黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(77) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  14/18)

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帰りの道すがら、馬の手綱をフレッチャーに握らせ、ゆっくりと歩む馬の上でバイロンは腕組みをしてうなだれた。バイロンとマシューズが何を見聞きしたのか知らないホブハウスは無言で二人の顔を見比べた。
「何を考えているんだ。」とマシューズが尋ねた。
「もちろんエーデルトンのことだ。」とバイロンが答えた。

「あそこはトリニティー・チャペルの聖歌隊の寮とあまりに違いすぎる。あれが、あの美しい声をしたエーデルトンの末路だとは信じたくない。」
「トリニティー・チャペルで美しい声をしていたからといって薔薇色の未来があるとは限らない。カストラートを志願するとでもいうなら別だが・・・。」マシューズがこう言うとバイロンは顔を上げてマシューズの顔をまじまじと見つめた。マシューズは続けた。
「僕らの文化はカストラートなんていう片輪を作り出すような蛮行を許さない。カストラートになるためには自分の将来の目標もまだはっきりしていない思春期前に手術を受けなければならない。大人になって判断力を身につけてからではもう遅い。」
バイロンは言った。
「そんなこと、イギリスでは行われたことがないというからだけではなく、僕もエーデルトンも考えたこともなかった。エーデルトンは十歳で両親と死に別れてから自分の才能で自分の人生を切り開いてきた。だからこれからだって・・・僕はエーデルトンがケンブリッジを去ることになった時にそう考えた。僕が援助を申し出てもエーデルトンは自分の道を自分で切り開くのが幸せだとでも言わんばかりに僕の申し出を断った。僕はそれがエーデルトンにとっての幸せならば、と思ってそれ以上は何も言わなかった。ロンドンに移って銀行の見習になってからしばらくの間、エーデルトンから届く手紙が明るい希望に満ちたものばかりだったから、僕はそれでよかったと思っていたんだが・・・。」
「彼の家に着くまでに見ただろう。貧民達の群れを。貧困の中で喘いでいるのは彼ばかりじゃない。彼なんてむしろ、きれいな声に生まれついたおかげでチャペルに採用されて読み書きを習ったり君に出会えたりしたわけだから幸せなほうだ。」
「僕が考えているのは彼の未来のことなんだ。過去の栄光のことじゃない。」
「いずれにせよ、エーデルトンを救うことを考えるのならもっと大きなことを考えろよ。エーデルトンだけ救うのなら君がもう少し頑張って、君の従者か小姓として雇ってやっていれば今ごろ君の住居の控えの間で君の帰りを待ちながら好きな賛美歌の楽譜でもめくっていたかもしれなかったんだ。でもそれは君と彼だけを中心に据えた解決策で彼自身もそれを望んではいなかった。君はもっと大きな広い目で世の中を見るべきなんだ。見ただろう、あの貧民の群れを。アダム・スミスは道徳精神に則った正しい法律が制定され、人々が公正な手段で自分たちの欲望を満たそうとするならば『神の見えざる手』によって世の中に均衡がもたらされると説いた。でも、あの貧民の群れは何だ。道徳精神に則った法律が世の中にいまだ存在していないせいか、あるいはアダム・スミスが間違っていて僕らは所詮野獣のようにお互いに戦い合い、搾取し合い、弱者は滅びていくしかないのか。僕はそれを知りたい。しかし、アイザック・ニュートンがやったように自然の法則に数学を当てはめるこに専心しているせいで、僕はいつの日にか社会の法則も数学で説明されるようになると信じている。人間の手によって作られてはいるが、社会も間接的には自然と同じような神の被造物ならばきっと数学で表現されるような一般的な法則があるに違いないと思っている。だから僕はアダム・スミスの『神の手』を信じつつ人間社会で何が間違っているのか知りたいんだ。そもそもアダム・スミスの一番の功績は、それまである一国において王侯貴族や一部の富豪の元に蓄積される富の総和がその国の富であると考えられていたのを蓄積された富ではなくて、国家の民が口を糊して生きていく手段と切っても切り離せない農業や工業、貿易などから年々もたらされる収益の総量こそが・・・。」


バイロンはマシューズが得々として語る富の概念の話に耳を傾けてはいなかった。エーデルトンの末路を見ずに貧民だけを目にしたのならば十分に興味深く知識欲をそそられていたに違いない、マシューズが語る社会の一般法則の話が頭に入らないほどバイロンは心を痛めていた。ホブハウス家のロンドン邸に戻り、無言のうちに日曜の夜の食事を済ませ、勉強家のマシューズが読書のために個室に戻った後、バイロンはようやくホブハウスにその日見聞きしたことやマシューズが語ったことの含蓄を話すことができた。バイロンの話を聞き終えるとホブハウスは言った。
「マシューズが言うとおり、エーデルトンなんて幸せなほうだぜ。体を壊したせいで軍隊に入ることもないだろうしね。彼が健康を回復するのと同時にナポレオンとの戦争が終れば、彼にとっては全てがうまくいく。また銀行に戻って、戦争が終わればもっと盛んになるはずの貿易や海外旅行や海外投資に役立つ仕事をして、そういった業務の専門家になればいいじゃないか。イギリスが大陸の状況に介入して本格的にナポレオンと戦えば、君が救ったエーデルトンと同じ年頃の未来ある若者が何百人、何千人の単位で死ぬんだぜ。それが戦争の意味だ。王党派(トーリー)の連中はナポレオンが自由・平等・博愛の思想を敷衍しようとしている大陸に、反動的なプロシアオーストリア専制君主の肩を持って干渉しようとしている。それだけじゃない。そうすることによって人々の目を社会の矛盾から逸らせようとしているんだ。工業化と機械化のせいであぶれた労働力を軍隊で吸収して大陸でナポレオンを相手に戦わせて殺すためにやつらは戦争を提唱しているんだ。こんな知恵があっていいものか。これは神に許された知恵ではない。蛮行だ。」
バイロンは何も答えなかった。ホブハウスは黙ったままでしばらく眼を伏せて沈み込んでいるバイロンの顔を見つめたが、やがて言った。

「考えてくれているね。戦争に反対し、弱い者の味方をする僕らの進歩(ホイッグ)党に入ることを・・・。」

(読書ルームII(78) に続く)

 

 

【参考】

ホイッグ党 (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%B0%E5%85%9A_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)?wprov=sfti1

ホイッグ党を「進歩党」と訳したのはわたくしの独断と偏見によるもので同様に訳している歴史学者はいないと思います。

 

トーリー党 (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%85%9A_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)?wprov=sfti1

 

カストラート (ハテナ)

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%B9%A5%C8%A5%E9%A1%BC%A5%C8

カストラート (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88?wprov=sfti1

【かわまりの映画ルーム(143) カストラート 〜 二度と再現されない人工美 7点】

https://kawamari7.hatenablog.com/entry/2020/05/10/091254

カストラート(映画) (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88_(%E6%98%A0%E7%94%BB)?wprov=sfti1