黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(2) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第一話 レマン湖の月 (一八一六年夏 スイス 2/17)

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「閣下(ロード)起きていますか?」声の主はクレアだった。寝巻きを着たままのバイロンが歩み寄って扉を開けるとメアリーも一緒だった。
「お早よう。今日は早いね。」とバイロンは言った。「パーシーは一緒じゃなかったの?」
「パーシーは昨日の晩、遅くまでデービーの化学の本を読んでいて、今日は朝寝坊したわ。」とメアリーが答えた。


レマン湖のほとりに二つの家(ヴィラ)に別れて逗留している一行の全員からバイロンは閣下(ロード)と呼ばれていた。バイロンと共にイギリスから旅をしてきて同じ家(ヴィラ)に留まっている文学好きの若い医師ジョン・ポリドリはバイロンの使用人の立場なので、バイロンを閣下(ロード)と呼ぶのは当然だったが、他の三人がバイロンを閣下(ロード)と呼ぶのはバイロンに男爵の肩書きがあるせいばかりではなく、年長者で文壇での名声が確立しているバイロンを兄のように慕っているからだった。ただバイロンは、クレアが自分を閣下(ロード)と呼ぶ時の気持ちは少々屈折しているのではないかと思っていた。
「閣下(ロード)は昨日の晩は何をしていたのですか?」とメアリーが尋ねた。
「ルソーの『告白』を読んでいた。」
バイロンがこう答えたのを聞いて目を輝かすのはメアリーだった。バイロンが何を読んでいようが、何に関心を持っていようがクレアはたいして興味をそそられはしないのである。
「もう目を醒ましていらっしゃるのだから、ロバートに水差しとタオルをもたせましょう。」とクレアが言った。
「そうしてくれ。」とバイロンが言い、二人は立ち去った。まもなく階下からピアノの音とクレアの歌声が聞こえてきた。
バイロンは書き物机に歩み寄り、寝巻きを脱いで椅子の背にかけてあったシャツを身に着けた。バイロンが部屋の中を歩き回る様は、初めて目にする者には大儀そうに見えたかもしれない。しかし、バイロンはいつもどおり、爽やかに目覚めていた。バイロンの動きが大儀そうに見えるのは疲れているせいでも睡眠が足りなかったせいでもなかった。右足が内側に曲がり、どのように矯正しても真っ直ぐにはならない、内翻足という奇形にバイロンは生まれついていた。足の奇形はバイロンを、足を地につけずにすむ全てのスポーツの達人にした。バイロンは水泳、乗馬、そして射撃に長じていて、ボクシングの腕っぷしも強かった。名門ハロー校に在学中の十代半ばにはクリケットの強打者として注目を集めた。ただ、フィールドを走らなければならない時には代りの者に依頼しなければならなかった。幼年時代からバイロンは足を使わないスポーツに多大な関心と努力を払ってはいたが、バイロンが最もよく本領を発揮できるのは足を地につけずに興じることができるいくつかのスポーツにおいてではなかった。バイロンの頭の中には少年時代からの数千冊に及ぶ読書と大学卒業後の地中海旅行によって培われた豊かな空想の世界、言葉によって構築された絢爛たる殿堂があり、足を地につけずにすむどんなスポーツにも増してそれらがバイロンの存在を特異なものにしていた。ただ、バイロンが精神に潜む豊かな世界を衆人に知らしめるためには詩を書く必要があった。


ともあれ、バイロンは狭い部屋の中を歩き回るのにはさほどの不自由はないものの、階段の上り降りには神経を使わなくてはならず、バイロンの階段の上り降りを必要最低限にするために、バイロンの従者はいつでもいろいろと気を使っていた。


駆け出しの詩人シェリーの五人からなる一行、つまりパーシー・ビッシュ・シェリー、メアリー・ゴッドウィン、クレア・クレアモント、シェリーとメアリーの息子で生まれて六ヶ月になるウィリアム、そしてスイス人の乳母らが逗留している小さな家(ヴィラ)はバイロンの家(ヴィラ)から普通の大人の足で十分もかからない場所にあったが馬なしでは行き来するのに骨が折れるバイロンよりもシェリーらがバイロンを訪れることのほうが多かった。


「しかし、八月初めだというのにこの涼しさだ。」とバイロンは諦め顔でまた湖を眺めた。
従者のロバートがドアをノックしてバイロンの「お入り。」と言う声に答えて捧げ持った水をはった金だらい、腕にかけたタオルなどを部屋の中央のテーブルに置いて立ち去った。
シェリーに泳ぎを教えたい。今度いつ一緒に旅ができるかわからない。」
湖の表を被う漣は湖を渡る不穏な風の存在を示し、天と地を被うただならぬ気配は湖の上空を渡る雲の流れの速さにも現われていた。

(読書ルームII(3) に続く)

 

【参考】

ジャン・ジャック・ルソー (ウィキペディア)