黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(32) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  9/13)

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クリスマスが終わり、年が明けて、ヴェニスはカーニバルの季節になった。先輩詩人のトマス・ムーア宛ての手紙の中にバイロンは詩にもならないうかれた詩を書き込み、ホブハウスに見せた。


だが、カーニバルはやってくる。
ああ、トマス・ムーア。
カーニバルはやってくる。
ああ、トマス・ムーア。


ホブハウスはカーニバルのようなお祭り騒ぎには関心がなかったが、バイロンは金ぴかの衣裳や変装の道具、飾りのついた帽子や仮面などを買い込んではしゃぎ、毎晩遅くに酔って帰宅した。


ある晩、以前に一度来たことのあるパン屋の若いおかみさんがまたバイロンを連れにきてほしいと頼みに来た。
パン屋から帰るゴンドラの上でバイロンは食べたものを吐いた。バイロンが苦しそうにかがみ込んで向かい合っているその水面の下を吐瀉物が白々と沈んでいくのが夜目にもわかった。
ロンバルディア産のシャンパンでも飲んで騒いだんだろう。シャンパンは体に悪い。悪酔いしたな。」とホブハウスは言った。


グラン・カナルに近い屋敷の玄関にたどり着くまで、バイロンは体を二つに折り曲げた苦しそうな姿勢を変えなかった。ホブハウスはゴンドラが玄関に横付けされると飛び降りてフレッチャーと一緒にバイロンがゴンドラから降りるのに手を貸した。ただでさえも不自由な足を引きずるバイロンフレチャーと一緒に抱えて家の中に運び込みながら、ホブハウスは空いているほう手で苦しそうな表情のバイロンの額に触れてみた。バイロンの額は火のように熱かった。
「熱がある。すぐにベッドに入るんだ。」
ホブハウスはフレッチャーに手伝わせてぐったりしているバイロンを寝巻きに着替えさせ、ベッドに横にならせると自室に戻って自分も横になった。

 

翌朝、かなり遅くなって目覚めた時、一晩立ったのでバイロンはもう元気を回復したかしれない、と考えながらホブハウスはバイロンの部屋に向かったが、その途中でイタリア人の召使いとすれ違った。

「旦那様は苦しんでいらっしゃいます。病気です。」と召使いはホブハウスにわかるイタリア語で言った。ホブハウスがバイロンの寝室の扉を叩くまでもなく、扉の隙間からは苦しそうなバイロンのうめき声が聞こえ、ただならぬ気配にホブハウスは思わず「医者を呼べ!」と叫んで走りだしていた。ホブハウスは動転していた。
バイロンの頭の中にはまだ書き留められていない、宝石を連ねたような言葉が山ほども埋もれているんだ。それらは人類の至宝になるかもしれない。その言葉を吐き出す前に絶対に死なせてはならない。」
召使いが連れてきた医者はバイロンの様子を観察して召使い向かって何か指示していたが全てイタリア語なのでホブハウスにはその内容がわからなかった。そこでホブハウスは思い切ってフランス語で尋ねてみた。
「彼の状況をどう思いますか(コ ム・ トロ・ヴェ・ ヴ・サ・シ チ ュ ア シ オン)?」
ホブハウスがほっとしたことに、医者はつたないながらもフランス語で話し始めた。
「この地方に旅をしてきた外国人よくかかる病気です。ナポレオンがロンバルディア平原に駐留した時に兵士の中から同じ病気にかかる者が大勢出ました。慣れない食べ物と水のせいです。」
「でも、私はここに来てからずっと、彼と同じものばかりを食べたり飲んだりしていました。」
ホブハウスがこう言うと医者は肩をすくめて言った。「外国人全員がかかるわけではありません。」
そして、器具を片付けながらこうも言った。
マラリアのように何度も襲ってきます。普通はだんだん軽くなっていきますが、もし重くなったらまた呼んでください。瀉血するかもしれません。」
医者が立ち去った後、ホブハウスはバイロンの枕元に置かれた安楽椅子に腰掛けてバイロンの容態を見守りながら言った。「かわいそうに。去年からの心労がたたって目的地に着いたら病気になってしまったんだ。」
ホブハウスは手にメアリー・ゴッドウィンが作成した『ハロルド卿の巡礼 第三巻』の写しを握りしめていた。ホブハウスはその写しの数節を読むごとにバイロンの苦しそうな寝顔を見つめた。メアリー・ゴッドウィンの優雅な手で筆写された『ハロルド卿の巡礼 第三巻』の、美しくも苦渋に満ちたバイロンの詩句に、ホブハウスは風光明媚なジュネーブ湖畔を思い出し、熱で赤く染まったバイロンの整った目鼻立ちの苦しげな顔を見るにつけ、「バイロンにはスイスの澄んだ空気と水が合っていたんだ。世俗の塵芥にまみれた途端にこの男は病気にやられてしまった。」と思わずにはいられなかった。そうしながら百何節かまで読み進んだ時、二つの対をなしている節がホブハウスの目を射った。


私は世を愛さなかった、世もまたわたしを・・・。
彼らの臭い呼吸(い き)のまえに 諂(へつら)ったこともなく
彼らの偶像の前に 恭(うやうや)しく膝を屈したこともなく
心にもない笑いを顔に浮かべもしなかった。
うつろな木魂を崇めて、高らかに叫んだこともなく
人群れの中にありながら、その仲間とは扱われなかった。
彼らと交わりながら、ただひとり立ち
屍衣のように、人と異なる思想を身にまとった
いまもなお、というべくは、あまりに心屈して汚れたのだが・・・。
私は世を愛さなかった、世もまたわたしを・・・。

 

所詮、敵ならばいさぎよく 袂(たもと)を別とう
だが私は信じたい、彼らには裏切られたが
真実あることば、欺きえぬ希望があり
めぐみ深く、過失の穿をつくらぬ美徳があると
また、人の悲しみを心から悲しむものもおり、
一人か二人かは、見かけも変らぬものもあり、
善とは名ばかりではなく、幸福とは夢ではない、と。
「ハロルド卿の巡礼 第三巻」第百十三、百十四節xxiii[14]

(読書ルームII(33) に続く)