黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(33) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  10 /13)

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「ああ、バイロン。世が君を愛さないなんて、そんなことがあるものか・・・。世は君のことを愛しすぎるほど愛していたし、今でも愛しすぎるほどに愛している。どうか、良くなってくれ。」ホブハウスがこうつぶやいてバイロンの寝顔を見つめた時、バイロンは目を覚ました。そしてホブハウスが枕元に座っているのを見ると言った。
「夢を見た。アンダルシアの向日葵(ひまわり)畑が戦いの血で真っ赤に染まっている光景を・・・アテネアクロポリスの丘の下でイスラム教徒に殺された人間の、体のいろんな部分がばらばらになって曝されている様を・・・。」
「神経が苛立っているんだ。僕がずっとここにいるから何も考えずにゆっくり休むといい。」
ホブハウスは水差しからコップに水を注ぐと、バイロンの上半身を抱き起こして水を飲ませた。バイロンを再び寝かしつけると、ホブハウスはまた『ハロルド卿の巡礼 第三巻』の続きを読み始め、最後まで読み終わると、読む速度を落として巻頭からまた読み始めた。しかし、何十節も読まないうちにホブハウスは眠気に襲われて安楽椅子の上で眠りに落ちてしまった。


朝の光がバイロンの寝室の閉じられたカーテンの隙間から差し込んできた頃、安楽椅子の上で転寝(うたたね)をしていたホブハウスは眼を覚ました。そして、すぐに立ち上がると横たわっているバイロンの寝顔を見つめた。バイロンの顔は大理石を刻んだように蒼白だった。
バイロン!」こう叫ぶとホブハウスはバイロンの額に手を当てた。バイロンの額は湿って冷たか
った。
バイロン!」ホブハウスが再び叫ぶとバイロンは目を開けた。
バイロン!よかった。熱が下がった。」
バイロンのはしばみ色の大きな瞳はしばらくの間、焦点が定まだらないかのように宙をさまよっていたが、ホブハウスが枕や毛布を直しながら「起こしてすまなかった。もう一度寝ろよ。」
と言うとバイロンはホブハウスを真っ直ぐに見つめて言った。
「聞いてくれ。僕は熱にうなされながら考えたんだ。僕はナポレオンに希望を託していた。ナポレオンがヨーロッパに自由をもたらしてくれると信じていた。しかし、彼の失脚と共に旧体制や反動政治が復活した。イギリスでは王党派(トーリー)が市民の富裕層を吸収して僕が青春をかけた進歩(ホィッグ)党は地盤と存在意義を失いかけている。僕が希望をもてる時代はもう終わったような気がする。」
「熱のせいで弱気になっただけだ。すでに七年も前に僕らはスペインで見たじゃないか。ナポレオンの夢と嘘を・・・。今の僕らには何が正しいのか、これからどう生きていけばいいのかわからない。それでも僕らは生きていかなければならないんだ。」
「わかっている。僕だって、イギリスを立ってからずっと考えてきた。熱のせいで本当に悲観的になってしまったが、僕は希望を模索してきたし、体が元に戻ったらまた模索を再開するつもりだ。」
「それを聞いて安心した。水を飲んで、また眠りたまえ。」

ホブハウスがこう言って水差しからコップに水を差すと、バイロンはホブハウスが助け起こすまでもなく自分で上半身を起こしてホブハウスが差し出したコップを受け取った。無心にコップを傾けるバイロンの、熱がひいて白い大理石を刻んだような整った形の広い額にホブハウスは思わず接吻したい衝動を感じた。水を飲み終わるとバイロンは言った。
「知っているとは思うが、カーニバルの季節までに僕はアルブリッチ伯爵夫人のコンヴェルサチオーニに愛想をつかしていた。あの無気力で衒学的な連中から得られるものなんて何もないと思った。僕はヴェニスの町の活力を代表している階級に希望を託した。僕がパン屋のおかみさんや酒屋の娘に手を出したのは僕が上流階級の教養溢れる令夫人やご令嬢に辟易していたからばかりではない。」
こう言うとバイロンは肩で大きく息をした。
「ナポレオンがエルバ島から本土に帰還して百日天下が始まった時、武器も兵力もほとんどなかった彼に北イタリアから大勢の有志が参加した。彼女たちの父や夫や兄弟や恋人がエルバ島から戻ったナポレオンの兵力の正に中核をなしていた。北イタリアの商工業者にとって、ナポレオンは通商の自由を保障し、度量衡や法律を定め、更には共通の貨幣を定めたり、交通網の安全を確保してくれるはずの救世主だった。だが、彼らとナポレオンを待っていたものはワーテルローの戦い、そしてウィーン反動体制だった。君も知っているとおり、オーストリア帝国はナポレオンに加担した北イタリアの住民に、まるで報復するかのように重税を課している。オーストリアのイタリア人に対する報復姿勢はヴェニスで最も顕著だが、ヴェニスが商工業と東方貿易の中心だという事実がその唯一の理由ではない。」
バイロンはまた大きく息をついた。大理石を刻んだように蒼白だったバイロンの顔にはまた病的な赤味がさしていた。
ヴェニスシャイロックxxiv[15]とオセロの町だ。ユダヤ人が成功して大金持ちになり、ムーア人が市を防衛する軍隊の司令官になる町だ。彼らの中には自分達の本来の宗教を捨てた者もいればそうではない者もいるだろう。だが、市の人間全般が彼ら外来の人間の人格に信頼を置くために、儀式や経典ががんじがらめにされて生活習慣の中にまで浸透している旧来の宗教を彼ら一人一人が捨て去るのを待ってはいられない。ただ彼らが道徳意識と博愛精神を持っているかだけを問う必要があった。」
バイロンはまた大きく息をつくと一言だけ言葉を発した。
フリーメーソンxxv[16] 。」
ホブハウスは黙ってうなずいた。バイロンの口からこの言葉を聞くのは初めてだった。しかし貴族院議員として政界に進出して以来、地盤を失っていく進歩(ホィッグ)党に居残って次第に純粋な理想主義に傾倒していったバイロンアメリカ独立の影の力となったフリーメーソンに関心を持つことには何
の不思議もなかった。
「いや、フリーメーソンのことは忘れてくれ。僕はこの街でまだ何も探し当てたわけではないし、フリーメーソンに合流することが正しい道程かどうかもわかっていない。」
バイロンはこういうと上半身を起こしたまま、眼を閉じた。
バイロン、長く話すと疲れてまた熱が出る。今は十分に休んで健康を取り戻す時だ」
ホブハウスがこう言い、バイロンはおとなしくそれに従ってまた毛布の中に身を横たえた。ホブハウスは音を立てないようにバイロンの部屋を後にし、仮眠を取るために自分の寝室へ向かった。ホブハウスはバイロンに飲み水を与えた時にその額に接吻したくなった自分の衝動を思い出して考えた。

バイロンはたぐい稀な才能と美貌とに祝福されて生きている男だとばかり思っていた。しかし、彼はたぐい稀な才能と美貌とに呪われて生きているのかもしれない。男も女も彼の美貌と才能に魅せられる。そして、それらを自分のものにできないせいで彼をやっかみ、攻撃する者がいつでもどこからか現われる・・・。」

(読書ルームII(34) に続く)

 

 

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