黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(88) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第七話 レディー・キャロライン (一八一二年初-一八一四年、イギリス  7 /16

 

メルボルン夫人が指定した日時にバイロンメルボルン・ハウスに出向いた。メルボルン夫人は化粧中ということですぐには現われなかった。バイロンは気が赴くままにオランダ直輸入の赤や黄色のチューリップが美しく咲き誇る中庭の周囲を歩いてみることにしたが、チューリップの花壇の側にたたずんでいる一人の使用人らしい女に目が留まった。使用人がなぜそんなところ人で立ちつくしているのかが気になったが、側に近寄るとその理由はすぐにわかった。女使用人の足元で年齢五歳ほどの一人の男児が一心不乱に地面に図形のようなものを描いていた。バイロンは女に尋ねた。
「ラム夫妻の息子さんですか?」
バイロンはラム夫妻には息子が一人いると聞いていた。使用人の女は黙ってうなずいた。そしてバイロンの顔をみつめると黙ったまま、人差し指を頭に当てた。バイロンは女使用人と地面に図形を描いている男児を交互に見つめた。男児の様子に何か尋常でないものがあった。男児の様子が尋常ではない原因を探り当てようとして地面に這いつくばって図形を描く男児バイロンが凝視している時、メルボルン夫人が脇から声をかけた。
バイロン卿、お待たせしました。」
メルボルン夫人と共にバイロンは小部屋に入った。
「キャロは実家の母親に会いに行って留守です。使用人たちが聞き耳をたてるといけないので閉め切った部屋にご案内しました。さあ、何なりとお話しください。」
こう言ってバイロンに椅子を勧めたメルボルン夫人を正面から見据えてバイロンは切り出した。
「ご相談したかったのはもちろんキャロのことです。僕は政治家としても詩人としても駆け出しで彼女が僕にどんな態度を取ろうが失うものは何もありません。でも、ウィリアム・ラム卿の立場を考えた時、僕はどうしたらいいのかわからないんです。」
バイロンがこう言うと、メルボルン夫人はテーブルの上に両肘をつき、祈祷するときのように両手を組んで遠くを見つめる目つきになった。夫人はしばらくそのままで何も言葉を発しなかった。「奔放だった自分の若い頃のことを思い出したら奔放な嫁に忠告して男遊びを止めさせることができないのか、それとも息子のウィリアム・ラムはそのくらいのことで将来を駄目にされるような脆弱な男ではないと考えているのか・・・。」とバイロンが憶測を巡らすうちに、ようやくメルボルン夫人はバイロンのほうに視線を向けて言った。
「アナベラのことをどう思われますか?あの娘は見かけとは違って鋭い感性と知性を持っています。バイロン卿のお仕事をよく理解してお仕えすることができると思います。」
「最初にお会いした時から、容姿に表れる美しさではなく何かもっとすばらしいものを持っているお嬢さんだという気がしました。つまり、僕は彼女に対して好意を持っています。」とバイロンは腹蔵なく答えた。
「今、バイロン卿がおっしゃったことをアナベラにそれとなく伝えてよろしいでしょうか?もちろんバイロン卿の周りにはアナベラよりもっと美しくて賢い女性が大勢いらっしゃると思います。でも、バイロン卿はいつかは結婚なさるでしょうし、お相手の候補者の一人としてアナベラに目をかけてくださっていると、そんな感じで間違いはないでしょうか?」とメルボルン夫人は念を押し、バイロンはうなずいた。ラム夫人のことをメルボルン夫人に正面切って尋ねるまでもなく、賢いメルボルン夫人はバイロンに「結婚して身を固めなさい。そうすれば全てが丸く納まります。」と言っているのだった。
「ありがとうございます。夫人のお考えはよくわかりました。僕は自分の将来についてもっと真剣に考えてみることにします。」こうバイロンは言い、メルボルン夫人との短い会見は終わった。メルボルン夫人とバイロンは立ち上がったが、小部屋を出る前に中庭で見た男児のことをメルボルン夫人に尋ねてみようと思った。
「中庭にいらっしゃったのはラム夫妻の息子さんでしょうか?」
バイロンがこう言うとメルボルン夫人は部屋を出ようとする足を止めてバイロンのほうに向き直
って言った。
「そうです。ウィリアムとキャロの一人息子オーガスタスです。バイロン卿、オーガスタスをご覧なった時に何かお気づきになりませんでしたか?」
バイロン男児の異常な雰囲気を思い出したが、わざとそのことには触れずに首を横に振った。
オーガスタスは知恵遅れです。六歳になるのに言葉を全く発しません。あの子がバイロン卿の半分とは言いません。十分の一でもいいから語彙を身につけてくれたら、私もウィリアムもキャロもどんなに幸せか・・・。」
メルボルン夫人のこの言葉でバイロンはラム夫人がメルボルン家で置かれている立場を悟った。ラム夫人に息子がいると聞いた時、バイロンはラム夫人は世継ぎを生む責任を果たしたので夫以外の男性を奔放に追求できるのだと思った。しかしそれだけでは、「ハロルド卿の巡礼」のゲラ刷りを読んだ後、作者である自分の容貌や人と成りも知らないうちにメルボルン・ハウスに自分を招待し、その後も執拗に自分を追うラム夫人の心情は測りかねた。世の中には世継ぎを生む責任を果たした後も貞淑でいる貴方の令夫人のほうが多いのである。知恵遅れの子供しか生むことができなかったラム夫人は、バイロンの詩本の主人公であるハロルドに自分を重ね合わせ、因襲と虚偽が支配する社会から逃れたがっているのではないかとバイロンは思った。

(読書ルームII(89) に続く)

 

 

【参考】

キャロライン・ラムとウィリアム・ラムとの間に生まれた男児は現代の知識水準では知恵遅れではなく自閉症だったと推測されています。