黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(38) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  2/18)

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あたりが暗くなりかけた頃、バイロンは自分の船室に引き上げた。がっしりした体躯に似合わず片足を引きずりつつ、それでも静かに甲板を歩むバイロンの後ろ姿を見送りながらホブハウスは乗船するまの数日間の、従者に関して生じたある揉め事に対するバイロンの狂態を思い出した。


フレッチャーは連れて行くわけにはいかない。すぐさまニューステッドxxxvi[5]に返す!」
こう叫んだすぐ後でバイロンは長年従者を務めてきたフレッチャーに代わる者を出立前の限られた時間で見つけることはできないと考えた。バイロンの四人の従者のうち、一人は調理人、一人は老練だが体力のない老人、最後の一人、ロバート・ラシュトンは雇われたばかりでまだ年端もいかない少年だった。
「ロバートをニューステッドに返す!」とバイロンは拳を固めて怒鳴った。ことの発端はバイロンの従者を長年勤めてきたフレッチャーが新参者のロバートを売春宿に誘ったことだった。フレッチャー一人ならば身に危険がない限り何をしようが無関心なバイロンはこれを聞いて劇怒した。「ロバートはうちの小作人からの預かりものだ。使い走りなんかをさせるかわりに読み書きや紳士としての身のこなしを教えて、上流階級のどこに出てもやっていける男に育ててやると親に約束したんだ。」

 

バイロンとの旅の準備に余念がなかったホブハウスは一部始終を聞いてわって入らないわけにはいかなかった。
「悪いのはフレッチャーだ。それなのにロバートを置いていくというのはあんまりじゃな
いか・・・。」
ホブハウスがこうたしなめるとバイロンは怒りのあまり涙を流さんばかりで脇に立てば歯軋りまでが聞こえてきそうな形相をした。結局、ロバートが泣きじゃくって許しを乞い、フレッチャーが同様のことは二度と繰り返さないと約束したのでバイロンは予定どおり二人を連れていくことになった。しかし、ホブハウスはバイロンが本当に連れて行きたいのはロバートではなく別の少年だということを知っていた。バイロンよりも二歳年下でもはや少年というのには成長しすぎているジョン・エーデルトンはケンブリッジ大学に隣接する教会の聖歌隊の中で最も美しい声をしていると噂された少年で、バイロンの大学在学中に頻繁にバイロンの住居に出入りしては本を借りたり身辺の整理を手伝ったりしていた。
バイロンは変ったやつだ。生まれついての貴族のようななりをしていながら、庶民階級の者によく目をかける・・・。」ホブハウスはこう思うのである。しかし、実際にはバイロンは生まれた時から貴族として育てられたわけではなく、大叔父が子供を残さずに死去したという僥倖によって十歳の時に爵位を継いで第六代バイロン男爵になったのである。一方、バイロンによって水難事故から命を救われ、バイロンに寵愛されているジョン・エーデルトンは、十歳の時に両親に死に別れ、教会の聖歌隊に入ることによって読み書きからラテン語の初歩に至るまでの教養を身につけてきた少年だった。

バイロンはエーデルトンと一緒にいろんな経験をしたかったに違いない。」
ホブハウスはいかにも農民の出といった感じの純朴な風体をしたロバート・ラシュトンを見る度に、美しい金髪をした貴族的な風貌のジョン・エーデルトンを思い出し、バイロンの心中を察した。しかし、ロンドンで銀行の見習いとして自分の道を切り開きつつあるエーデルトンを長くなるかもしれない旅に誘うのは所詮無理な話だった。


四日半の航海の後、一八○九年七月七日にバイロンとホブハウス、四人の従者たちからなる一行はポルトガルの首都リスボンに到着した。波止場の喧騒は、発せられる言葉がバイロンとホブハウスにはほとんど理解することのできないポルトガル語だということを除いては、イギリスを立つ時に見聞した港町フォーマスのそれと変りがなかった。ホブハウスがバイロンに言った。
「王族が国を見捨てて逃げた後に外国の軍隊に闊歩されるというのはあまり嬉しくないだろうな。ここの人間はイギリス人に対していい感じは持っていないかもしれない。」
バイロンは黙ってうなずいた。二年前の秋にジュノー将軍に率いられたナポレオンの軍隊は大陸封鎖を完全なものにするために、イギリスの友好国ポルトガルの首都であり港町でもあるリスボンに侵攻し、その際にポルトガルの王族はブラジルへと逃避していた。その後、ウェルズリー将軍に率いられたイギリス軍がフランス軍を破り、前年一八○八年八月にはリスボンから十五マイル北にある古都シントラでポルトガル支配をもくろんで敗れたフランスとイギリスとの間の折衝が行われた。折衝の結果、フランス軍将兵の安全を保障され、その見返りとしてポルトガルからスペイン北部へと撤退していた。しかしポルトガルの王族はいまだ帰還していなかった。そして、バイロンやホブハウスのようにイギリス進歩(ホィッグ)党に属する者は、イギリス軍がリスボン港の確保以上の軍事行動を行うことは単に戦禍を拡大するのみであるとして、イギリス軍のイベリア半島での積極的な活動には常に難色を示した。
富豪の家に生まれたホブハウスは少年時代に親に連れられてフランスを旅したことがあったが、バイロンにとっては外国は初めてだった。都の中心たるべき王家の人々がブラジルに逃避した後のこのヨーロッパの西の果ての古都には無気力で猥雑な空気で溢れていた。街のいたるところにイギリス兵の姿があった。通じない言葉と不慣れな為替変換のせいで土地の者がほくそ笑むような法外な金額を支払う失態を何度か演じた後、タグス河沿いの食堂でポート・ワインの杯を傾けながらバイロンがホブハウスに言った。
「僕たち、一体ここに何をしに来たんだ?」
「土地の食べ物をたらふく食い、給仕に法外な酒手(チップ)を出す・・・それ以外にやることはないのかな・・・。」
「 鰯(いわし)なら一回の食事でたらふく食えばそれで十分だしポート・ワインならイギリス軍がここにいる限り船で間断なくイギリスに送られてくる・・・。」
「土地の人間がイギリス軍の進駐をどう思っているのか聞いてみたいんだが言葉が通じないし・・・。」
「僕には考えがある」バイロンは言って茶目っ気たっぷりに笑った。

(読書ルームII(39) に続く)

 

 

【参考】

リスボン (ウィキペディア)

 

トーリー党 (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%85%9A_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)?wprov=sfti1  (注)「トーリー党」の訳語を「王党派」としたのはバイロンの時代には反対勢力にそう思われていたであろうというわたしの勝手な推測に基づいています。より正しく詳しい歴史事実については上に掲げたURLの「二大政党制の確立」の箇所をお読みください。

 

ホイッグ党 (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%B0%E5%85%9A_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)?wprov=sfti1 

(注)「ホイッグ党」の訳語を「進歩党」としたのはバイロンと彼の政治上の盟友らがそう思っていたであろうというわたしの勝手な推測に基づいています。より正しく詳しい歴史事実については上に掲げたURLの「議員内閣制の成立」の箇所をお読みください。