黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(80) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  17/18 )

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「みなさん、先月僕は、『イングランドの詩人とスコットランドの批評家』を脱稿しました。去年の春から一年かけて全部で千行を越える長詩になりました。僕はこの詩の中でワーズワースやコールリッジを茶化したり今のいろんな政治情勢を皮肉ったりしていますが、僕がこの詩の中で真に意図しているのはウィルクスlxviii[7]が標榜した言論の自由を称えることだったんです。僕らは開かれた世の中に住んでいます。ウィルクスや彼の支持者たちの努力のおかげで、王権が制限され法律が尊重されるようになりました。僕らの社会には自由があります。でも、その自由は無償で手に入ったわけではありません。それが価値のあるものだと気づかなければ誰が命がけで自由を獲得しようとしますか?『イングランドの詩人とスコットランドの批評家』で僕は言論の自由の価値を訴えたかったんです。言論の自由がこの世の中から決してついえないように。そして、みなさんに僕の屋敷に来てわかってもらいたかったんです。自由がなかった中世の人々の閉塞された状況を・・・。」
「中世の人間は馬鹿だったから自由なんてものはてんで理解できないし自由を欲しいとも思わなかった。特にこの辺境の地で聖書どころか字もろくに読めないでいばりくさっていた修道士の連中はな・・・。そういうやつらの特権を廃止したヘンリー八世は偉かった。」
「そうでしょうか?合理精神を信奉するのも一つの感情で迷信を信じた中世の人々と人間の出来としては今の僕らとちっとも変わっていないんじゃないでしょうか?」
「人間は合理的にものを考えることによって利口になるし進歩するんだ。」
「でもねえ。ピタゴラスは三角形の定理を発見したけれど、期せずして同時に無理数も発見してしまった。そればかりじゃない。美しく整っているはずの自然界に循環するわけでもない、数字を使って決して完全に表記することのできない無理数という数が存在するということを彼やその弟子はひた隠しにしようとしたじゃないですか。自然界に無理数だけじゃない、円周率や自然対数の底や、整数を使って表記しえないような数が存在するということを認めることなしには後の数学は発展しなかったはずなのに、数が構成する合理性だけを頑なに信じるピタゴラス無理数の存在をひたかくしにして異端の宗教に陥ったのじゃないですか。」
無理数だって虚数だって、今の数学は体系に破綻をきたすことなしに取り入れているぜ。」
「だから・・・、僕らはピタゴラスよりも賢いと言いたいんですか?」
「だろうな。僕らはピタゴラスよりも賢い。地球が丸いということも、天体が太陽の周りを描く軌道が楕円だということも知っている。」
「地球がまっ平らだと信じるのも、ニュートンの数学を信じるのも変わらないと思います。」
「馬鹿言うな。大違いだ。」
「違いません。マシューズさんはいつか、ロンドンのイースト・エンドの貧民たちを見た後でアダム・スミスの神の見えざる手がどうのこうのおっしゃいませんでしたか?イースト・エンドのあの有様を見て神の見えざる手が存在するなんて本気で思っているのなら、魔女裁判をしたり迷信にこりかたまった中世の人たちとマシューズさんは全然変わらないということです。」
こう言いながらバイロン聖歌隊の時代とは雲泥の差があったロンドンでのエーデルトンの姿を思い出し、思わず黒ラシャの聖歌隊の制服の袖で溢れる涙を拭った。

「おい、バイロン、悪酔いしたな。やはり髑髏の杯で酒を飲んだせいだ。」
「いいえ、僕は悪酔いなんかしていません。」
「僕のほうは悪酔い気味だよ。やはり、酒の入れ物やら周りの雰囲気が影響するところは大だな。」
こう言うとマシューズはウェブスターの服の袖をつかんだ。
「今日は長旅で疲れているんだ。ホブハウスはここに来るのは初めてじゃないからそうでもないだろうけれど・・・。おい、ウェブスター、行こう。」
こう言って、マシューズは燭台をつかむとウェブスターと一緒に姿を消した。部屋の中にはバイロンとホブハウスがとり残された。二人ともに燭台を片手に握り、蝋燭の揺れる炎に照らされるお互いの顔を見つめた。


寝室に引き下がったマシューズやウェブスターのように眠気を認めたくはなかったが、歓談の種も尽きていた。
「静かになったな。」とバイロンが言い、手にしていた燭台を部屋の中央のテーブルの上に置くと聖歌隊の黒色の上っ張りを脱ぎ捨てた。ホブハウスもバイロンに倣って燭台をテーブルの上に置いて上っ張りを脱ぎ捨てた。「終にマシューズの強い影響から脱することができた。」とバイロンは思い、ホブハウスも同じことを感じているに違いないとも思った。

(読書ルームII(81) に続く)

 

 

【参考】

ワーズワース (ハテナ)

 

ワーズワース (ウィキペディア)

 

コールリッジ (ウィキペディア)

 

ウィルクス (ウィキペディア)

 

ピタゴラス (ウィキペディア)

 

無理数 (ウィキペディア)

 

虚数 (ウィキペディア)