黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(108) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 11/17 )

 

シェリー、メアリー、すまなかった。」と揺れる蝋燭の灯の前で頭を抱え、バイロンは呻いた。
「君たち二人はアレグラを、生まれてから一年以上の間、自分たちの子供とわけへだてなく育ててくれた。アレグラの死は君たちにとっても痛手だろう。でも、シェリー、お願いだ。もう一つ願いを聞き届けてくれ。アレグラの死をクレアに知らせるというつらい役を引き受けてくれ。」
バイロンはこう呟くとラベンナからの使者から渡された小さな封筒に今一度、蝋で封をし、封印を押した。封印が固まると封筒を裏返し、表の「ジョージ・ゴードン・バイロン卿」というあて名を線で消し、「パーシー・ビッシュ・シェリー殿」に書き換えた。「明日、使いの者にシェリーのところにもっていかせよう。」


夜が明けようとしていた。閉じられたカーテンと鎧戸の隙間から朝の光がわずかばかり差し込んでいた。バイロンはアレグラが生まれてから二ヶ月の間、「アルバ(夜明け)」と呼ばれていたことを思い出した。「さようなら。夜明けのようにはかなかった私の束の間の幸せ(アレグラ)・・・。」バイロンはこう言って鎧戸の隙間から外を垣間見たがすぐに書き物机の前に戻った。書き物机の中からバイロンは完成して写しを取るばかりになっている「ドン・ジュアン」の第六巻と第七巻、そして執筆途中の「ドン・ジュアン 第八巻」を取り出した。バイロンの分身、ドン・ジュアンには娘がいなければならなかった。バイロンは「レイラ」と名づけることにした幼女とジュアンとの出会いを想像してみた。アレグラの死の報告を受けてからしばらくして、バイロンシェリー夫妻を避けるために、ピサから遠くない静かな海辺に別荘を探し始めた。


シェリーがバイロンから転送された修道院からの手紙を開封した時、フィレンツェで働いているクレア・クレアモントが偶然シェリーの家に滞在していた。手紙を読み、手紙を受け取った時の悪い予感が的中してシェリーは蒼ざめたが、メアリーとクレアの前では何食わぬ様子を装うことにした。クレアに真実を告げる前にまず自分の気持ちを整理する必要があった。シェリーは、クレアがバイロンにばったり出会ったりしないようにするために、バイロンが同様の理由で同じことをしているとは知らないまま、ピサの郊外の海辺に夏の別荘を探し始めた。メアリーとクレアにでたらめな言い訳をする必要は全くなかった。元海賊のトレローニーの奨めで友人ウィリアムズと共同で購入したヨット「エアリエル号」がもうじき完成して届けられることになっていた。ヨットが到着したら、毎日でも航海を楽しみたいとシェリーは考えていた。


イタリアの燦々と降り注ぐ太陽が日差しの強さを増し、鎧戸を下ろした室内で蝋燭の明かりを頼りに執筆することが熱さのために耐えられなくなり、バイロンは必要な持ち物をまとめて四頭立ての大型馬車で海沿いの別荘に移った。シェリーとのつき合いで購入したスクーナー船、ボリバル号がもうすぐ完成して手元に届くことになっていたので、バイロンは港町リヴォルノを望む静かな漁村の埠頭の近くに別荘を見つけていた。

 

アレグラの死の衝撃はまだ癒えていなかったが、バイロンは自分の分身である長詩「ドン・ジュアン」の主人公が養女を迎えることに物語詩の筋を設定し、ジュアンが養女に与えられる限りの愛情を与える様子を描いた。バイロンが創作に励んでいた六月のある日、従者がシェリーとウィリアムズが尋ねてきたと執筆中のバイロンに告げた。
「やあ、久しぶりだな。」とバイロンは言って二人を迎えた。
「お久しぶりです。」とシェリーとウィリアムズが口々に言った。バイロンが二人を中に招き入れるとシェリーはバイロンの顔をまじまじと見つめて尋ねた。
「その後、どうなさったのか気になっていました。」
バイロンシェリーがアレグラの死について言っていると思った。
「詩を書いているよ。それしかないだろう。」
「『ドン・ジュアン』ですか・・・?」
バイロンはうなずいた。
「建設的なことに気持ちを向けるのはいいことです。アレグラの死のことをクレアはいつまでも嘆き悲しんではいません。もっとも、今までに三人の子供を失っている僕とメアリーの前で平気を装っているだけかもしれませんが・・・。あの娘は強くなりました。」


バイロンシェリーとウィリアムズを置いて立ち上がると窓から海を見つめた。バイロンが夏の間の居を定めたのは静かな入り江に面した場所だった。窓辺からは入り江の北の対岸にリヴォルノの港を望むことができた。シェリーが別荘を借りたのはジェノバに近いはるか北のレリチで、バイロンの別荘から望むことはできなかった。
「閣下(ロード)、僕たちがどうやってここに来たのか当ててみてください。」とウィリアムズが言った。バイロンは二人のほうを振り返った。
「馬じゃないんですよ。」とシェリーが言った。
「エアリエル号に乗って来たんだろう。」とバイロンが言った。
「当たりです。でも船腹には『ドン・ファンxcv[15]』という船名が書かれたまま来てしまいまた。」
「おい、止せよ!人の作品の宣伝をしながら航海するのか、それとも、自分たちは女漁(あ さり)が目的で航海していると言いたいのか・・・。『ドン・ファン』だけは船の名前にはしないでくれと、あのピクニックの日にも言ったのに・・・。」
「僕は閣下の許可が下りないならシェークスピアテンペストから採った『エアリエル』にすると言いました。そして、ヨットが完成するよりずっと前に船名を『エアリアル』にすると最終的に決めて業者に伝えたのに、手違いで『ドン・ファン』と船腹に書かれたまま届いてしまったんです。」
「なるべく早く、『エアリアル』に書き換えてくれよな。」とバイロンは念を押した。
「シーズンが終わったら書き換えます。」とシェリーは言った。バイロンが何も答えずに黙ったまま海を仰いでいたのでシェリーとウィリアムズは顔を見合わせた。

(続く)

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