黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(66) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  3/18)

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寮にたどり着くとバイロンはエーデルトンを見て慌てふためく寮監に事故について説明し、寮監に手伝ってもらってベッドに少年を横たえた。バイロンは医者を呼ばせ、医者が到着すると自分から医者に前金を払ってエーデルトンの容態について尋ねた。
「肺に水が入っているので肺炎になるかもしれません。」と医者は言って帰っていった。
翌日、バイロン聖歌隊の寮を訪ねると、医者が予告したとおりエーデルトンは熱を出していた。バイロンはエーデルトンが回復するまで毎日寮に見舞いに行った。
「せっかく助けたんだから、肺炎なんかで死ぬなよ。早く元気になれよ。」とバイロンが言うとエーデルトンは横たわったまま潤んだ目でバイロンを見上げ、しっかりとうなずいて言った。
「本当に何とお礼を言っていいのやら・・・。きっと元気になって閣下のお役に立ちたいと思います。」
入学したばかりの大学で、学生生活が本格的に始まる前にバイロンはいっぱしの英雄的行為を成し遂げ、人の命を救うことに勝る英雄的な行為はないと思うようになった。バイロンが他の新入生に対して尊大ぶった態度を取ることにはそれなりの理由があった。


秋学期の授業が始まり、ハロー校よりも程度が高く早い速度で進められる授業にバイロンは満足したが、バイロンは自分の進路をはっきり決めるまではあまり肩肘張らずに経験のためにいろんな授業に出てみようと考えていた。しかし、爵位のある貴族の当主は各種の義務を果たすために授業の出席ばかりか学期末試験で一定の成績を取ることも卒業の要件として要求されてはいないということがすぐにわかった。牧師や学校経営者の息子で学問がすぐに職業に生かされる者以外はほとんどの学生が知己を広げるために大学に入学しているのだった。


大学生活が始まってから図書館で知り合ったホブハウスに加えて、ホブハウスに紹介されたフェローのスクロープ・デービスと先輩のチャールズ・マシューズが友人になった。二人の年長者と文学好きで政治にも詳しいホブハウスはバイロンにとっては貴重な存在だった。バイロンは英国教会の教区牧師の息子で新約聖書の専門家で聖職者の息子らしい朴訥とした風貌のデービスとソラマメのようなひょうきんな顔をしたホブハウスには親しみを、そしてアイザック・ニュートンを尊敬し、ニュートンのように若くして学界を驚かせるような革新的な数学や自然科学の理論を打ち立ててケンブリッジ大学の教員の座を獲得しようとしている野心家で太い眉に整った彫りの深い顔立ちをしたマシューズには魅力を覚えた。ある日、バイロンはマシューズに大学の存在意義について尋ねてみた。
アイザック・ニュートンの頃のケンブリッジ大学の栄光はどこに行ったんだ。」とマシューズは慨嘆した。
「自然の公理に光を当てること、それこそが学府が達成することができる最高の目的と栄誉じゃないか。数学の世界で解析の体系を打ち立てたのはニュートンなのに、ライプニッツが少し後に独立して同じことを成し遂げてちょっとわかりやすいエレガントな記号体系を採用してニュートンから栄誉をさらっていってしまった。でもこれなんかまだいい。厳然として存在する自然の公理に関して、二人の天才が二箇所でほぼ同時に同じ理論を考え出したというだけなんだから。でも、社会に公理を見つけたアダム・スミスの業績がオックスフォード大学からスコットランドに持っていかれたのとよく似た話はここでもオックスフォード大学でも数え切れないほどある。今では人文系の連中の中にはアル中患者さえもめずらしくない有様だ。スクロープ・デービスなんて表向きはコイネの専門家だけれど、実際はイオニア語の専門家なんだ。」
「コイネもイオニア語も時代が違うだけでどちらも古典ギリシア語じゃないですか?」とバイロンは聞き返した。
「そうだ。でもコイネの原典で新約聖書を研究するということで親父さんから大学に残る許しをもらったのに彼は実際イオニア語の中でもアナクレオンlxiii[2]にいかれている。」
「それでも別に構わないじゃないですか。でもアナクレオンの作品はそんなに多く残っていませね。」
「わからないやつだな。デービスはアナクレオンを実践しているんだ。」
バイロンはマシューズが言っている意味が理解できたが、自分よりも六歳も年長でフェローの地位にあるデービスが放蕩家だということに関しては半信半疑だった。
ある日、年齢が近いせいでバイロンが最も頻繁に行動を共にすることが多い新入生のホブハウスがバイロンに尋ねた。
「僕の父は進歩(ホィッグ)党の党員で衆議院議員だ。君のお父さんはどちらの党に所属していたんだ?」
「知らない。僕の父は僕が二歳の時に死んで、僕は肖像画でしか父の顔を知らない。それに僕は父から爵位を継いだわけじゃない。」とバイロンは答えた。
「じゃあ、君は誰から爵位を継いだんだ。」
「大伯父から。その大伯父の顔も肖像画でしか見たことがないし、どちらの政党に属していたのは誰かに聞けばすぐにわかるだろうけれど、知らない。僕は十歳の時に爵位だとか貴族だとかが何なのかも知らないうちにスコットランドのみすぼらしい借家からノッティングハムシャー、ニューステッドの屋敷に連れてこられて閣下(ロ ー ド)と呼ばれるようになった。」
ホブハウスはバイロンの生い立ちに興味を覚えた。ホブハウスが最も羨んだのはバイロンが十代の若さで男爵家の当主であり、二十一歳になるのと同時に貴族院議員に加えられることだった。
「進歩(ホィッグ)党の集まりに来ないか?」とホブハウスはバイロンを執拗に誘ったがその度にバイロンは「いいよ。二十一歳になるまでにはまだ間があるから。」と答えた。
「僕なんか、親父は国会議員だけれど、世襲じゃない衆議院議員だから、僕は国会議員になるために選挙運動をしなければいけないし、一生国会議員にはなれないかもしれない。でも君は特権階級なんだから、もっと政治に興味を持ったほうがいい。」とホブハウスは熱心に誘ったがその都度、バイロンは口実を見つけては進歩(ホィッグ)党の集まりには顔を見せようとしなかった。

(読書ルームII(67) に続く)

 

 

【参考】

コイネ/コイネー  (ウィキペディア)

わたしの理解ではコイネはイエス・キリストの時代のギリシア語でイオニア語は紀元前2世紀前後から綿々と話されていたギリシャ語でコイネは時代の変遷を経たその一部で新約聖書の原典を記した言語として現代でもキリスト教の研究者が履修しているようです。(門外漢なので勝手にそうのように理解しています。)

 

アナクレオン (ウィキペディア)