黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(70) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  7/18)

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早朝にケンブリッジを立った一行は暗くなる前にロンドンに到着した。ホブハウス家のロンドン邸でそれぞれの部屋をあてがわれ、自家用馬車の御者を務めたバイロンの従者も身分相応の寝室をあてがわれ、バイロンは他の三人とは異なって興奮していた。ロンドンは初めてではなかったが、今までにロンドンを訪れた際には父親のような執事のハンソンがいつでも付き添い、自分の兄弟のように感じているハンソンの三人の息子たちはそろってバイロンよりもロンドンの事情に詳しかった。
「明日から何をしようか?」とバイロンは興奮を隠しながら他の三人に尋ねた。
「まず、書店に行ってギリシア・ローマの古典の新しい注釈書をあさることだ。」とデービスが言った。
「それから最近、いろんな民族の文化遺産、つまり絵画や彫刻を戦火が収まった地域や時には戦火が収まっていない地域からも、持ち帰って私設のギャラリーで展示するものがいる。行ってみて損はないぜ。」とホブハウスが言った。
テームズ河での水泳は?」とバイロンが尋ねるとマシューズが「カム河と違って水温が低いから晴れた日の午後だな。」と答えた。二週間の滞在期間中に見物すべきものや経験すべきことについての歓談は尽きなかった。


翌朝、朝食の席でホブハウスは使用人に買いにやらせた新聞をしたり顔で広げ、大陸で展開されているナポレオンを相手取った戦いや海洋を制覇しつつあるイギリス海軍の動き、そしてイギリス各地で起きている怠業や工場設備打ち毀しの知らせを解説してみせた。衒学者で年長のデービスとマシューズはたいして興味をそそられた様子もなくホブハウスの話を聞いていたが、バイロンは喜んでホブハウスの話に耳を傾けた。ロンドンはイギリス内外で繰り広げられているこういった出来事が最初に英語で伝えられる場所であり、議会と国王のお膝元からそれらに関する決定がなされる場所だった。


朝食の後で四人は揃って外出し、ロンドンに明るいホブハウスの案内でいろいろな場所を散策したが、昼食が終わり一行がロンドンで最も大きな書店を目差して歩き始めた時にデービスが「僕は自分の用があるから。」と言って踵を返して反対方向に向かって歩き始めた。マシューズがバイロンに向かって目配せしたがホブハウスは「デービスはロンドンの地理に明るいから。」と言ってさしてさして気にも留めていなかった。

 

ウエストミンスターにある大きな書店の輸入本のコーナーでマシューズはドイツから輸入された本を指さしながらバイロンに言った。
「フランス語の次はドイツ語を勉強するんだろうな。」
「考えています。」とバイロンは答えたが内心は定かではなかった。バイロンは同年輩の若者たちに倣ってゲーテの「若きウエルテルの悩み」などを英訳で読んでいたが、現王室の父祖の地で旧態然としてた古い封建制度が残され、イギリスと手を結んでナポレオンを包囲しようと画策しているプロシア、そして由緒あるハプスブルグ王家を君主として仰ぎ、旧態然としてやはりナポレオンに対立しているオーストリアが好きになれなかった。
「いいか。ライプニッツニュートンの考え方を受け継いで微積分学を完成させただけじゃない。彼は偉大な思想家でもあった。合理主義を理解するためにはドイツ語を学ぶことが不可欠なんだ。」こういってドイツ語の書籍を顔を突っ込むようにして読み始めたマシューズにバイロンは何とも返事をしなかったが、マシューズが何冊かの本を選んで代金を払いに立ち去った時、バイロンは興味が湧かないままに手に取ったドイツ語の書籍を棚に戻し、イタリア語の書籍の棚に向かった。そして棚に並べられた皮装の背表紙に金文字で本の題が書かれたダンテの「神曲」、ペトラルカの「カンツォネッテ」などを眺めて深いため息をついた。
「僕は古代ローマ文化の担い手でかつルネッサンスを生み出したイタリア人の言葉を習いたい。合理主義なんてつい最近になって生まれた思想よりもそれを生み出した元々の原動力を探りたいんだ。」
バイロンはこう呟き、今度はこの書店に自分一人で来るか、あるいはホブハウスだけを伴って来なければならないと思った。


ロンドンに到着して三日目に、どこへともなく姿を消して夜になるとホブハウス邸に戻ってくるデービスについでしばらくの間没頭できるだけの十分な書籍を買い込んだ勉強家のマシューズが、歴史や文学に対する関心から夜はシェークスピア劇に赴くバイロンとホブハウスの二人から離れて一人で行動するようになり、バイロンとマシューズがテームズ河で泳いだのはロンドン到着後五日目だった。バイロンとマシューズは着替えや古い毛布を積んだ二頭の馬を引くバイロンの従者のフレッチャーと冷やかしが目的でついてきたホブハウスとともに両院議事堂を左手に望むテームズ河の川べりに到着し、平民の男が猟に出かける時に穿くような膝までのズボンを身につけ、両腕を体の前で交差したり足腰を曲げたりして体を温めた。


「カム川では底にあるもやもやした水草のようなものに足を取られる者がいたんです。ここでは大丈夫でしょうか?水草のようなものではなくて鉄でできたものや木でできたもので足を傷つけやしないかと心配です。」とバイロンテームズ河の濁った水面を見つめ、カム川で溺れかけたエーデルトンを助けた時のことを思い出して言った。
「河の真中はかなり深いし、深くないところに落ちた鉄や木でできたものは物資の運行のじゃまにならないようにちゃんと引き上げているから大丈夫だよ。心配だったら立ち泳ぎはせずに平泳ぎだけで泳ぐんだな。」とマシューズは答えた。

(読書ルームII(71) に続く)

 

 

【参考】

ゴットフリート・ライプニッツ (ハテナ)

 

ゴットフリート・ライプニッツ (ウィキペディア)