黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(12) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第一話 レマン湖の月 (一八一六年夏 スイス 12/17)

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戻ってきたロバートは左の小脇に大きな黒猫を抱え、右の小脇にバイロンに言いつけられた二冊の本を抱えた上に火を消した二本の燭台を右手で器用に握っていた。メアリーとクレアはロバートの姿を見るやいなや笑いこけた。シェリーは青い目を大きく見開いてあっけにとられた。
「こんなことだろうと思った。」とバイロンが言った。
メフィストだよ。シェリーを脅かしたのは・・・。ゲーテの『ファウスト』の中でファウストは黒いプードル犬に化けたメフィストフェレスにおどかされるが、シェリーは黒猫のメフィストに脅かされたんだ。」


バイロンはロバートから黒猫のメフィストを受け取ると、持ってきた二冊の本を居間の中央のテーブルの上に置くよう指示した。そして燭台をもって立ち去ろうとしたロバートに燭台をテ
ーブルの上に置いていくようにと言った。


外では強い雨風が居間のガラス窓をたたいていた。クレアはまた窓の外のほうを向き、激しく揺れる窓の外の木の枝やその向こうに煙る、水面を激しく波立たせるジュネーブ湖、通称レマン湖を飽きずに眺めていた。シェリーとメアリーはテーブルの上に置かれた「ファウスト」と「ファンタスマゴリア」と二冊の本を手に取ってページをめくった。ドイツ語ができるシェリーはもともとドイツ語で書かれているこれら二冊の本が訳本なのが残念だ、という意味のことをメアリーに囁いた。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」や「ヘルマンとドローテア」をすでに英訳で読んで感動しているメアリーは「ファウト」の英訳に関心をそそられていたが、独学で学んだフランス語には自信があるとは言えなかったので「ファンタスマゴリア」の仏訳は敬遠した。ジョン・ポリドリは安楽椅子の上で退屈そうに伸びをした後で、大儀そうに首を回してクレアが立っている窓辺のほうを見た。バイロンは安楽椅子に体を沈せ、膝の上にのせた黒猫のメフィストを愛撫しながら瞑想に耽っていた。窓を叩く激しい雨風のほかに室内には物音はなかった。突然、バイロンが顔を上げると言った。


シェリー。この猫は悪魔の化身で君をたぶらかそうとしたのかもしれない。そして君は悪魔の誘
惑を感じて悲鳴をあげた。」
「馬鹿なことを言わないでください。悪魔が猫に姿を変えるとか、猫に乗り移るとか、そんなでた
らめ、僕は信じません。」
「だったら、どうして悲鳴をあげたんだ?怖かったからだろう?」
「僕は今、あることで頭がいっぱいで、そのことと関係しているんです。怖かったんじゃなくて、びっくりしたから悲鳴をあげたんです。」
「面白い。怖いという感情とびっくりするという感情は違うのだろうか、それとも表裏なのだろう
か?」
「叫んだ時には恐怖の感情は全くなかったです。僕はある問題について考えに考えを重ねて、昨夜
もその答えを得るためにデービーの化学の本で徹夜してしまったほどのその問題の答えが出てき
たと思ったので飛び上がってしまったんです。」とシェリーが言った。
「僕の最初の質問をみんなに考えてもらう前にまず、シェリー、君が頭を悩ませているという問題
について話してくれ。」とバイロンシェリーに言った。シェリーは話し始めた。
「これは、レマン湖一周旅行の時に閣下(ロード)にお話ししたと思いますが、プロメテウスを題材にした詩を書こうという僕の意図と深く関わっています。閣下(ロード)はもうすでに『プロメテウス』という詩を書いて僕に見せてくださいました。この詩の出来栄えを閣下(ロード)の他の詩と比較してどうこう言うつもりはありません。今、閣下(ロード)が書いていらっしゃる中篇『チロンの囚人』が完成したら対をなす作品となるでしょう。僕は『チロンの囚人』が人間の自由に対する渇望を『プロメテウス』よりももっと力強く表現するすばらしい作品になるような気がします。僕は閣下(ロード)が『チロンの囚人』の中で人間にとっての自由の価値や人間の尊厳などを表現なさるだろうと期待しています。プロメテウスは所詮、人間ではありません。で、僕ですが、閣下(ロード)にお約束したプロメテウスに関する作品はまだ一行も書いていません。でも構想だけは頭の中で出来上がりつつあります。僕が書き始めない理由は、僕がその作品を長詩、しかも劇詩にしたいからなんです。僕は自由の価値や人間の尊厳について、何が自由で、どんな時に自由が制限されなればならず、どんな束縛が人間の尊厳を損なうのか、といった疑問すべてに物語の形式で答えたいんです。ここまでは非常に長い前置きでした。」シェリーはこう言って一旦大きく息を吸ってからまた話し始めた。


「実は、僕が強い印象を受けたのは、閣下(ロード)が書かれた『プロメテウス』ではなくて、閣下(ロード)が見せてくださったもう一つの詩『暗闇』なんです。この詩の中で閣下(ロード)は太陽が燃え尽きてしまったという想定で人々の苦しみを描いています。僕ら日々、太陽は絶対に燃え尽きないという前提で生活しています。でも、よく考えてみたら、太陽はあんなに明るく燃えていて、誰も薪をくべないのにどうして燃え尽きないのか、不思議でしょう。僕はその秘密を解き明かしたいと思ったんです。その秘密を解き明かして利用すれば、どんなに涼しい夏でも作物が不作にならないし、北極に近い寒い地方に住んでいる人たちだって冬に凍えることもなく、フランスやイタリーの農民と同じように小麦や葡萄を栽培できるだろうと思って、頭を悩ましていたんです。」

(読書ルームII(13) に続く)

 

【著者の独白】

このシェリーの夢想は二十世紀になってナチスドイツの迫害を逃れてアメリカに移住し、コーネル大学の教授に就任後にマンハッタン計画でも重要な地位を占めた物理学者のハンス・ベーテによって科学的に解明されて「核融合(fusion)」と名付けられ水爆製造に応用された。なお、ハンス・ベーテは水爆開発関連でノーベル賞を受賞した唯一の科学者であり、関連の科学者で次にノーベル賞か同等の栄誉を得るのは太陽などの恒星の表面で起きているような継続的な核融合かいわゆる"Cold Fusion" 惹起に一歩でも近づくことを可能にした科学者だろうと思われます。