黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(34) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  11/13)

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[同じラテン系の国でもナポレオン・ボナパルトに対する評価はスペインとイタリアでは正反対のようである。上はヴェネツィアの美術館の外壁に掲げられていた特別展の予告で記されている文言はフランス語で「来たぞ!」である。ナポレオンの理念を歓待するのが今でもイタリア人の心意気なのか?]

 

バイロンが再び眼を覚ました時、仮眠から覚めたばかりのホブハウスと遅い昼食を共にできるほどに回復していた。胃腸が弱っているせいでバイロンは普段の三分の一程度の量しか一度の食事で食べることができなかった。自分の少ない食事を平らげたバイロンは黙々と食事をするホブハウスを見つめていたが、ホブハウスが顔を上げると言った。
「旅に出よう。『ハロルド卿の巡礼』の第四巻を完成させなければならない。南イタリアに行こう。」
「冗談言うなよ。君はまだ病気だ。」
「今すぐとか明日にでもとか言っているんじゃない。僕は『ハロルド卿の巡礼』の第四巻を完成するために読まなくてはならないラテン語の古典なんかがある。タッソーやダンテを称える詩の構想もあるから、『エルサレム解放』xxvi[17]を精読するつもりだし、ラベンナとトスカナ地方、フィレンツェに行く前に絶対にもう一度『神曲』と『新生』xxvii[18]を読まなくてはいけない。」
「ハロルドはこれからどうなるんだ?」とホブハウスが尋ねた。
「旅を続けるさ。」とバイロンは答えた。
「君は一生、旅を続けるだろうが、ハロルドの旅には終わりがあるんじゃないのか?」とホブハウスが尋ねるとバイロンはむずかしい顔をした。
「ハロルドだって生きている限り旅を続けるんだ。でも、読者向けには次の第四巻で終わりにして、別のヒーローを創作したほうがいいだろうな。僕は自分の願望をハロルドに叶えさせる。ハロルドは青い海と、そして青い空と一体になるんだ。もちろん象徴的にだけれどね。」
バイロンは寝巻きの上にガウンを羽織ったまま、書斎の書き物机に向かうと言った通りにダンテやタッソーの本などを書棚から取り出して机の上に山積みにし、読書に没頭し始めた。


翌日と翌々日、バイロンは普段着に着替えて読書に没頭し、ホブハウスは「マンフレッド」の筆写の確認に余念がなかった。ホブハウスは医者が「この病気はマラリアのように繰り返す。」
と言ったのを忘れていた。しかし、最初の熱から回復してから二日目の夜、ホブハウスと共に夕食の食卓に向かい、まだ分量の少ない食事を口に運んでいるうちにバイロンはいきなりフォークを皿の上に落とした。
「どうしたんだ?」とホブハウスが尋ねるまでもなかった。蝋燭の光に照らされたバイロンの顔はまた病的な赤味を帯びていた。
「気分が悪くてこれ以上は食べられない。」
バイロンがこう言ったのでホブハウスはまた肩を貸してバイロンを寝室に連れて行って寝かしつけようとした。
「最初に熱が出た時、朝起きてベッドから出た途端に床と天井がぐるぐる廻り始めた。僕は驚いて思わず大きな声で叫んでしまった。実際、食堂からここに連れてきてもらうまで廊下の壁や天井が少し廻っていたんだが、この前ほどでもないし、慣れたのかもしれない。」
バイロンがこう言って自分で寝る支度を整えたのでホブハウスは今度は過度に心配することもなく、バイロンの寝室を出た。


バイロンの病気は一進一退を続けた。二、三日、調子がいいかと思うとまた熱がぶり返し、ホブハウスは筆写した「マンフレッド」の確認をしたり、自分自身の著作の構想を書きとめながらバイロンの面倒を見た。バイロンが、臥せるほどではないが微熱があって読書に集中できない時には話し相手になった。こうして十日ほど経ったある時、バイロンはホブハウスに言った。


「覚えているかい、七年前、いやもう七年半前になる、スペイン旅行の時のことを・・・。リスボンから東に向かってセビリアを経由して海辺の町カディツに宿泊した時にウェリントンの勝利の知らせが入ったよね。あの晩、カディツ沖に停泊していたイギリスの戦艦アトラスの上で祝賀パーティーがあった。次の日、荷物をまとめて公使に挨拶をしてから戦艦ハイペリオンに乗せてもらってジブラルタルに行ったね。なぜか、両方の船にギリシア神話のタイタンxxviii[19]の名前がついていた。そして、僕はジブラルタル行きの船の中、そしてマルタへの乗り継ぎの船を待つ間、ひどい憂鬱症に取りつかれた。」
「覚えているとも。僕ら二人とも、大嫌いだったウェリントン公爵の弟の公使から夜会服を借りて、君はパーティーの席上でイカ墨のスープで口の周りを真っ黒にして、みんなに愛嬌を振りまいていたじゃないか・・・。僕は君がパーティーでポート・ワインを飲みすぎて二日酔いになったか、はしゃぎすぎの反動が来たんだと思った。」
「僕は王党派(ト ーリ ー)の連中に対して、男爵にして道化師のジョージ・ゴードン・バイロン卿を完全に演じきっていたと思う。でも、僕がジブラルタルで落ち込んだのは二日酔いのせいでもはしゃぎすぎのせいでもなかった。公使に挨拶しに行った時に、君がいない間に僕らを駅にまで迎えにきてくれた
男に会ったので聞いてみたんだ。タラベラの戦闘xxix[20]の続報がないかと・・・。」
「それで、彼はどう答えたんだ?」
「ウェルズリーxxx[21]が戦闘で兵士の三分の一を失ったと彼は言った。その衝撃があまりに大きかったので僕はそれから数日間、舌がもつれて話しができないほどの憂鬱症に陥った。この知らせが間違
いであることを心底から願ったので君にも話さなかった。」
「僕がタラベラでの戦果についてもっと詳しく知ったのはマルタ島でだったか、それともアテネでだったか・・・覚えてはいないが、とにかくイギリスに帰った頃には戦況が進んでいて、あの時のことはあの時で終わったと思い、詳しいことを確かめても特に感慨はなかった。」
「そうだろう。『あの時のことはあの時で終わった。』とみんなが思い、歴史は進んでいく。でも、僕はセビリアやアンダルシアの光景がまだ生々しく記憶に残っていたあの時に知ったからこそ、ウェルズリーの兵士たちの死、そしてナポレオンに抵抗したスペイン人たちの死にどんな意味があったのか真剣に考えないわけにはいかなかった。」そしてバイロンは書棚のほうをふり向いて言った。
「あそこに、秘密のうちに回覧されているイタリア語の新聞がある。よかったら持っていって読みたまえ。サヴォイ公国の支配下になったジェノバで発刊されてオーストリア帝国の傘下に入ったロンバルディアベネツィア王国の、イタリア統一を願う人々の間で読まれている。危険を冒して教皇領にまで持っていく人間もいると聞いた。そこに書いてあった。スペインでナポレオン失脚直後に即位したフェルディナンドは、自由思想や芸術を弾圧しているそうだ。これが、ウェルズリーとスペイン民衆が多くの人間の命と引き換えに得たものなんだ。僕ら進歩(ホィッグ)党員はこぞって戦争に反対したのに、王党派(ト ーリ ー)の犬めらは戦争の予算を承認してスペインの民衆に奴隷の枷をもたらしてしまっ
たんだ・・・。」
「でも、スペイン人たちは抵抗軍(フンタ)だけじゃなくて一般市民や女子供までがありあわせの武器を手にしてまでもナポレオンに抵抗したじゃないか。その様を見ることができたのが僕らが得た一番大き
な収穫だったんじゃないのか?言ってみれば彼らもそれを望んでいたんじゃないのか?」とホブハウスが言った。
「そうだ。だから僕はますますわからなくなる。」
バイロンの顔にはまた病的な赤味が差していた。そればかりではなく、バイロンは目に涙さえ浮かべていた。

(読書ルームII(35) に続く)

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