黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(91) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第七話 レディー・キャロライン (一八一二年初-一八一四年、イギリス  10/16)

 

バイロンはベッドの上に腰掛けているラム夫人を見やったが、しぶしぶ扉を開け、部屋の入り口に立ちはだかると扉の外に立っているホブハウスに言った。
「な、僕は上から下までちゃんと服を着ている。うじゃじゃけてなんかいなかっただろ。」
バイロンが言い終わらないうちに、ホブハウスはバイロンを押しのけて寝室に飛び込んた。
「出ていけ、悪魔。メルボルン・ハウスに戻ってウィリアム・ラム卿とメルボルン夫人の前で頭を床に擦りつけて許しを乞うんだ。」
こう言いながらホブハウスは枕を抱いて涙ぐんでいるラム夫人の腕を手荒につかんで立ち上がらせ、バイロンの寝台のベッドカバーを剥がして毛布を引きずり出すとラム夫人の体を覆った。温厚なホブハウスが激昂したところをバイロンは今までに見たことがなかった。


「聞きしに勝る気違い沙汰だ。」とホブハウスが言った。「扉が閉まるが閂はかからない部屋に連れていって服を身につけさせよう。フレッチャーかラシュトンを彼女につけて、確実にメルボルン・ハウスに送り届けるんだ。僕がいなかったら一体どうなっていたんだろう・・・。」
バイロンとホブハウスはラム夫人が女使用人の手助けなしにどうやって一人でコルセットを元通り身につけることができるのか議論した。しかし結論が出ず、元の男装にして送り返すのは人目を引くので、ラム夫人とよく似た体格をした近所の雑貨屋の娘から平民の女のドレスを借りてラム夫人に身につけさせることになった。


ラム夫人がフレッチャーに付き添われてメルボルン・ハウスに送り返された後、嵐が静まった後のような室内で、狂奔で疲れきったバイロンとホブハウスは蒸留酒のグラスを傾けた。ホブハウスが言った。
「ベスボロー夫人からラム夫人についていろんなことを聞いたよ。でもなあ、バイロン、ラム夫人がどんなに苦しい立場に立っているからと言って、君の同情は何の役にも立ちはしない。特に君とラム夫人との関係は彼女の立場を悪くすることにしか役立たない。僕はわかっているんだ。ラム夫人に同情しているから、君はラム夫人の追求から逃れられないんだ。ラム夫人、いやラム夫妻にはどうしても逃れることのできない問題がある。」
「一人息子が知恵遅れだということだろ。」とバイロンが言った。
「いや、少し違うんだ。ベスボロー夫人は子供を育てたことのある母親の目でよく観察して、その結果、子供には知力があるという結論に達した。」
「でも、メルボルン夫人はオーガスタスは六歳になっても言葉を喋らないと言った。」
「そうだ。でもオーガスタスが言葉を喋らないのは言葉を喋る必要を感じないからなんだ。必要を感じないから言葉を覚えないのか、それとも覚えても発しないだけなのか、それは誰にもわからない。しかし、ベスボロー夫人が観察したところによると、オーガスタスはもっと小さかったころから、家具や調度の飾りのアラベスク模様なんかを大人でもできないほど正確に紙や地面の上に写すことができたんだそうだ。ベスボロー夫人はオーガスタスは人の愛情を感じることができないように生まれついていると言った。普通に生まれた人間の子供はもちろん、知恵遅れの子供でも、犬でも、猫でも、馬でも、可愛がって養ってくれる人間に対しては感謝や愛情を示すものだ。だがオーガスタスには全くそれがない。そして、ベスボロー夫人はこのことを僕に話しながらほとんど涙を流さんばかりだったんだが、オーガスタスに愛情を感じる能力がないと知った途端、あの人格者のラム卿がオーガスタスに父親らしく接することをふっつりと止めてしまったんだそうだ。ラム卿をそのことで責めたりはできないだろう。だってオーガスタスには愛情を感じる能力がないんだから。でもラム夫人は夫のこの態度が気に入らないんだ。彼女にとってオーガスタスは唯一の子供で、オーガスタスに問題があって普通の大人に成長することができないからといって、もう何人か子供を作るというのは、メルボルン子爵家の世継ぎ問題の解決にはなるかもしれないが、彼女にとっては何の解決にもならない。だったら、彼女はつらい思いをしてこれ以上子供を作りたくははい。彼女はメルボルン子爵家でどうしようもない立場に立たされている。ラム夫人は君にはこんなことを話したのかな?」
バイロンは首を横に振った。バイロンはホブハウスの顔を見つめながら黙って耳を傾けていたが、ホブハウスの表情はあたかもラム夫妻やベスボロー夫人の苦悩を映すかのように、語るほどに歪んでいた。
「彼女は当事者だから、問題を整理して人に話すことができないんだろう。でもラム卿だって息子のことでは彼女と同じくらい悩んでいるはずだ。僕がラム夫人を君の寝室から追い出した時に心に痛みを感じていなかったと思ったのなら、それは違う。ラム卿と君のためを思ってしかたなくやったことなんだ。彼女の標的になっている君は自分一人ではこんなことはできないだろう。たまたまアイルランドから戻っている時に今日の事件があって本当によかった。君が一人で冷静に対処できたとは思えない。」
ホブハウスはこう言うと沈んだ表情をして黙り込んだ。しばらくしてバイロンが言った。
「ホブハウス。僕は結婚して身を固めるかもしれない。」
ホブハウスは頭を上げ、少々安堵した表情になると言った。

「いい相手がいるのならそうするといい。ラム夫人のこととは関係なく、どうせ君もいつかは身を固めなければならないんだし。ラム夫妻の問題はラム夫妻が自分たちで考えればいいことだ。君を巻き添えにする必要はない。相手が誰だか当ててみようか。アナベラ・ミルバンク嬢だろ。」
「どうして知っているんだ。」とバイロンは聞き返した。
「君がメルボルン夫人のお気に入りだからさ。普通だったら、息子の嫁をかどわかして息子の立場をめちゃくちゃにする男は敵だ。君自身にラム夫人を誘惑しているつもりがないとしてもね。しかし、君の結婚のことはあくまでもラム夫人のこととは別に冷静に考える必要がある。決めるのは君自身だ。でも、僕は君の将来だけではなく、ラム卿の将来、進歩(ホィッグ)党の将来、大きく言えばイギリスの未来について真剣に考えていて、そのためには何としてでもラム夫人が君を追いかけないようにする必要がある。君が結婚すれば、ラム夫人は一旦は君のことを諦めるだろう。もし、君が今すぐに結婚に踏み切らないとしても奥の手はちゃんと考えてある。僕はラム卿がイギリスにとってなくてはならない人物のような気がするんだ。たまたまスキャンダルの渦中にいるのが君だから、特にいろいろと思案するんだが、君はまず、ミルバンク嬢が君にふさわしいかどうかを自分で判断し、そうだとしたら彼女との結婚のことに専念する。そうすれば君が結婚してからしばらく立つまでは、ラム夫人はおとなしくなるはずだから、奥の手を使う必要はなくなるかもしれない。君が近いうちに結婚しないのならば、すぐに奥の手を採用する。」
(読書ルームII(92) に続く)