黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(81) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  18/18)

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ケンブリッジでマシューズを待っているのは相も変らないライプニッツやら、マクローリンやら、オイラーやらだ。」とホブハウスが言った。
「ありとあらゆるものに数式を当てはめたいならそうすればいい。でも、僕はその考え方からは卒業した。」とバイロンは言って友人のほうを振り返るとゆっくりと噛んで含めるように言った。
「ロンドンで僕は見た。政治の上で代表権を持たない人たちの悲惨な暮らしを。そして、大陸ではナポレオンが自由、平等、博愛の精神を伝播しようと奮戦している。国会議事堂で衆議院貴族院での討議の様子も、傍聴席からだけではなく、貴族院では実際に議席に座って経験した。世の中はマシューズが信じているような調和が支配しているわけじゃない。僕は何か、僕にしかできないことをしたいんだ。でも、僕にはまだ、僕自身に何ができるのかわかっていない。」
「君は僕よりもずっと早く政界にデビューすることができる。君の頭脳と情熱はきっとあの爺さん連中で占められた貴族院に新しい風をもたらすに違いない。」
「でも、僕は具体的に何をすればいいのか全然わかっていない。」
バイロンがこう言った時、窓から吹き込んできた一陣の風が二人が燭台に灯った火を手で覆う間もなく、燭台の灯をかき消した。
「真っ暗になった。」とホブハウスが言った。
「いや、真っ暗じゃない。窓の外を見ろよ。ほら、月があんなに明るく輝いている。真夜中でも僕らに光を投げかける月や星があるんだ。今日は満月だが、僕は満月よりも三日月が好きだ。満月は欠けるしかない。三日月はやがて太る。僕らに夢と希望を与えてくれるのは細い月だ。」とバイロンが言った。
「そうだな。いくら月が明るいと言っても月明かりで本を読むことはできないしな。だったら星がよく見えるほうがいい。」とホブハウスが言った。そして二人は窓のほうに歩みよるとしばらく黙ったまま心地よい夜風に当たった。やがてホブハウスが言った。
「僕にとっては議会がイギリスの太陽だ。イギリスは真昼の明るい道を肩で風を切って堂々と歩んでいる先進国だ。僕らの議会は諸国の手本にならなくてはならない。僕ら進歩(ホイッグ )党員だけではなく、王党(トーリー)派の連中の中にもそう考えている者は多い。ただ、僕ら進歩(ホイッグ)党員は大陸への軍事介入が諸国の手本になるような褒められるべきことではないと確信している。僕らイギリス人には国内で解決しなければならない問題が山ほどあるのに・・・。」ホブハウスはこう言うと一旦沈黙した。しかし、すぐに後の言葉を続けた。

「僕らは外国をもっとよく知りたいんだ。僕は幸いにして金持ちの家に生まれた。君と違ってすぐに国会議員になって政治の場で活躍することはできないが、僕は将来、政治に関わるようになった時のために外国の人々の考え方について見聞を広めたいんだ。あれを見ろ。」と言ってホブハウスは夜空を指差した。
「月が明るいからよくは見えないが、星に名前をつけたのは、星座を考えたのは誰だ?ギリシア人だ。彼らは今、オスマン・トルコの支配下にいる。民族としての自らの進路を自分達で決定できない隷従の地位に甘んじている。彼らは僕らイギリス人と違って夜の闇の中にいるようなものだ。それでも、彼らだって月を仰ぐことはできるし、自分達の祖先が名付けた星座の星を夜空にたどることもあるだろう。」
「灯火を掲げることもあるだろうな。」とバイロンが言った。ホブハウスはバイロンのほうに向き直って言った。

「そうだとも。僕はその灯火がどんなものなのか知りたいんだ。」
「旅に出よう。」とバイロンが言った。
「旅に出よう。」とホブハウスは友人の言葉を繰り返した。「フランスやイタリアで演劇や名画を鑑賞しながら外国語の会話力を磨くようなそんな優雅な卒業旅行(グランドツアー)じゃない。僕らは夜の闇の真っ只中にいる諸国民の苦悩や希望を知るために旅をするんだ。」
「旅に出よう。」とバイロンはうなずきながら同じ言葉を繰り返し、ホブハウスは月明かりに照らされたバイロンの彫りの深い横顔を見つめた。

 

バイロンとホブハウスが漆黒の闇に包まれた室内のほうに同時に向き直り、バイロンが左右不均等な第一歩を踏み出した時、バイロンの右手はホブハウスの右肩の上に、ホブハウスの左手はバイロンの左肩の上に置かれ、暗闇の中でお互いの存在をしっかりと確かめ合っていた。

(第七話 レディー・キャロライン に続く)