黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(16) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第一話 レマン湖の月 (一八一六年夏 スイス 16/17)

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『アビドスの花嫁』や『異教徒』みたいなトルコを舞台とした異国的な作品よりも一層、深い哲学的な内容になるんですね。僕は自由というのは素晴らしいもの、獲得されるべきものだとばかり思っていました。でも、自由が恐ろしいものだとすれば僕らは不自由に生きたほうがいいんでしょうか?」とシェリーが尋ねた。
「生きて暮らしている僕らには選択の自由、すなわち自分にふさわしいしがらみを選ぶ自由がなければならない。絶対的な自由は不可能だし不必要だ。」とバイロンが答えた。
「閣下の作品を楽しみにしています。」とシェリーが言っただけで一同は黙っていた。バイロンの提案で一同は早い夕食を取ることになった。部屋の中は暗くなっていた。ロバートが燭台に火をともしにやってきた。
太りやすい体質のバイロンが好む質素な夕食を取りながら、一同は窓の外に耳を傾けた。風の音だけが聞こえていた。バイロンが言った。
「夕食が終わったら、寝るまで、ゲーテの『ファウスト』を朗読しよう。みんなで順番に・・・。
それぞれ、やりたい役はあるかな?」
「僕、ファウスト博士をやりたいです。」とまずシェリーが名乗り出た。
「クレアがマルガリータの役をやるのはどうかしら?」とメアリーが言った。メアリーは「ファウト」を全部通して読んだわけではなかったが、話の内容は大体知っていた。「ファウスト」について全く知らないクレアは黙っていた。
「じゃあ、僕はメフィストフェレスをかってでる。人数が全然足りないから、その他の役は時計と反対回りでまわしていこうか。それから、天上の場面ではファウスト博士は出てこないから無神論者君、君が神様をやりなさい。」


食事が終わった後で一同はバイロンが二つの燭台を置いていくようにとロバートに言った訳を理解した。「ファウスト」の英訳本を回覧するために一同は安楽椅子を元あった場所に戻し、部屋の中心に置いた燭台の周りに集まり、輪になって床の上に座った。


美しい声のクレアが読み上げる大天使マイケルの台詞で輪読会は始まった。一同の中で最もドラマチックに台詞を読み上げることができるのはファウストをすでに通読しているバイロンだった。シェリーの甲高いテノールの声とクレアのソプラノの声も爽やかに響き渡った。メアリーは朗読される台詞によく耳を傾け、続く台詞の含蓄を瞬時に理解することができた。ジョン・ポリドリの朗読は棒読みだった。
序幕最後のメフィストの台詞が終わった後、第一幕最初にシェリーの出番のファウスト博士の長い台詞があることを知っているバイロンは二本ある燭台の一つを取って手洗いに立った。戻ってくると、ファウスト博士の長い独白は終わり、その次の精霊とファウスト博士との会話の部分が始まっているのか、シェリーは隣に座っているクレアと頭をくっつけるようにして本を読み上げていた。しかし、バイロンが注目したのはシェリーとクレアの二人ではなかった。バイロンの視線は本の前で頭をくっつけるようにして台詞を読み上げているシェリーとクレアを爛々とした眼差しで見つめているメアリーの上に釘付けになった。バイロンが燭台を持ったままあまり長く立ちつくしたので、気配を感じたのかメアリーが
顔を上げて言った。
「閣下。どうしてそこにじっと立っていらっしゃるんですか?そうやって燭台を手に持って立ってらっしゃると閣下はまるで超自然の世界から出てきた精霊みたいに見えます。」
メアリーの常と変らない理知的な声にバイロンははっとわれに返り、頭をくっつけているシェリーとクレアを見た時に湧いた疑念を頭から追い払った。バイロンはびっこを引きながら元いた場所のシェリーとメアリーの間に戻り、燭台を一同の真中の床の上に置いて座った。
「閣下が席をはずしていらっしゃった間のパーシーの朗読を聞いていただきたいのですけれど、この作品は長いからどんどん先に進んだほうがいいわね。でも、お願いします。閣下に精霊の台詞を読んでいただいて、もう一度、ファウスト博士と精霊の会話を聞いてみたいんです。」と言ったメアリーにバイロンは黙ってうなずき、バイロンの深いバリトンの声で朗読が再開された。

 

ファウストの同僚の学者ワーグナーが登場する復活祭の場面で、バイロンはポリドリをワーグナー役に指名してシェリーとメアリーとの間の場所を譲った。シェリーの生き生きとした朗読とポリドリの棒読みを聞きながら、バイロンシェリーとポリドリ、そして二人の両脇にいるクレアとメアリーを比べてみないわけにはいかなかった。バイロンには別々に育てられた腹違いの姉以外に兄弟姉妹はいなかった。そのバイロンには、目の前にいる二人の年下の男と二人の若い女性の全員が、バイロンを生んだ翌年に寡婦となった母にいくら頼んだところで得る術がなかった弟と妹のようにいとおしく思われた。しかし、クレアと頭をつけるようにしてファウストと精霊の台詞を交互に朗読していたシェリーにとってクレアは妹のような存在なのだろうか、とバイロンの頭の中を一瞬、さっきと同じ疑念がよぎった。


復活祭の場面が終わるとワーグナー役を務めたポリドリが燭台を手に取って席をはずした。シェリーによる書斎でのファウストの長い独白の後、バイロンはメアリーを精霊の役に指名した。シェリーとメアリーが仲良く頭をつけるようにして床の上に広げた本の頁を抑え、交互に台詞を朗読しているうちにポリドリが戻ってきて持っていた燭台を一座の中央に据えてバイロンの横に座った。すると今度はクレアが、ポリドリが床に置いたばかりの燭台を手に取って席をはずした。ファウストと精霊との会話が終わり、いよいよバイロンが演じる悪魔メフィストフェレスが登場する場面になると、バイロンはクレアがさっきまで座っていた場所に移り、ファウストを演じるシェリーと二人で、シェリーとメアリーがやっていたように床の上に広げた本の頁をシェリーと二人で抑えて交互に台詞を読んだ。
しばらくの間、バイロンの深い声とシェリーの澄んだ声が暗い室内に交互に響き渡り、役がない者全員と個室から出てきたロバートまでがその劇的なやりとりに黙って耳を傾けた。一同が感興の極みに達しようとしていた時、突然メアリーが言った。
「クレアは、クレアはどうしたんでしょう・・・。」
(読書ルームII(17) に続く)

 

 

【注】

『アビドスの花嫁』と『異教徒』はバイロンの貴族で駆け出しの政治家(貴族院議員)としての得意の絶頂期に書かれた「異教徒四部作」のうちの二作である。バイロンがいかに高揚していたかはかなり後に掲載する 第七話 レディー・キャロライン (一八一二年 イギリス)を読んでいただければお分かりいただけるでしょう。