黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(83) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第七話 レディー・キャロライン (一八一二年初-一八一四年、イギリス  2/16)

 

ホランド男爵夫妻が居住する館、通称ホランド・ハウスはロンドンの中心部から二マイルほど郊外にあり、冬枯れの木々に包まれた閑静な趣の館だった。今日もバイロンは従者と共に騎馬でホランド・ハウスに到着し、外套を脱いでホランド男爵家の使用人に預けると進歩(ホィッグ)党員が集まりかけている広間に向かった。すると、広間の入り口に近い長椅子に、入り口のほうに背を向け、金髪の巻き毛頭の人間が座っていた。


「ジョン・エーデルトン!」
バイロンは立ち止まり、目を見開いてその金髪の巻き毛頭を見つめた。九ヶ月前に死んだジョン・エーデルトンはホランド・ハウスだけではなくこの世のどこにも出現するはずがないはずなのに、腰掛けている人間の後ろ姿は正にジョン・エーデルトンだった。
バイロン卿、今日はお疲れ様でした。初めての演説で緊張して疲れたでしょう。」
後ろから声をかけられ、バイロンはわれに帰って振り向いた。バイロンに声をかけたのは頭が禿げ上がった好々爺のホランド男爵だった。
「いいえ、僕は学生時代から人前で演説や朗読をするのが大好きでした。今日は心地よく緊張して、今でも興奮が体中に残っています。」
バイロンはこう言って、後ろからバイロンを追ってきたホランド卿と歩調を合わせて歩き始めたが、顔を上げて正面を見ると、ジョン・エーデルトンの金髪の巻き毛頭は消え失せていた。バイロンは続けて言った。
「ただ、僕にはちょっと心配なことがあるんです。今日の僕の演説のせいで、僕が工場打ち毀しをする連中の同類だと思われはしないかということなんです。」
「まさか・・・。」
「僕は工場設備を壊したりはしませんが、既成のいろんな価値観に反抗しているような気がします。」
バイロンがこう言ったのには理由があった。地中海旅行の成果として書き上げた「ハロルド卿の巡礼」の出版が一週間後に迫っていた。半月ほど前に何部かのゲラ刷りを受け取り、先輩詩人のサミュエル・ロジャースとトマス・ムーアに一部づつ送って感想を聞いたところ、二人の意見は概ね一致していた。「力強く扇情的で、既成の価値観に疑問を投げかける。」
「王党(トーリー)派の連中は工場労働者が打ち毀しを行う理由について真剣に考えているのでしょうか?」とバイロンホランド卿に尋ねた。
「さあね、やつらは打ち毀しを取り締まるしか能がないんじゃないのかな。抜本的な解決策を打ち出す気なんかさらさらないようだ。」
「僕ら進歩(ホィッグ)党は取り締まる以外の有効な解決策を提示できないんでしょうか?」
「それができれば、われら進歩党はイギリス全土の工場所有者たちから感謝されて小ピットが現われる前の勢いを取り戻せるんだけれどな。君、何か考えなさい。」
「僕は駆け出しですから、政府に何ができるのかもわかっていません。」
「今すぐに何か考えろと言っているわけじゃない。君は新米なんだから、これからぼちぼち考えていくんだな。」ホランド卿はこう言ってバイロンの肩を軽く叩くと立ち去った。
広間に集まりつつあったのは政界に野心がある多くは爵位を持つ男たちと彼らの令夫人や令嬢たちだったが、それらの人々の中にバイロンはジョン・エーデルトンと同じ金髪の巻き毛頭の男を探した。何人かの、その日に貴族院の議会に出席した進歩(ホィッグ)党員が処女演説をそつ無くこなしたバイロンにねぎらいの言葉をかけていった。そのうち、人が集まるのとともに管弦楽団が音もなく広間に入ってきて音楽を奏で始めた。バイロンにとって社交場での音楽が苦痛だった。


社交場で奏でられる音楽は主としてワルツだった。ひと昔前にはフランス直輸入のカドリールが演奏されることが多かったが、フランスにナポレオンが出現してイギリスとの対抗姿勢をあらわにするにつれ、公の場所で演奏される音楽はイギリスと友好関係にあり、現王室の父祖の地であるドイツで作曲されたものに取って代わった。


バイロンは、ジョン・エーデルトンさながらの金髪の人物がさっき腰掛けていた長椅子に腰掛け、輪になって踊る男女を見つめた。脚に奇形があるバイロンは踊ることができなかった。踊っている若い男の中には膝下でリボンを結んで裾をしぼった短ズボンを穿いている者がいた。バイロンは流行のこのズボンも嫌いだった。バイロンの癖のある歩き方のせいで初めて出会った時にバイロンの脚に目を留める者が多かった。バイロンがびっこを引く原因は内側に曲がった靴を履いた足を見ただけで明らかなのであるが、バイロンは短ズボンを穿くと、自分の曲がった脚が一層人目を引くような気がした。

 

「どれもこれもみんな、あの裏切り者の摂政皇太子のせいだ。」とバイロンは皇太子のビヤ樽のように出っ張った腹を思い浮かべながらいまいましく思った。音楽が始まり、集まった人々が踊り始めてから、バイロンに声をかける者はいなくなった。バイロンはこの日も人々が踊っている最中に抜け出すことにした。今日、従者として選んだウィリアム・フレッチャーに帰宅すると声を掛けると、フレチャーは一通の宛名が書かれていない封筒をバイロンに差し出した。
「ここの館の使用人から渡されました。」とフレッチャーは言った。バイロンが封筒を開けると中には繊細な文字で簡単な伝言が書かれていた。
「この次の木曜夜八時にメルボルン・ハウスでお会いしましょう。

匿名夫人(レディー・アノニマス)」


メルボルン・ハウスというのは進歩(ホィッグ)党員のもう一つの溜まり場であり、同じ政党の溜まり場であるとは言え、二つのサロンの主催者であるメルボルン子爵夫人とホランド男爵夫人は自分のほうにより多くの参加者を集めようと競い合っていた。それなのに、ホランド家の使用人からメルボルン・ハウスへの招待状を渡されるということは不可解で、バイロンは「変な手紙だ。」と思いながらも正式な招待状ではないその手紙を上着のポケットにしまって手紙のことは忘れてしまった。

(読書ルームII(84) に続く)

 

 

【参考】

摂政皇太子 = グレートブリテンおよびアイルランド連合国王ジョージ4世 (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B84%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E7%8E%8B)?wprov=sfti1