黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(85) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第七話 レディー・キャロライン (一八一二年初-一八一四年、イギリス  4/16

 

「さあ、ここがバイロン卿の控えの間です。おつきの方は隣の部屋にいらっしゃいます。
この二部屋をご自由にお使いになってください。」とラム夫人は言った。メルボルン邸の主な場所を案内し終わり、一同は階下に降りようとしたが、二階に上った時とは異なり、一階と二階とを繋ぐ手すりのない螺旋階段は下りる時には急に感じられた。
「君は二階の部屋との間を一人では行き来しないほうがいい。」とムーアが言った。
「平気ですよ。」とバイロンは言ったが、手すりのない階段から下を見下ろして眩暈を感じた。
「ですから今日は邸内をお見せするために、みんなが集まる少し前、まだ明るいうちに来ていただきたかったんです。」とラム夫人が言った。


一同が客間に戻るとラム夫人は一旦、姿を消した。すると、ロジャースが言った。
「ラム夫人は君をメルボルン・ハウスに引きずり込むのに成功したね。君の『ハロルド卿の巡礼』が発売になってすぐに、ラム夫人は『ハロルド卿の巡礼』を二十冊ばかりパーティー会場のテーブルの上に山積みにして、欲しい者は自由に持っていくようにと言ったんだ。君はこれからもホランド・ハウスに出入りするだろうけれど、詩人としてはどちらのサロンが居心地がいいか、今日の集まりが終わったら聞いてみたいな。」
「僕はラム夫人をホランド・ハウスで見かけたような気がします。ホランド家の使用人から僕宛のメルボルン・ハウスへの招待状のようなものを受け取ったんです。でも、メルボルン夫人とホランド夫人はライバル同士なのに、なぜラム夫人は自分の姑のライバルの家に出入りしているんですか?」とバイロンはロジャースに尋ねた。するとロジャースはバイロンに小声で囁いた。
ホランド夫人の前夫との間の子ゴッドフリー・ウェブスター卿とラム夫人とができていたんだ。でも、ラム夫人はもうホランド・ハウスには行かないんじゃないかな・・・。」と言ってロジャースは意味ありげな笑いを浮かべた。
「さあ、こちらにいらしてください。」ラム夫人の掛け声で一同は食堂に集まった。テーブルの中央に腰掛けているのはついさっき肖像画で威容を垣間見たメルボルン子爵夫人と肖像画の印象とは似ても似つかない、貴族院で見かけたことはあるはずだが印象にも残っていない、くたびれた姿のメルボルン子爵だった。控えめな表情に意志の強さと野心をうかがわせるラム夫人の夫で衆議院議員のウィリアム・ラム卿も同席していた。バイロンはウィリアム・ラム卿とその弟のジョージ・ラム卿には公の場所で出会ったことがあったがその他数人の出席者の名前は知らなかった。ラム夫人は言った。
「こちらが、つい最近素晴らしい詩本『ハロルド卿の巡礼』を出された男爵ジョージ・ゴードン・バイロン卿、それから私のお友達の詩人サミュエル・ロジャー氏とトマス・ムーア氏です。お義母様にうちの一族の紹介をしていただきます。」


メルボルン夫人による一族の紹介をバイロンは特に関心もなくぼんやりと聞いていたが、一座の末席に座っている十代後半くらいの少女を指さしてメルボルン夫人が一瞬顔をほころばせたのをバイロンは見逃さなかった。
「私の兄ラルフ・ミルバンク男爵の娘アン・イザベラ・ミルバンクです。」
こうメルボルン夫人が語っても、バイロンには特に感興はわかなかった。少女は可憐だったがお世辞にも美しいとはいえなかった。つぶらな小さな目をして高い頬骨に赤味がさしている様はまるで林檎を顔につけているようだった。最初に一同を見回してこの少女に目が留まった時もバイロンは「田舎出身の女中みたいな少女がなぜ豪華なドレスを着てここに座っているんだろう。」と思っただけだった。
一同は食事をしながらバイロンの作品について語った。積極的に感想を述べたのはラム夫人とメルボルン夫人だったがメルボルン家の出席者は全員バイロンの作品を読んでいるようだった。


「アナベラ。」とメルボルン夫人が田舎娘のような姪に声をかけた。「この中で詩を書くのはあなただけです。バイロン卿の作品を読んだ感想をおっしゃい。」
「あの、叔母様、バイロン卿の『ハロルド卿の巡礼』は素晴らしい作品です。」と少女はうつむいたまま小さな声で答えた。メルボルン夫人はバイロンに向かって言った。
「全く、この子はおぼこ娘みたいに恥ずかしがりやなんですよ。特に殿方に対してはいつでも口をつぐんでしまうんです。だから、去年ロンドンに来たのにまだ誰も相手が見つからないのよ。でも、アナベラ、学校に行っていた頃のお友達とは文学のことやユークリッド幾何学のことなんか、話したり手紙に書いたりするんでしょう?」
「はい、叔母様。いいえ、叔母様。私、そんなこと大きな声で誰かと話したりしません。」
メルボルン夫人は食事が終わるまで、他の発言者に受け答えしながらも何とかこの少女に喋られようと努力したが、少女はいつでも言葉少なに返答をするだけだった。
食事が終わり、外はすっかり暗くなり、屋敷内の燭台やシャンデリアに明かりがともされ、社交場となっている広間に人々が集まってきた。入り口近くの椅子にムーアとロジャースと共に腰掛けているバイロンに、多くの人が会釈をして通り過ぎていった。ホランド・ハウスや貴族院議事堂で出会ったことのある何人かの進歩(ホィッグ)党員にも出会った。
メルボルン夫人は姪に喋らせようとやっきだったね。」とバイロンがムーアに言った。
「喋らなければあの娘は存在を忘れられてしまうからね。頭はすごくいいんだそうだが、容姿で若い男を惹きつけられるとは思えない。」とムーアが言い、ロジャースが「頭はともかく、平凡な容姿をした田舎貴族の娘のミルバンク嬢が誰と結婚するかは重大な政治上の問題なんだ。」と言った。
「何でまた・・・。」とバイロンは尋ねた。
「あの娘の父親ラルフ・ミルバンク卿はたいした資産もない田舎貴族だが、母親は相当の資産を持ったノエル子爵家の令嬢で兄のノエル子爵には子供がいないんだ。ノエル子爵は自分の死後、資産はミルバンク夫人へ、爵位はラルフ・ミルバンク卿へ譲ると遺言状に書き記しているらしい。」
「そして、そのまた相続人があのお嬢さんというわけですか・・・。」とバイロンは言った。バイロンはノエル子爵家の複雑な事情に対してはあまり興味はなかったが、ただ、社交的なメルボルン夫人やラム夫人とは対照的で控えめなミルバンク嬢がバイロンの目には新鮮に映っていた。バイロンメルボルン夫人とラム夫人やホランド夫人の奔放な男性遍歴を聞かされていたために、社交場で光彩を放つ才女や美女よりも純情で控えめな女性に魅力と安心感を覚えた。

(読書ルームII(86) に続く)