黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(71) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  8/18)

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二人は同時に水に飛び込んだ。両院議事堂の前を泳いでいる間、二人は頭を揃えて一緒に泳いでいたが、ウェストミンスター橋を過ぎたころからマシューズが頭一つバイロンを抜き、左岸に古い石造りの学校や教会そしてロンドン市街を前方に望みながら河が大きく曲がるころにはバイロンは完全にマシューズに水を開けられていた。二人はロンドン塔まで泳ぐことになっていたが、ロンドン塔をはるかに望むことができるようになったころ、バイロンは前方を泳ぐマシューズの姿をかなたに小さく見ることができるだけだった。
「マシューズに負けた。」とバイロンは思い、いつか「遁走詩集」を暖炉の火にくべた時と同じ涙がこみあげてきた。「マシューズは僕に数学の才能があるという。僕は生まれついての身分を生かしてデカルトのように思索し、後世に残る数学や哲学の理論を考え出すべきだという。でも実際、彼は僕に数学やいろんなことを教えながら自分の僕に対する優位を確かめてるんじゃないのか・・・でもこんなこと考えたところでマシューズに負けた言い訳にもならない。」バイロンはこう考えて水を掻く手足の力を緩めた。マシューズに追いつくことが無理だとわかってから、バイロンは悔しさで混乱した頭を冷やし、悔しさのせいで涙を流したことをマシューズやホブハウス、そして従者のフレッチャーに知られないようにすることだけを考えていた。
バイロンがロンドン塔のたもとに泳ぎついた時、とっくの昔に到着していたマシューズは川べりに腰を下ろし、フレッチャーから受け取った古い毛布で上半身を包んでバイロンの到着を待っていた。
「どうだ。初の遠泳はこたえたか?」とマシューズが尋ねた。バイロンは何も答えず黙ってフレッチャーが差し出した毛布で体をくるんだ。
「マシューズさんはやはり早いですね。イートン校ではクリケットのスター選手でしたから、腕も脚も特別に強いんでしょうね。」とホブハウスが言った。ハロー校に在学中、クリケットの強打者ではあったが、内翻足のせいでフィールドを走ることはついぞなかったバイロンは言葉を発することができなかった。
バイロンとマシューズの二人の体が乾き、馬具が濡れて傷まない程度に乾いた後で四人は馬に乗ってホブハウス邸に戻った。帰りの道すがら馬上で寒さや疲れのためではなく悔しさのせいで体がぶるぶる震えるのをバイロンはどうすることもできなかった。帰りが遅いデービスを待たずに始められた夕食の席で、バイロンは泳ぎ終わってから最初の言葉を発した。
「僕は来学期は学校には出席しない。ロンドンに残る。」
ホブハウスとマシューズの二人は驚いて夕食の皿から顔を上げた。
「でも、一応は来週末でケンブリッジに帰るんだろう?」とホブハウスが尋ねた。
「いや、残らない。もちろんこの家に住ませてもらうつもりはない。僕は部屋を借りてそこで住む。」
「僕ら君の馬車で来たんだぜ。僕らはどうやってケンブリッジに帰るんだ?」
「馬車なら貸す。御者もだ。フレッチャーには寮の僕の部屋から必要なものを取ってこさせるために帰す必要がある。それから・・・。」と言ってバイロンはマシューズの顔を見つめて言った。
「僕の部屋に代わりに住んでほしいんです。マシューズさんの部屋は日当たりが悪いといつでも文句を言っていたじゃないですか。僕の部屋は広いし日当たりもいい。」
「おい、それはあまりに急だ。それに君はまだ十八歳だから一人では部屋は借りられない。」
「僕らのうちで成人しているのはデービスさんだけだからデービスさんに保証人になってもらいます。」
バイロンがこう答えた時、バイロンの頭の中にはすでにロンドンでやらなければならない、大学の授業よりも重要な数々のことが列のように一覧をなしていた。
「イギリスの議会制度についてもっとよく知ること。イギリス政府と外国の動きに注目すること。社会のしくみを知ること、そしてイタリア語を習得し、演劇に精通し、『遁走詩集』を越える新しい詩集を発表し、そして遠泳に耐えるように体を鍛える・・・。」

 

それから一週間、ホブハウス邸で読書に熱中するようになったマシューズとどこへともなく姿を消すデービスのことは構わず、バイロンとロンドンの地理に明るいホブハウスは二人でロンドン市内の手ごろな場所にバイロンの住処を探したり買い物をしたりした。ホブハウスはバイロンの意図を理解しようと努め、家で一緒に食事をする時にはバイロンの決意にあまり良い反応を示さなかったマシューズには何事も話さず、経過に関しては二人の間だけで話をするよう努めた。
「君はいいよな。授業料さえ払っていれば卒業できるんだから。」とホブハウスがバイロンと二人きりになった時に言った。同じことを言うのはこれでもう何度目かだった。
「マシューズが言うとおり、今のイングランドの大学は退廃している。フェローシップが金でやりとりされるという噂さえ聞いたことがある。何よりも僕は疑問に思うんだ。学問とは一体何なんだ?」
「僕も親父がどうして僕を大学にやったのか実際のところ疑問なんだ。親父は学問はそこそこやればいいという。
紳士としてのたしなみと教養を身につけるためか、それとも将来政界にデビューした時に備えて同士を探すためか?」
「友人を探すためだったら僕はもう出席する必要なんかないんだ。」とバイロンが低い声で答えた。
バイロンの新しい住処が決まり、保証人になるデービスとホブハウスを伴ってユダヤ人の大家と契約書
を交わした後、バイロンは言った。
「デービスさん。あなたには絶対に迷惑はかけません。大家さんにも執事のハンソンの連絡先を教えておいて家賃がとどこおらないようにさせます。」
「ハンソン氏にはこのことは言ったのか?」とホブハウスが尋ねた。三人は家や金を貸すことを生業としているユダヤ人の事務所から出ようとしていた。
「いいや、まだだ。でもハンソンは僕の決定に逆らったことはない。おととしのクリスマスの時に僕がハロー校ではもう十分に友人を作ったから他の学校に行って勉強してみたいと言ったら、次の年の春にはさっさとハロー校の校長のところに出向いて僕のハロー校終了の許可をもらってきた。それだけじゃない。夏の始めまでには僕の大学の入学許可まで取りつけた。オックスフォード大学じゃなくてケンブリッジ大学だったということだけが僕の意向と異なっていたんだけれど、今ではもちろん気にしてはいない。」

(読書ルームII(72) に続く)

 

 

【参考】

ロンドン塔 (ウィキペディア)