黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(69) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  6/18)

このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

ユークリッドの公理に明け暮れる幸せな青春よ
それ以外に出来ることはほとんどない。
英語さえろくに書けず、古代人が引いた幾何学の線を
批評家の浅知恵でもって飽きもせずなぞる。
世の戦乱が戦場に屍の山を築いた、
かつての時代の父祖たちの傷の深さも知らず、
エドワード王が進軍する敵を打ち破り
ヘンリー王がフランス兵の羽飾りを踏みにじり、
マグナ・カルタにどれほど頭をひねったかも知らない。
スパルタの法律やリュクルゴスの布告や、
ギリシア古典劇が死を越えた名誉を賛美したことや、
エーヴォンlxiv[3]の詩人の本名などは何とか知ってはいるが、
法学者ブラックストンの本は棚に置きっぱなし、
優等賞やメダルやフェローの地位しか眼中にない。
これが「科学的オツム」の中身。
「大学の試験に思う」より。


「まいった、まいった。幾何学は白旗だ。」と期末試験が終わった後でホブハウスがバイロンに言った。
「僕はユニオン・ジャックと三色旗。」とバイロンが言った。
「何をわけのわからないことほざいているんだ。」とホブハウスが聞き返すとバイロンは涼しい顔をして答えた。
「たまたま、解いたことのある問題のちょっとした変形だったから試験はできたけれど、こんなのが数学でこれができた人間に優等賞や奨学金フェローシップが与えられるなんていうんだったらお笑いだよ。マシューズの手ほどきで数学とは深くて広いものだと知った。限られた時間中に小さな紙片にしかめ面をして向かい合うのが数学じゃない。だから白旗なんて言うなよ。僕の『ユニオン・ジャックと三色旗』の意味がわからないのか?数学は現実のいろんな問題、例えばナポレオンによる大陸封鎖やイギリスとフランスとの戦争なんかの解決策には全然役立たないということだ。ユークリッド幾何学のような整った世界が全てなら僕らは全員死人だ。」
「わけがわからんことを言っているが、今日、君に話したかったことは他でもない、夏休み中に一緒にロンドンに行かないかということなんだ。国会の会期が終わって親父が領地に帰る。その間来客もないからうちのロンドンの邸宅にデービスやマシューズも一緒に泊まって毎日ロンドン見物をして夜はみんなで語り明かそうじゃないか。」
ホブハウスの提案にバイロンは声をかけられた他の二人と同様快く賛同し、バイロンが馬車を提供して試験が終わって間もなくバイロン、ホブハウス、マシューズ、デービスの四人はバイロンの自家用の馬車に便乗してロンドンに向けて出立した。「遁走詩集」の件でバイロンとマシューズとの間には一旦はしこりが生じたが、ホブハウスの熱心なとりなしによってマシューズは耳を引っ張ったことを潔く詫び、二人の仲は元通りになっていた。ただ、マシューズはバイロンに「未成年だということと貴族だということに甘えるなよ。」とだけ言い、バイロンは素直にその忠告を聞き入れた。それにもまして、再び巡ってきた夏にバイロンはマシューズがケンブリッジきっての泳ぎ手だということを発見し、二人の間柄はは以前以上に親密さを増していた。
「ロンドンではテームズ河で泳ごう。」とロンドンに向かうバイロン所有の馬車の中でマシューズがバイロンに言った。
「去年、アナクレオン大先生とホブハウスと一緒にロンドン見物に来た時には僕は一人で泳ぐしかなかったが今年は君がいるので心強い。」こう言ってマシューズは自然に囲まれたケンブリッジのカム川での泳ぎと比べた時のテームズ河で人工の建造物を仰ぎながら泳ぐ面白さを語って聞かせた。
「君は初心者だし、川上から川下に向かって泳ぐのがいいだろう。体力をあまり消耗せずに川沿いのいろんな景色を眺めることもできる。国会議事堂からロンドン塔までの河沿いの道を馬車で通り過ぎるといろいろな物に目を奪われて長い距離だとは思わないが、自分の手足で水を掻きながらだと結構こたえる。二マイルはあるんだからな。」
途中の宿場町で一行は馬車を降りて昼食を取った。四人は交替で手洗いに立ち、窮屈な馬車から解放されて手足を伸ばした。最後に席を立ったのはデービスだった。デービスの姿が奥に消えるのを見てホブハウスがバイロンに言った。
「君はロンドンはもちろん初めてじゃないと思うが、賭博場には行ったことはないだろう。」
バイロンは執事ハンソンの三人の息子と今回と全く同様、馬車に乗ってハロー校のある町からロンドンに向かったことが何度かあったが、ロンドン見物の際にはいつでも自分の三人の息子たちと分け隔てなくバイロンに接するハンソンかその従者に伴われていた。もちろん賭博場などには足を運んだことはなかった。バイロンの答えを聞くとホブハウスは身を乗り出して小声で言った。
アナクレオン大先生はこの前一緒にロンドン見物に来た時に博打にはまって所持金をすっかり擦ったんだ。僕は子供の頃、親父に連れられて賭博場でほんの少しだけ遊んだことがあって、こんなものかと思って博打なんかにのめり込むことはなかった。親父が僕を賭博場に連れて行ったと聞いてお袋は大騒ぎをしたが、思えばあれはジェンナーが息子の腕に牛痘を植えるlxv[4]ようなものだったんだ。」ホブハウスはこう言ってマシューズの顔を見た。バイロンは尋ねた。
「僕も種痘法を受けるつもりで一度は賭博場に行ったほうがいいのかな?でもジェンナーの種痘法にも賭博場見物にも抵抗力をつけるという根拠が見当たらないんだがな。」
「どうぞ、ご自由に。でも、花盛りになるなよな。マシューズ、君はどう思う?」
パスカルフェルマーの理論は数学者にとってはあまりに低俗な対象を扱っていたし、博打打ちにとってはあまりに高尚すぎた。でも、そのうちにいろんな事象がパスカルフェルマーの理論で説明されなくてはならなくなるかもしれない。博打を無限回繰り返せば、博打の儲けは理論値に限りなく近づく。だが、理論値と同じ儲けを得るまでに胴元は笑って笑って、腹の皮がよじれて死んでしまうだろうな。絶対に確かなことは、理論の上では博打の参加者の儲けは絶対に胴元の儲けよりも少ないということなんだ。」
これを聞いたホブハウスは狐につままれたような表情をした。バイロンはマシューズが唱えるパスカルフェルマーの理論と博打を本能的に嫌うホブハウスの心情の両方を理解することできたので、黙ったまま二人の表情を見比べた。その時デービスが席に戻り、四人はすでに並べられている昼食に一斉に貪りついた。

(読書ルームII(70) に続く)

 

 

【参考】

THOUGHTS SUGGESTED BY A COLLEGE EXAMINATION.

High in the midst, surrounded by his peers,
  Magnus [1] his ample front sublime uprears: [i]
  Plac'd on his chair of state, he seems a God,
  While Sophs [2] and Freshmen tremble at his nod;

 

As all around sit wrapt in speechless gloom, [ii]
  His voice, in thunder, shakes the sounding dome;
  Denouncing dire reproach to luckless fools,
  Unskill'd to plod in mathematic rules.


Happy the youth! in Euclid's axioms tried,
  Though little vers'd in any art beside; 10
  Who, scarcely skill'd an English line to pen, [iii]

 

Scans Attic metres with a critic's ken.
  What! though he knows not how his fathers bled,
  When civil discord pil'd the fields with dead,
  When Edward bade his conquering bands advance,
  Or Henry trampled on the crest of France:
  Though marvelling at the name of Magna Charta,
  Yet well he recollects the laws of Sparta;

 

Can tell, what edicts sage Lycurgus made,
  While Blackstone's on the shelf, neglected laid; 20
  Of Grecian dramas vaunts the deathless fame,
  Of Avon's bard, rememb'ring scarce the name.
  Such is the youth whose scientific pate
  Class-honours, medals, fellowships, await;
  Or even, perhaps, the declamation prize,

 

If to such glorious height, he lifts his eyes.
  But lo! no common orator can hope
  The envied silver cup within his scope:
  Not that our heads much eloquence require,


Th' ATHENIAN'S [3] glowing style, or TULLY'S fire. 30
  A manner clear or warm is useless, since [iv]
  We do not try by speaking to convince;
  Be other orators of pleasing proud,—

 

We speak to please ourselves, not move the crowd:
  Our gravity prefers the muttering tone,
  A proper mixture of the squeak and groan:
  No borrow'd grace of action must be seen,
  The slightest motion would displease the Dean;
  Whilst every staring Graduate would prate,

Against what—he could never imitate. 40
  The man, who hopes t' obtain the promis'd cup,
  Must in one posture stand, and ne'er look up;
  Nor stop, but rattle over every word—
  No matter what, so it can not be heard:
  Thus let him hurry on, nor think to rest:
  Who speaks the fastest's sure to speak the best;

 

Who utters most within the shortest space,
  May, safely, hope to win the wordy race.
  The Sons of Science these, who, thus repaid,
  Linger in ease in Granta's sluggish shade; 50
  Where on Cam's sedgy banks, supine, they lie,
  Unknown, unhonour'd live—unwept for die:
  Dull as the pictures, which adorn their halls,

 

They think all learning fix'd within their walls:
  In manners rude, in foolish forms precise,
  All modern arts affecting to despise;
  Yet prizing Bentley's, Brunck's, or Porson's [4] note, [v]
  More than the verse on which the critic wrote:
  Vain as their honours, heavy as their Ale, [5]
  Sad as their wit, and tedious as their tale; 60

 

To friendship dead, though not untaught to feel,
  When Self and Church demand a Bigot zeal.
  With eager haste they court the lord of power, [vi]
  (Whether 'tis PITT or PETTY [6] rules the hour;)
  To him, with suppliant smiles, they bend the head,
  While distant mitres to their eyes are spread; [vii]
  But should a storm o'erwhelm him with disgrace,

 

They'd fly to seek the next, who fill'd his place.
  Such are the men who learning's treasures guard!
  Such is their practice, such is their reward! 70
  This much, at least, we may presume to say—
  The premium can't exceed the price they pay. [viii]
(1806)

出典: Byron'# Poetical Works, Volume 1 (アマゾン キンドル版)

 

 

エーヴォンの詩人 = シェイクスピアのこと

 

マグナカルタ (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF?wprov=sfti1

 

リュクルゴス (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%82%B9_(%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%BF%E7%8E%8B)?wprov=sfti1

 

法学者ブラックストン (ウィキペディア)

 

ユークリッド/エウクレイデス (ウィキペディア)

 

フェルマー (ウィキペディア)

 

パスカル (ウィキペディア)

 

ジェンナー (ウィキペディア)

 

「でも、そのうちにいろんな事象がパスカルフェルマーの理論で説明されなくてはならなくなるかもしれない。」というマシューズの言葉はわたくしかわまりの創作ですが、実際に現代ではウラニウムのように放射性同位元素を含む不安定な元素に放射線(中性子線)を照射して人造元素(例えばプルトニウム)を生成する過程、あるいは多様な工学(特に電子工学?)において確率論が役立っているようです。もちろんその理論はパスカルフェルマーの理論そのものではなく、20世紀初頭以降物理学分野での量子力学や不確定性理論、そして数学での多変数解析、線形代数などが互いに影響し合いながら急速に発展した結果もたらされました。