人がいつもよりも早く訪れた理由を知っていた。それはクレアが早くピアノを弾きたかったからだけではなかった。イタリア人の父を持つ医者のジョン・ポリドリがメアリーにイタリア語を教える約束をしたからだった。学校に通うことのなかったメアリーはタッソーの「エルサレム解放」を原書で読むことを夢み、日を追ってイタリア語の習得に熱を入れるようになっていた。実際、バイロンシェリーの二つのグループの中でジョン・ポリドリを「ポーリー・ドーリー(ポーリー人形ちゃん)」と呼んで馬鹿にしていないのはメアリーだけだった。

 

バイロンはイギリスを立ってから何度もポリドリを連れてきたことを後悔した。イタリア人の父とイギリス人の母を持つこの二十一歳の医師はエジンバラの医学校を十九歳で、しかも優秀な成績で卒業したほどの頭の持ち主だったが、その文学への志がメアリーを除く一行の揶揄の的になっていた。地中海旅行を元に「ハロルド卿の巡礼」の第一巻と第二巻を書き上げ絶大な人気を博したバイロンから成功の秘密を盗むことができるとポリドリは考えているようだった。しかし、ポリドリの詩才は凡庸以外の何物でもなかった。そのポリドリを、二十四歳でいまだ悪童のようなシェリーはしばしば悪ふざけの標的にし、クレアはポリドリの凡庸さと秀才特有の生真面目さをあざ笑っていた。ポリドリは一度真剣な表情で、ホテルで出会ったあるイタリア婦人に対する慕情らしき感情を歌った凡庸きわまりない詩をバイロンに見せたことがあった。バイロンはその詩をポリドリも含めた一座の中で暗唱して大恥をかかせた。ポリドリの欠点は作詩の上の凡庸さだけではなかった。ポリドリは医者のくせに、主人のバイロンよりも頻繁に体調を崩し、船の上では船酔いに、馬車の中では馬車酔いになり、土地が変れば水のせいで腹を下した。


「ポリドリとクレアがうまくいけば・・・。」こうバイロンは思うのだが、それは所詮、期待できないことだった。シェリーとの安定した関係を確信しているメアリーが自分より年上のポリドリを陰に日なたにまるで弟のようにかばうのを見て、クレアはあてつけのようにポリドリに当たった。バイロンとクレアとの関係も、ジュネーブで落ち合った最初の晩、一同全員で夕食を共にした時から包み隠すことは何もなかったのであるが、ともあれ、バイロンはクレアをイギリスに置き去りにして大陸に来ていた。そしてバイロンがイギリスを立つ前から、シェリー、メアリー、クレアのいつでも行動を共にする三人組のうちクレアにはバイロンを追う大きな理由があり、一行の中心であるシェリーが恩師ゴッドウィンの娘メアリーとの駆け落ち先として尊敬する先輩詩人バイロンと同じ目的地を選んだことも自然だった。


* * 

 (読書ルームII(4) に続く)

 

【参考】

ウィキペディアによると "吸血鬼(The Vampyre 1816年刊行) の作者であるジョン・ポリドリはジョージ・バイロンの侍医であったため、刊行当初はバイロン作と誤認されていた。" のだそうです。バイロンは生涯で何度も小説執筆に挑戦しましたが出版できる分量を書きためることが出来ませんでした。

 

 

I.

IS thy face like thy mothers, my fair child!

ADA! sole daughter of my house and heart?[276][216]

When last I saw thy young blue eyes they smiled,

And then we parted,—not as now we part,But with a hope.—

Awaking with a start,The waters heave around me; and on high
The winds lift up their voices: I depart,

Whither I know not; but the hour's gone by,

When Albion's lessening shores could grieve or glad mine eye.[gh]

(CHILDE HAROLD'S PILGRIMAGE CANTO THE THIRD 巻頭)