黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(94) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第七話 レディー・キャロライン (一八一二年初-一八一四年、イギリス  13/16)

 

ラム夫人は黙って馬車の窓の外を眺めていたが、バイロンのほうをちらっと振り向いただけでまた窓の外を見た。
「いいか、これだけは肝に銘じてほしい。君はラム卿なしには生きてはいけない。ラム卿の寛大な庇護の下にいるからこそ、ラム卿という君をいつでも受け入れてくれる夫がいるからこそ、君はやりたい放題のわがままをやってのけることができるんだ。君と僕との関係についての世間のやかましい噂はラム卿の人柄が卓越しているからこそ生じているんだ。君と知り合って、君が僕に対して好意をもってくれているとわかった時、僕はもしかしてあの非のうちどころのないラム卿は私生活では君に不満を持たせるような欠点を持っているのかもしれないと思った。公の場でラム卿を知っている男なら誰だって、完璧に近いと言われているラム卿にどんな小さなことでもいいから勝りたいと思う。僕もそう思っていたから、自分にはラム卿よりも勝る点があるのかもしれないと密かに喜んだ。だが、今は違う。おい、聞いているのか?」
ラム夫人は馬車の窓の外を見つめたまま何も答えなかった。バイロンは穏やかな口調になって続けた。

「覚えているか?いつだったか、メルボルン・ハウスで、僕と君は人々がワルツを踊るのを見ながら話しこんで、僕はつい帰る時間を忘れてしまった。するとラム卿が僕たちのほうに静かに歩み寄ってきた。僕だったら、自分の妻が他の男とべたべたくっついているのを見たら、あんなに穏やかな表情で寄ったりできないだろう。男の隣に座っている妻の腕を荒っぽくつかんで男から引き離したかもしれない。でも、ラム卿は 頭(こうべ)を垂れて膝の上に置かれた君の手を優しく取ると言った。『キャロライン、もう夜も更けた。おいとましよう。』その時僕は悟った。ラム卿は公私ともに完璧だった。ラム卿は君の手を強引に引っ張ったりはしなかった。君は魔法にかけられたように立ち上がった。そしてラム卿は君の肩に腕を回した。ラム卿に連れられて歩きながら、君は何度か僕のほうを振り向いたね。君は人の表情を読むのが得意だろう。君が振り向いて僕の顔を見た時に、僕が嫉妬の表情を浮かべていると思ったのなら、君の読みは正しかった。僕はあの時、嫉妬を感じていた。でも誤解しないでほしい。僕が嫉妬を覚えたのは、君を取られたせいではなかった。あのラム卿の、議会であれほど雄弁に主張を語り、政敵を威圧し、同志に慕われ、鋭い知性で万人の羨望の的となっているあのラム卿の、人と成りに僕は嫉妬を覚えたんだ。」
バイロンは一旦黙って窓の外を見つめているラム夫人の後ろ姿をしばらく見つめた。それからゆっくりと言った。
メルボルン・ハウスに戻ったらラム卿に謝るんだ。ラム卿は君を許すだろう。いや、許さないかもしれない。君がこんなことを続けていたらいつかはラム卿だって君を許すことができなくなる日が来るだろう。でも覚えておくといい。ラム卿が君を許せなくなった日は、君の息の根が絶える日だからな・・・。」
バイロンとラム夫人の両方が黙ったまま、馬車はしばらくロンドンの街中を歩んだ。
「キャロ、屋敷から抜け出して僕が迎えに来なかったら一体どうするつもりだったんだ?」とバイロンが尋ねた。
「スペインの乙女たちは女戦士にはあらずlxxiii[5]。」とラム夫人がつぶやいた。「めくるめく愛を彼女らは技とする。武器を取っては子供らに勝り、雪崩のように隊列を組んで、愛する男たちを苦しめる手を、優しい鳩の執拗さで彼女らはつつく、にもかかわらず・・・。」
「僕の詩じゃないか。僕がその節を書いた時、どんな気持ちだったか、君にはわかっていないと思う。君は決して理解しないだろう。侵略者によって祖国が蹂躙されるというのがどういうことなのか四方を海で囲まれた島国のイギリスで、豊かな貴族の家で何の不足もなくぬくぬくと育った君には・・・。」ここまで言った時、バイロンはラム夫人の障害者の息子のことを思い出した。しかしそのことには触れず、ただこう言った。
「外国に逃げたって連れ戻されるだけだ。僕らは運命から逃げることはできない。スペインの女たちだって愛の手練手管だけを技にすることができたら、どんなに幸せか・・・でも彼女たちは侵略者に対して武器を取って戦わなければならないんだ。彼女たちと比べたら、君の境遇はどんなに恵まれていることか・・・。さあ、着いた。」
バイロンはこう言って馬車から降りると、ラム夫人に手を貸して馬車から下ろした。


屋敷の中に入ると、メルボルン夫人とベスボロー夫人が気をもみながら待ち構えていた。ラム夫人の姿を見るなりベスボロー夫人は卒倒し、横に立っていた堂々たる体格のメルボルン夫人がベスボロー夫人を支えた。バイロンもすぐに手を貸した。使用人たちが集まってきてベスボロー夫人を介抱しだすと、メルボルン夫人はバイロンに向かって頭を下げて言った。
バイロン卿、今日はどうもお手数をかけました。」
バイロンはあたりを見回して、人々がベスボロー夫人の介抱に気を取られているのを見ると、メルボルン夫人の腕を取って脇に引き寄せ、小声で言った。

「僕は心を決めました。キャロに手紙を書いて、僕と彼女との関係が何でもないということを彼女にわかってもらいます。アイルランドには明日出発される予定でしたね。」
「ベスボロー夫人の状態によっては延期しないとしかたがないでしょう。いいえ、延期します、早くても明後日ということにしておきましょう。」

(読書ルームII(95)  に続く)