黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(79) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  16/18 )

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バイロンはさらに磨きをかけて泥の匂いも消えた骸骨にわずかばかりの酒を注いで飲んでみた。バイロンが修道士のものだと信じている骸骨の器から唇にこぼれ落ちた酒の味はこころなしか苦かった。
「ヘンリー八世の娘、エリザベスが王位につき、その保護のもとでシェークスピアフランシス・ベーコンなどの文人が文化の華を咲き誇らせた。そして、一方ではヘンリー八世の勅令のせいであえなく潰えて忘れられていった中世の秋の担い手たちがいる。」


バイロンは中世の修道僧の姿にチャペルの聖歌隊の制服を身に付けたエーデルトンの姿を重ねあわせ、それからはっと気づいてその幻想を頭から追い払った。

「いけない。エーデルトンには未来があるのだ。」
しかし、エーデルトンに対する想いと憂鬱な幻想を振り切ることができず、バイロンは秋の夜な夜な、眠れないままにケンブリッジの仕立屋に作らせた黒ラシャの聖歌隊の制服を身につけ、完全に自分のものとなった屋敷の中を燭台も持たずにさまよい歩いた。


そのような夜がいく晩か続いた後、ある夜、バイロンが屋敷の中を徘徊しながら瞑想に耽っているといきなり後ろから強い力で誰かに腕と胴体を掴まれた。
「あっ、何するんだ!」
「やはり、坊ちゃんでしたね。」と答えてバイロンを押さえつけた腕を緩めたのはマレー老人だった。
「最近、夜中近くなると幽霊が出ると言った者がいるので、寝ずの番をしていたんです。全く、人騒がせな・・・。」
マレー老人の言葉にバイロンは我に帰った。
「じいや、僕は最近、いろんなことを考えてしまって、夜になっても眠れないんだ。」
「大学で勉強しすぎたせいじゃないですか?」
「さあ、そうじゃないと思う。」こう言いながら、バイロンはマレー老人を窓の側に引き寄せた。月が明るい晩だった。しばらく黙ってマレー老人とともに月を眺めた後でバイロンはこう言った。
「いつか、人間が月の上を歩く日が来るんだろうな。」するとマレー老人は「何をおっしゃっているんですか。月の上なんて鏡のようにつるつる滑って歩けやしません。それにどうやって月まで行くんですか。空を飛ぶ鳥だって月になんか行かないでしょう。」と答えた。バイロンは笑いながらマレーのほうを振り返った。
「月が僕達が住んでいる地球と同じで大砲の玉のような丸い形をしていると言っても信じないだろうね。でも、土星に輪があるというのは望遠鏡を覗いたことがなくても人から聞いて知っているだろう。地球が丸いということも船乗りから証拠になるようないろんな話を聞いてそうだと納得しているけれど、地球の外に出て地球から遠く離れたところから眺めてそう思っている人間は誰もいやしない。」
「坊ちゃんは物知りになられました。初めてお会いした時から賢い方だと思っておりましたが、今ではもう私がお教えするようなことはきっと何もありません。」
「そんなことはないよ。マレーの物知りには叶わないよ。でもね・・・。」といってバイロンはまた窓の外を眺めた。
「大切なことは挑戦することなんだ。試してみることなんだ。謎を解明していくことなんだ。鳥が空を飛ぶならば、人間だってきっと空を飛ぶことができると僕は思う。だったら、いつの日にか人間が月の上を歩くことだってあるだろう。」こう言いながらバイロンは頭の中につとめて明るい夢を描こうとした。エーデルトンが立派な大人になって健康にも家族にも恵まれ、自分が好きな仕事か世の中に役立つ仕事に精を出している姿を思い浮かべようとした。しかし、それがどうやって実現するかは、人間が月に到達する方法と同じでバイロンには想像することができなかった。


冬が訪れクリスマスの季節になり、名実共にニューステッドの主になったバイロンは母や何人かの知人と親戚を屋敷に集めた。成年貴族として認められる二十一歳の誕生日はあと一ヶ月に迫っていた。バイロンは一月始めに国会の会期が始まったら、是非最初の日から国会に出席したいので、二十一歳の誕生日はロンドンで祝うと宣言した。ロンドンでの誕生日パーティーにはバイロンの貴族としての生活や仕事を将来に渡って支えてくれそうな人々を招待しようとバイロンは思った。それから、バイロンはこうも考えた。
「そうだ、復活祭の休みにはまたここに戻ってこよう。自分のものになった屋敷に友達を何人か招待しよう。そしてその時にはみんなに僧服のような聖歌隊の制服を着せて、みんなでこの屋敷に今でも潜んでいる中世の精神に触れてみるんだ。」


冬が終わり、春が巡ってきた。バイロンが復活祭休み中に計画したニューステッドのパーティーに参加することになったのはホブハウスとマシューズでデービスは例年のとおり、教区牧師の父親を手伝わなければならないので来ることはできなかった。バイロンはデービスの代わりに別の級友のウェブスターを招待した。


参加者全員ががニューステッドに到着したその夜、バイロンケンブリッジの仕立て屋に頼んでさらに三着余計に作らせた黒ラシャの聖歌隊の制服を配って三人に服の上から羽織るように言った。そしてさらに集めた骸骨で作った杯をテーブルに並べると酒を注いだ。
「げっ、何を始めることやら・・・。」とホブハウスがうめいた。
「きれいに洗ってあるから平気さ。何だったら僕が全部の杯で最初に毒見をしてやってもいいぜ。」とバイロンは平然として言った。バイロンによる毒見を待つまでもなく、全員が髑髏で作った杯につがれた酒を飲み干した。
バイロンはマシューズのほうを向いて言った。
「どうですか、味は・・・。苦いか甘いか?」
「入れ物が何だって味が変るわけがないじゃないか。」とマシューズが答えた。
「そうですか?僕は中世の精神を飲み干してほしかったんです。」
「きれいに洗った後なら入れ物が髑髏であろうが何であろうが、化学的には同じ物質じゃないか。」
「化学的にはそうです。でも、僕のこの屋敷は中世に建てられた僧房で、ヘンリー八世に追い出された修道士たちの怨念がこもっているんですよ。」
「それがどうした?」

(読書ルームII(80) に続く)