黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(17) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第一話 レマン湖の月 (一八一六年夏 スイス 17/17)

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シェリーが燭台を持って立ち上がり、真っ暗な周囲を蝋燭の火で照らすとクレアは部屋の隅の安楽椅子の上で体を折るようにして眠っていた。バイロンはびっこを引きながら安楽椅子に歩み寄るとクレアを軽々と抱き上げた。一座の三人の男、ロバートも含めると四人の男の中で大柄な少女を軽々と抱き上げるだけ肩幅も広く筋骨たくましいのはバイロンだけだった。だが、クレアを軽々と抱き上げたバイロンが窓の近くの長いすに向かって歩み始めた時、バイロンが内翻足であることを承知している者でさえ一瞬バイロンが少女の重さのせいでよろめいたのではないかと疑うほど、バイロンは右肩を大きく落とした。しかし、もちろんバイロンはよろめいたのではなかった。レマン湖畔の家(ヴィラ)に居を定めて間もなく、シェリーの悪ふざけにひっかかったジョン・ポリドリがバルコニーから飛び降りて足を捻挫した時も、内側に曲がった自分の右足を引きずりながら、大の男のポリドリを家の中へ抱え込むほどにバイロンは逞しかった。


バイロンが声をかけるとロバートは部屋を飛び出していって燭台をもう一つ持って戻ってきた。「もう夜が更けたから輪読会は終わりにして寝ることにしよう。」とバイロンが言った。シェリー、メアリー、そしてジョン・ポリドリの三人は燭台を持ってそれぞれの寝室に引き上げた。駆け落ち中の恋人同士であるシェリーとメアリーは当然のように二人で一つの燭台を掲げ、二階の寝室に向かった。部屋の中央に一本の蝋燭が取り残され、あたりは潮が引いた後のように静かになった。嵐が止んだ窓の外には月が昇っていた。バイロンはクレアと二人きりで居間に取り残された。


長いすに横たわったクレアの寝顔を見ながらバイロンは瞑想に耽った。月の光に照らされたクレアの寝顔は屈託なく、無垢そのものだった。胸にギャザーの寄った、メアリーのものと色違いでお揃いの象牙色のドレスの下に、生まれてくる子供が息づいているはずの腹の膨らみが目を凝らせばわかるほどになっていた。
「クレア・ド・リューン(月の光)」とバイロンは呟いた。
「バロネス・クレア・ド・リューン(月光男爵夫人)」とバイロンは呟き、そして「光」を意味するフランス語の「クレア」が男性名詞であるということを思い出した。
「バロン・クレア・ド・リューン(月光男爵)」
どちらの名前も目の前で眠っている純真な少女にはふさわしくないと感じ、バイロンレマン湖の凪いだ水面のはるか上の、爪のように細い月を窓越しに仰いだ。


「あの日もピカデリー・テラス十三番のアパートの窓から爪のように細い月を望むことができた。」
バイロンは過ぎ去ったロンドンでの生活を思い出した。もう二度と戻ってくることのない日々だった。バイロンはピカデリー・テラス十三番のアパートやホテル英国(オ テ ル ・ ト ゙ ・ ラ ンク ゙ ル テ ー ル)、そしてここレマン湖畔の家でクレアと間で幾度となく持った会話の内容を今一度思い返してみた。
「クレア、私は妻と別れたとは言え、君とは結婚できないことはわかっているだろうね。」
「はい。私が欲しいのは閣下(ロード)の愛情です。男爵夫人の肩書きではありません。」
クレアは貴族社会の習慣を知っていた。自分に非があって一度離別を経験した貴族の男は、別れた妻が再婚したり不品行を行ったりしない限り、二度と正式に妻を迎えることはできなかった。そして別れた妻が「レディー」の肩書きを名乗り続け、「レディー」としての対面を保てるよう、妻に去られた貴族の男は必要な援助を別れた妻に生涯に渡って与えつづけなければならなかった。それでも公然と愛人を作り、結婚外でも家庭を築くことが許されている分だけ、離別にまつわる貴族社会のしきたりは男のほうに有利にできあがっていた。

 

優良なサラブレッド種の馬を掛け合わせるようにして、周囲の祝福と羨望と期待とを一身に集めて一緒になったバイロンと才女アナベラ・ミルバンクとの生活はわずか一年で破綻してしまった。「それなのに、自分とさして共通するものもないのに愛人となって共に生活できるなどと、この世間知らずの少女は本気で考えているのだろうか?」とバイロンは考え、あの手この手で少女を説得して自分を諦めさせようとした。しかし、バイロンの愛人の地位に不足がないことを主張する際にクレアがいつでも持ち出したのは、自分の母の現在の夫で血の繋がりはないが尊敬してやまない養父ウィリアム・ゴッドウィンの自由思想だった。
「ジェーン。君には男と女の関係というものがわかっていない。」とバイロンは思った。ジェーンというのはクレアが生まれた時に与えられた洗礼名だった。しかし、クレアの寝顔を覗きこんでこう呟きながらもバイロンは自分自身が男と女の関係というものを本当に理解しているのか自らに尋ねてみないわけにはいかなかった。「それに、わかったからと言ってどうなるものでもない。男と女の関係は・・・。」


新約聖書マタイ伝にある「神が合わせられたものを人は離してはならない。」という運命に定められた関係をバイロンがどれほど願い、妻との関係を修復させようと努力したかわからなかったが、全てが終わってしまった今となってはそれらは過去に属することだった。しかし今でさえ、伝統的な男女関係の定義はバイロンを混乱させ、絶望させた。


「ジェーン、よく考えてみなさい。君が私に運命づけられているかどうか、シェリーが誰と運命づけられているのかを・・・。」とバイロンは眠っているクレアに静かに語りかけた、しかし、自分自身を省みた時、バイロンはやりきれなさに首を振った。

 

「私と運命づけられた女(ひ と)はただ一人しかこの世にいなかった。私と寄り添って生きていくべき魂は結婚という形によって絶対に祝福されることがない女(ひ と)に宿っていた。そしてそのその女(ひ と)との結婚がかなわない以上、また、男爵としての対面と家系を保つ必要がある以上、私はアナベラと夫婦になるしかなかったのだ・・・。」
バイロンはこう思い、内側に曲がったままどのような矯正も効果がなかった自分の右足を眺めた。
「ジェーン、私のことは諦めてイギリスに帰って幸せになりなさい。」
バイロンはクレアの寝顔を見つめると言った。
自由主義は君の生きる標(しるべ)としてはあまりに厳しすぎる。それから、間違ってもシェリーとメアリーの仲に割って入らないようにね。シェリーにはメアリーが必要だし、メアリーにはシェリーが必要なのだから。君はまだ若いのだから、子供が生まれたら養子に出して、いい男を見つけて幸せな結婚をしなさい。」こう言ってバイロンはため息をついた。
「ジェーンのお腹の中の子供は月の光(クレア・ド・リューン)によって孕まされた。そういうことにしておこう。」
レマン湖を煌々と照らす三日月を仰ぎながらバイロンはこう考え、別れた妻のもとにいる赤ん坊の娘エイダに思いを馳せた。妻のアナベラに二度と会うことがかなわない以上、エイダとも死ぬまでに会うことがかなうかどうかわからなかった。バイロンはクレアのお腹の中の子供を手放したくはなかった。しかし、自分がその子供を引き取ってエイダの身代わりとして一人で育てていける自信もなかった。
「そうだ、私と寄り添って生きていくべきだった女(ひ と)がクレアのお腹の中の子を育てるのがいい。」
こう思い立ってバイロンははたと膝を打った。クレアのお腹の中にいるのが誰の子であろうが決して手放したくはない、バイロンはそう思った。


わが娘よ! わたしはおまえの名と共にこの巻を始めた。
わが娘よ! だから、わたしはおまえの名と共にこの巻を終えよう。
わたしはおまえを見ることができない。
おまえの声を聞くこともできない。
だが、おまえほど多くを意味しているものはない。
―――――――――――

わたしの声はおまえの未来の姿に和し、
わたしの心臓が冷えた後でも、
おまえの心に届くだろう。
おまえの父の墓から発せられる、

徴(しるし)と響きになるだろう。
「ハロルド卿の巡礼 第三巻」第百十五節

(読書ルームII(18) 第二話 優しき姉よ に続く)

 

CXV.[352]

My daughter! with thy name this song begun!

My daughter! with thy name thus much shall end!

—I see thee not—I hear thee not—but none

Can be so wrapt in thee; Thou art the Friend

To whom the shadows of far years extend:

Albeit my brow thou never should'st behold,

My voice shall with thy future visions blend,

And reach into thy heart,—when mine is cold,

—A token and a tone, even from thy father's mould.

(CHILDE HAROLD'S PILGRIMAGE CANTO THE THIRD )115 節)

(読書ルーム(18) 第二章 優しき姉よ に続く)

 

【参考】

エイダ・ラブレイス伯爵夫人 (ウィキペディア)