黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(76) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  13/18 )

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その夏、ロンドンはかつてないほど暑かった。バイロンはマシューズらがロンドンに来る前からフレッチャーに衣類と馬の番をさせて前年にマシューズと泳ぎを競った時と同じ水路を引き潮の時を選んで川下から川上へと反対方向に泳いでマシューズとの競泳に備えた。
「カム河で水遊びみたいに泳ぐのとわけが違うんだからな。今回は絶対にマシューズを負かしてやる。」こう決めたバイロンは内翻足のせいで陸の上ではあまり鍛錬することのない両足で盛んに水を蹴って泳いだ。


マシューズと泳ぎを競う日になり、ホブハウスやフレッチャーと連れ立って両院議事堂の脇まで出かけ、同時に水に飛び込んだ。二人はしばらく並んで泳いだが、ウェストミンスター橋が近づいた頃にバイロンの肩から腋にかけてがマシューズの頭と並ぶようになり、橋を通り過ぎた時にはバイロンは体一つマシュ-ズに差をつけていた。バイロンとマシューズの差はそのまま広がり、ゴールのロンドン橋が見えることにはバイロンはマシューズよりも数メーター先を泳いでいた。


「おい、バイロン、ロンドン橋だぞ!橋を過ぎてどこに行くんだ?それ以上いったらイースト・エンドだぞ!」
バイロンが完全にロンドン橋を過ぎたと思った時にマシューズは立ち泳ぎになって足で水をかきながらこう叫んだ。しかしバイロンはマシューズの言ったことが聞こえたのか聞こえないのか、そのまま泳ぎ続けた。
「一体、何やってんだ。フレッチャーが待っている場所を過ぎたぞ。引き返さないといけなくなる。」
マシューズはこう呟きながらしかたなくロンドン橋を後ろにして泳ぎ続けた。


バイロンイースト・エンドの土手に座って涼しい顔をしてマシューズを待っていた。
「疲れたでしょう。ケンブリッジではこんなに長い距離を泳ぐことはないから。」とバイロンは言った。
「ここでフレッチャーを待ちます。フレッチャーは慣れていますからじきに来ます。それまでに体も乾くでしょう。」果たして、イースト・エンドの複雑に折れ曲がる路地を通ってフレッチャーが二頭の馬を引いて現れた。ホブハウスはイースト・エンドに行くと聞いただけでしり込みし、ロンドン橋のたもとで待つことにした、とフレッチャーは言った。
「マシューズさん。」と服を着終えたバイロンは真顔になって言った。「実は僕がこれから行きたいと思っているところに付き合ってほしいんです。」

マシューズは何が何だか訳がわからず、そのままバイロンが言うことに耳を傾けるより他になかった。バイロンフレッチャーに向かってロンドン橋まで戻って待つようにと言うと再びマシューズのほうを向き直って言った。
イースト・エンドに会いたい者がいるんです。フレッチャーと二人で来ると馬の番をする者がいない。馬を引いて行くのはまずいし、一人ではさすがに行く気はしない。だから、是非、マシューズさんかホブハウスと一緒に行きたかったんです。今なら水泳の後で僕らは髪もくしゃくしゃだし間違ってもケンブリッジ大学の学生や学者には見えない。ちょうどいいんです。」
マシューズはいまだに訳がわからなかったが、フレッチャーが馬を引いて立ち去った後、バイロンに従うしかなかった。


バイロンとマシューズは普通ならば決して用があって出向くことのないイースト・エンドのスラムで、幾多の見慣れない光景や人々のすさんだ有様に目を驚かせながらバイロンが招くとおりに歩んだ。バイロンは初めて来た者らしくあたりをもの珍しそうに見回しながら歩いていたが、行く先ははっきりと心得ているらしかった。
「マシューズさん、あまりあたりを見回さないほうがいいかもしれない。水泳を終えたばかりでこんななりをしているけれど、もの珍しそうにあたりを見ていると正体がわかってしまうかもしれません。」とバイロンは言った。


あるみすぼらしい家屋の入り口で昼間だというのに酔っ払いが管を巻いていた。
「トラファルガーだと・・・俺はトラファルガーで軍艦に乗っていた。水夫だった。俺の脚を返せ。ネルソンなんか、死んじまったから何も苦労はねえ。今の俺は自慢じゃないが、女房に食わしてもらっているんだ。」
マシューズが酔っ払いのほうに気を取られたのを見てバイロンはマシューズの服の裾を引いて先をうながした。
「このあたりから僕の家の近くに通っている奉公人からこのあたりの様子や目印は細かく聞いてあるんです。」とバイロンは言った。バイロンは細い路地をいくつも通り抜け、ある一軒の貧しい家の前に立ち止まると入り口の戸を叩いた。すると中から薄い金髪の頭をしてやせこけた若い男が姿を現した。


「閣下(ロ ー ド)。ここは閣下のような方がお見えになるところではありません。」とその男はバイロンの姿を見るなり叫んでバイロンを家から締め出そうとした。しかし、バイロンは根が生えたようにその場に立ちつくして叫んだ。
「エーデルトン、僕は君がどんな暮らしをしているのか見てみたかったんだ。」
「やめてください。僕をほっておいてください。トリニティー・チャペルにいた頃、僕は人生で一番幸せだったんです。閣下(ロ ー ド)にお会いしてからケンブリッジを立つまでの間、僕は幸福の絶頂にいました。でも、あの幸福はもう終わったんです。」
「そんなことはない。君はまだ若い。今は世の中に出たばかりで一時期こんな生活を我慢しなければならないかもしれないが、そのうちきっとケンブリッジにいた時以上に幸せになるんだ」
バイロンがこう語っている間にエーデルトンは口を手で抑えて咳をした。蒼白だったエーデルトンの顔が薔薇色に染まり、バイロンはカム川でエーデルトンを助け、抱きかかえてその皮膚を懸命に擦った時のことを思い出した。しかし、バイロンとエーデルトンの会話を黙って聞いていたマシューズはエーデルトンの咳が何を意味するかを知っていたので黙ってバイロンの腕に手をかけ、退出を促した。

(読書ルームII(77) に続く)