黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(25) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  2/13)

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「ここに来る前に君に宛てた手紙にも書いたとおり、彼女は最近匿名で『グレナーヴォン』という小説を書いて発表したが、この本の主人公グレナーヴォンのモデルが君だと専らの噂だ。僕は『グレナーヴォン』の内容について聞いただけでぴんときた。」
「その本の主人公はどうせ、よからぬことばかりやってのけるんだろう。」
「僕も読んだわけではないけれど、女蕩た らし、皮肉屋、厭世家・・・一言で言えば君にとってありがたくない属性ばかりを兼ね備えた人物のようだ。キャロは君に相手にされなかったあてつけにこの小説を書いたらしいんだが・・・。」
「僕が相手にしなかったって・・・将来を嘱望されていたウィリアム・ラム卿の奥方で社交界の中心だった彼女の相手を精一杯勤めたつもりだったんだが・・・。」
「でも、君はミルバンク嬢と結婚した。」
「男が一人前になれば結婚するのは当たり前だ。」
「それが、彼女の気に入らなかったんだな。『ハロルド卿の巡礼』やその他の異国的な物語詩で一世を風靡した感のある君が結婚という社会の既成の枠組みに入っていくのが彼女には堪えられなかったんだ。」
「ふざけんなよ・・・。自分だって貴族の奥方じゃないか。」
「一人息子が智恵遅れで、貴族の妻としての責任を果たすことができなかったから彼女は現実から逃れたかったんだ。彼女にとって君は、もっと自由な世界、未知の世界へと誘ってくれるべき人間だった。」
「僕の作品を読んで満足しするだけにしてほしいね。どんな著者だってそこまでの面倒は見きれないよ。」
「それを自分に対してだけ要求するのが彼女の破天荒な自尊心だったのさ。」
ホブハウスがこう言い、二人はまた黙ってゴンドラに揺られた。

 

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アルブリッチ伯爵夫人のコンヴェルサチオーニでバイロンとホブハウスの二人は黙って部屋の隅に場所を占めているのが普通だった。ホブハウスはイタリア語があまり理解できなかった。バイロンはイタリア語とラテン語が得意でタッソーやホラチウスを原文で読むことができたが、ホブハウスにはバイロンがコンヴェルサチオーニで行われているイタリア語のかしましい会話の内容を理解しているのかどうかわからなかった。元より、アルブリッチ伯爵夫人が二人を招待した目的は、フランス語やイタリア語を含む多くのヨーロッパの言語に翻訳された「ハロルド卿の巡礼」の著者に自分が主催する社交場を飾ってもらうことで、バイロンに何らかの発言が期待されていたわけではなかった。時折、会話が途切れ途切れのフランス語になるとホブハウスも理解することができた。イタリア人の出席者の間で長いイタリア語の会話が続いた後でバイロンがイタリア語で何か発言することもあったが、その内容に関してホブハウスが質問してもバイロンはただ「他愛のないことだよ。」と答えるばかりだった。実際、バイロンはイタリア語の会話についていけないのではないかとホブハウスは疑っていた。フランス語が得意でフランスに旅したことのあるホブハウスには外国語を習得するということがどういうことかわかっていた。その原語で書かれた文学作品などをいくら読んでも、その土地に行って生の会話に触れ、新聞などで最新の話題や用語を身につけることなしには会話は容易ではない。バイロンはイタリアに入国して旅をしている間、ほとんど毎日、土地の新聞に目を通し、十一月の始めにヴェニスにたどり着いてからというものは毎日欠かさずにイタリア語の新聞を読んでいた。
バイロンは変ったのだろうか?」と、ジュネーブ湖畔で再会して以来、イタリアを馬車で旅しながらも、会話が途切れる度にホブハウスはしばしばバイロンの整った顔を穴のあくほど見つめて自問した。宿のイタリア女と戯れたり、土地の芸能を楽しんだりするバイロンの姿に以前と変るところは全くなかったが、「変っていないはずがない。」というのがホブハウスがいつでも到達する結論だった。ホブハウスは「バイロンが変った。」といういう根拠を何度も数え上げていた。


まず最初に挙げられる根拠は、バイロンと妻とが離別したことだった。そして、その出来事をめぐる世間のひどい中傷のせいでバイロン貴族院議員としての政治生命を半永久的に絶たれたという厳然たる事実があった。もう一つの根拠は、イタリアに入国する前にジュネーブ湖畔でほんの数日間、観察する機会があったパーシー・ビッシュ・シェリーという風変わりな若い男にバイロンが一目置き、そればかりではなく、この駆け出しの詩人から影響まで受けているという事実だった。そしてホブハウスが最後に数え上げる根拠は、これは根拠というよりも、同じ年の春にバイロンを見送った時にホブハウスが抱いた予感と感慨だった。

(読書ルームII(26) に続く)