黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(86) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第七話 レディー・キャロライン (一八一二年初-一八一四年、イギリス  5/16

 

ホランド・ハウスと同じく、広間に十分な人数が集まった頃に楽団が静かに席を占め、音楽を演奏し始めた。バイロンは思い出したことがあり、控え室と言ってあてがわれた部屋にいるはずのフレッチャーのところに知人への伝言を頼むために二階に上がった。二階から広間に下りようとした時、明るい時に見下ろした眩暈を感じた急な螺旋階段を降りしなに危惧したことが起きてしまった。肩を落とさずには地にしっかりつけることのできない右足が階段を踏み外し、バイロンは尻餅をついて段の角で腰を打ち、そのまま階段を一階の床までころげ落ちた。バイロンは思わず叫び声を上げた。音楽が止み、人々ががやがやと階段室に集まってきた。


「近寄らないでください。自分で起きられますから。でも、打った箇所が痛いので・・・。」とバイロンは言った。両方の足首をそろそろと動かすことができたので骨折はしていなかった。一人の紳士が手を差し伸べようとしたが、ラム夫人は「バイロン卿が自分で起き上がれるとおっしゃっているのですから・・・。」と言って紳士を制した。「さ、みなさん、続けてください。私がバイロン卿の面倒を見て差し上げます。」

ラム夫人のこの言葉にバイロンの周りに集まった男女はぞろぞろと広間に戻っていき、踊りが再開された。バイロンは歯をくいしばって痛みをこらえ、腰と脛の鋭い最初の痛みがようやく収まった頃、まだ鈍い痛みが残る足で立ち上がり、びっこをひきながら広間に向かって歩き始めた。手を貸そうとしたラム夫人をバイロンは謝絶した。
「敵に後ろを見せないように僕はこういう脚に生まれついているんです。美しいご婦人に手を取って助けていただくためにこういう脚をしているんじゃありません。」と元の椅子に腰掛けながらバイロンが言った。
バイロン卿の敵って誰なのかしら?」と隣に座ったラム夫人が尋ねた。
「そうですね・・・。」とバイロンは注意深く言葉を選んだ。
「人間の自由を抑圧するもの何でもだと思います。」
「あら、だったらバイロン卿は詩を書いて戦っていらっしゃるようなものですね。」とラム夫人が言った。「でも、詩を書いて戦っている相手に後ろを見せるというのはどういうことなんでしょう?」
「黙ることでしょう。書くのをやめることでしょう。」
バイロン卿が書くのをやめるなんて考えられません。今、こうしてお話している最中にも何かすばらしい詩の構想を練っていらっしゃるのでしょう。でも、詩を書くことと脚は関係ありませんね。」
「直接的には関係ありません。でも、自分の脚を見る度に逃げるわけにはいけないと自分自身に言い聞かせます。」
「勇敢な方ね。ご立派だわ。」バイロンは自分の側から離れないラム夫人がわずらわしくなってきた。音楽が鳴り響いているため、かぼそい声のラム夫人はバイロンに顔をつけるようにして話しをしていた。ラム夫人がつけている香水の匂いをはっきりと嗅ぐことができた。バイロンはラム夫人に丁重に尋ねた。
「ラム夫人は踊りに参加されないんですか?」
「ここでこうしてバイロン卿とお話しをしているほうが楽しいんです。」
バイロンは腕を組んでため息をついた。バイロンが不機嫌そうな表情になったのを素早く見て取ったのか、ラム夫人が言った。
バイロン卿は敵には後ろを見せないとおっしゃるけれど、女性を尻目にして置き去りになさることがよくあるんじゃございません?」
「いいえ、女性に置き去りにされるのが専門です。」
「そんな、ご冗談ばかり・・・。」
「いや、本当です・・・。」
ラム夫人が言わんとしていることを理解してバイロンは苛立ってきた。敵に後ろを見せないのなら、女性である自分にも後ろを見せないでほしい、とラム夫人は言っていた。しかし、バイロンはただ軽くあてこするだけにした。
「でも、女性から逃れるのはむずかしいですね。特に僕のような足をしていては・・・走って逃げられませんから。」
バイロンがこう言い、バイロンとラム夫人の両方が黙った。ワルツの音楽が続いていた。
「ロジャースは嘘つきね。」とラム夫人がぽつんと言った。
「どうしてです?」とバイロンは尋ねた。
「私がロジャースにバイロン卿の容姿について尋ねたら、バイロン卿はびっこだ、と言ったんです。それから彼は、バイロン卿には爪を噛む癖がある、とも言いました。それを聞いて私は、こんな素晴らしい詩を書く方が素晴らしい容貌にまで恵まれているはずがない、ヘーファイストスlxxii[4]のような二目と見られない醜男(ぶおとこ)に違いないと勝手に思い込んでしまったんです。」バイロン吹き出した。
「ロジャースは嘘なんかついていませんよ。そして僕のことを醜男(ぶおとこ)だと勝手に思い込んだのはあなたです。」
「そうね。ごめんなさい。」

バイロンとラム夫人は音楽に耳を傾け、時折、他愛もない世間話をした。バイロンは踊りに参加しているはずのない太ったメルボルン夫人やラム夫人の夫、そしてロジャースとムーアが踊りの輪の向かい側に腰掛け、踊る男女の切れ目からこちらを窺っていることを知っていた。それらの人々の目にラム夫人と一緒に腰掛けている自分がどう映ろうがバイロンは気にならなかったが、メルボルン夫人がどうしても積極的に喋らせることができなかった控えめなミルバンク嬢のことが妙に気になった。


近所に使いにやったフレッチャーが戻る頃になってバイロンは立ち上がった。
ホランド・ハウスでもそうなんですが、僕は踊りの最中においとますることが多いんです。僕は夜に本を読んだり詩を書いたりするのが習慣なので・・・。」
ラム夫人も立ち上がった。
「おやすみなさい。ラム夫人。」とバイロンが言った。
「おやすみなさい。」とラム夫人は言った。しかし、バイロンが踵を返して歩き始めるとラム夫人は後ろから声をかけた。
「お待ちになって。私のことをラム夫人とは呼ばないでいただきたいの。」
「では、何てお呼びすればよろしいんですか?」
「キャロと呼んでください。」
「では、おやすみなさい。キャロ。」
「おやすみなさい。バイロン卿。」
バイロンは玄関に向かって歩き始めた。ラム夫人はバイロンがびっこを引く後姿を見なくてもよいように、反対方向に歩き始めた。

(読書ルームII(87) に続く)

 

 

【参考】

へーファイストス/ヘーパイストス (ウィキペディア)