黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(73) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  10/18)

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「どうだ、『遁走詩集』よりもまとまっているだろう。」とバイロンが言うとホブハウスは「そりゃそうじゃなくちゃ・・・。」と言って口ごもった。バイロンが「何か注文でもあるのか?」と尋ねるとホブハウスは肩をすくめて言った。
「美しい女性や友達を思った詩だとか、別れの感慨を歌った詩だとか、それぞれよくできていると思うけれど、ずっとこんな詩ばかり書いていくのかなとふと思ったんだ。」
ホブハウスの言葉にバイロンは驚いたように顔を上げて友人の顔を見つめた。そして言った。
「僕はロンドンで毎日いろんなことを見聞きした。いろんなことを考えた。まだそれが詩になるまでには発酵していないんだ。ロンドンの街の中で起きること、イギリス国内やヨーロッパ大陸で今、正に起きつつあること、全てが僕にとって学び始めた外国語みたいでまだそれによって自分の気持を表現できないような、自分の気持ちがどう受け止めているのかさえわからないような状態なんだ。」
バイロンの言葉にホブハウスは黙ってうなずき、二人はバイロンが不在だった間に大学で起きたよもやま話やバイロンが見聞きしたロンドンの話に花を咲かせた。


ホブハウスとの久々の語らいは楽しかった。しかしバイロンが密かに期待していたのは教室や図書館でいつでも会うことのできる学生の同胞ホブハウスやマシューズやデービスではなかった。バイロンが一番会いたかったのはエーデルトンだった。だが、エーデルトンは一週間立ってもバイロンの寮に姿を見せなかった。エーデルトンは確実に帰る頃まで待って来るのだろうとバイロンは考えたがロンドンから戻って二週間立ってもエーデルトンは姿を現さず、バイロンは終に待ちきれなくなってトリニティー・チャペルの日曜日の礼拝に赴いた。


退屈な説教の後で待ちに待った聖歌隊が入場し、賛美歌を歌ったが、独唱の部分で聖歌隊の前に歩み出たのはバイロンが知らない少年だった。バイロンが座っていたのは後ろの出口に近い席だったので聖歌隊の少年たち一人一人の顔を見分けることはむずかしかったが、聖歌隊の最後列の端に顔色も冴えず、他の全ての少年たちが生き生きとした表情で歌っている合唱の際にも冴えない表情で口を開けているのかいないのかもわからない少年がエーデルトンだとバイロンは認めないわけにはいかなかった。大学の寮に戻ってからバイロンはエーデルトン宛てに短い手紙を書いてフレッチャーに聖歌隊の寮に持っていくように言いつけた。次の土曜日の朝、バイロンの部屋の入り口を叩く者がいた。
「エーデルトン。」
バイロンは期待で飛び上がって叫んだ。
「エーデルトンだろ。入れよ。ずっと待っていたんだ。会いたかったんだ。」バイロンがこう言いながら扉を開けるとそこにはエーデルトンが呆然とした表情でたたずんでいた。
「どうしたんだ。」とバイロンが尋ねるとエーデルトンは黙って首にかけていた細い鎖をはずしてバイロンに差し出した。
「閣下(ロ ー ド)。」とやっと口を開いたエーデルトンの声はしゃがれていた。
「これを僕の思い出にとっておいてください。もうじきお別れしなくてはなりません。」
「何だって?」とバイロンは聞き返した。
「僕はもう高い声が出ないんです。好きだった賛美歌もほとんどが歌えなくなりました。音程を下げて歌うと邪魔者扱いされます。」
バイロンは黙ってエーデルトンの顔を見つめた。およそ三年前、バイロンもエーデルトンと同じく声がしゃがれたことがあった。しかし、年長の幾人かの生徒を見てバイロンはそれが自分の体に訪れた一時的な現象だということを知っていた。勉学とスポーツに明け暮れる毎日の中、得意だったラテン語の詩の暗唱に一時期、授業中に指名されなくなったこととクリケットの打席で大声を出せなくなったことだけをバイロンは厄介に感じた。しかし、少年聖歌隊の主席歌手だったエーデルトンにとって、少年の音域で声を出せなくなったことは無邪気で明るい少年時代からの決定的な訣別を意味していた。バイロンは黙って渡された鎖を見つめた。鎖には小さなハート形の赤い石がついた小さな指輪がぶらさがっていた。
「母の形見なんです。僕の指にははまらないし、仲間に見られるとからかわれるので鎖に通して身に付けていました。紅玉です。安物かもしれませんが、僕の両親が手に入れることができたのはこんなものだけなんです。」エーデルトンは音程の定まらない声でこう言った。
「ありがとう。」とバイロンは言って部屋の中を振り返った。
「僕にも君にあげるものがある。でも、別れの贈り物だとは思いたくない。」こう言いながらバイロンは出版したばかりの詩集「懶惰の時」を手に取って部屋の中から出てきた。
「ありがとうございます。閣下の思い出に一生大切にします。」
こう言って詩集を受け取ったエーデルトンが今にも泣き出しそうだったので、バイロンはその肩に手をかけて言った。
「今日はお天気もいいし、馬に乗って外に出ようじゃないか。一年ぶりだよな。乗馬は忘れてはいないだろうね。」
二人は馬に乗ると黙って歩んだ。バイロンはわざと、もうじき夏になって大学生や聖歌隊の少年たちが歓声をあげて水遊びに興じることになるカム川のほとりを通り、森の木立を歩んだ。二人とも無言だった。野原に出る前にバイロンがエーデルトンに向かって尋ねた。
「で、聖歌隊を辞めてどうするんだ。」
「ロンドンに出ます。何か僕に出来る仕事を見つけることができると思います。」とエーデルトンは答えた。

(読書ルームII(74) に続く)

 

 

【参考】

紅玉はルビーのことで実際にバイロンがエーデルトンから受け取った指輪の石は紅玉髄(カーネリアン)だったようです。