黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(74) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  11/18 )

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のどかな田園風景を望む小高い場所に来た時、バイロンは馬を繋ぐことのできる木と座ることのできる草地を見つけて馬を下りた。エーデルトンもそれに倣った。草地に腰を落ち着けてからしばらくの間、二人とも無言だったがやがてバイロンがエーデルトンに向かって尋ねた。
「エーデルトン。二年前の夏に何が起きたか覚えているか?」
「覚えています。水の底まで沈んで水の底を蹴ろうとしたんです。でも足に何かが巻きついて、水の底に足が届かずに水の底を蹴ることもままならず、浮かび上ることもできませんでした。僕は水を飲んだのだと思います。誰かが後ろから差し出した棒のようなものが僕の腕に触れました。助かったと思い、気が遠くなりました。気がついたら僕は後ろから閣下(ロ ー ド)の腕に抱かれていました。閣下は乾いた布で僕の体を一生懸命擦ってくださっていました。」
「僕と君は誕生日が同じじゃないか。君のほうが僕よりもかっきり二年後に生まれたけれど。」
「そうです。閣下と僕とは偶然、誕生日が同じです。」
「それに僕らは両方とも、十歳の時に大きな転機を経験している。僕は大伯父が亡くなって男爵の位を継ぎ、君は両親を失って聖歌隊に入り、それからは自分の人生を自分で切り開かなければならなくなった。」
「はい。」エーデルトンはこう言うと大きな瞳でバイロンを不思議そうに見つめた。バイロンはエーデルトンを見つめ返すと言った。
「僕は君との出会いが偶然だとは思わない。神によって定められていたとしか思えないんだ。だから僕は君の将来に役立つことを何かしたいんだ。どうだろう、僕がほんの少しだけれど、君に月々お小遣い、お小遣いが子供っぽく聞こえて嫌なら奨学金を渡すというのは。お金があれば意に染まない仕事にすぐに飛びつく必要がなくなって君は自分が本当にやりたい仕事を時間をかけて探すことができる。」
エーデルトンは首をかすかに横に振りながら黙って聞いていたが、バイロンが話し終わると言った。
「閣下(ロ ー ド)。僕は閣下のことを命の恩人としてお慕い申し上げておりますし閣下のご好意にはいつでも感謝しております。でも、そんなご好意に甘えるわけにはいきません。お気持ちだけで十分です。」
「じゃあ、僕の好意は受け取ってもらえないのか。僕は君に何かしてあげたいのに・・・。」バイロンはこう言うと黙って目の前に広がる初夏の景色を見つめた。そして長い沈黙の後でようやくエーデルトンに向かって言った。
「エーデルトン。変に聞こえるかもしれないが、僕には君がいとおしくてたまらない。僕が君の命を救ったからだ。君に対して恩着せがましくするためにこう言っているんじゃない。多分、君は僕のことを恩着せがましく厄介に思い始めているのだろうが・・・。」バイロンがこう語るとエーデルトンは激しく首を左右に振った。バイロンは続けた。
「いや、構わないんだ。今、君が僕のことを厄介に思っても。でも、きっと君にもわかる時が来る。そのうちに一人前に仕事をするようになり、結婚して子供ができたら、君は血を分けた自分の子供と子供を産んでくれた妻に対して、僕が今、君に対して感じているのと同じ気持ちを抱くようになるんだ。だから今、君が僕のことを厄介に感じるのは一向に構わない。ただ僕は君に立派な大人になって、幸せになってもらいたい。それだけだ。さあ、行こう。」
こう言うとバイロンはエーデルトンの腕をつかんで立ち上がらせ、二人で馬に乗ってケンブリッジの街へと通じる道を並んでゆっくりと馬を進めた。自分から去って行くエーデルトンにバイロンはロンドンから戻った後に再会したマシューズを重ねた。詩集「懶惰の時」をマシューズに渡した時、「遁走詩集」の時とは異なってマシューズは何も言わなかった。その後、出会ってもマシューズが新しい詩集のことに触れることはなかった。図書館で出会ってもマシューズは数学の公理に没頭し、もはやバイロンに数学の問題を解くことを強要することもなかった。
「ロンドンに着いたらすぐに住所を教えてくれたまえ。僕もいろんな用事や勉強でまたロンドンに行くと思う。」とバイロンが言った。
「はい。是非そうします。」とエーデルトンは答えた。しばらくしてエーデルトンはケンブリッジから去っていった。


もう一度盃(さかずき)を満たせ!僕の心の芯を照らす、
こんな輝きをいまだかつて感じたことはない。
さあ、飲もう!飲まない者がいようか?
人生は曲折に満ちるが、杯の中に誤謬はない。


青春の日々、心は泉と夢に浸り
愛は決して心から飛び立ちはしない
僕には友がいる!友のない者がいようか?
しかしどんな言葉が君に勝る薔薇色の酒の忠節を語れようか?
---------------
パンドラが地上で禁断の箱を開け、
苦難が快楽にとって代わった。
しかし、希望が箱に残った。そうじゃないか?
盃に口づけし、希望には構うな。希望は確かにあるのだから。


葡萄の実に乾杯!夏の陽は飛び去り
熟成した神酒(みき)が我らの成熟を祝う
われわれはいつか死ぬ。死なない者がいようか?
我らが罪が許され、青春の女神lxvi[5]が天上で 暇(いとま)なく働かんことを!

「もう一度盃(さかずき)を満たせ!(1809)」より

(読書ルームII(75) に続く)

 

 

【参考】

 

FILL THE GOBLET AGAIN. [i] A SONG.

I

Fill the goblet again! for I never before
Felt the glow which now gladdens my heart to its core;
  Let us drink!—who would not?—since, through life's varied round,
  In the goblet alone no deception is found.

III
In the days of my youth, when the heart's in its spring,
  And dreams that Affection can never take wing,
  I had friends!—who has not?—but what tongue will avow,
  That friends, rosy wine! are so faithful as thou?
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VII

When the box of Pandora was open'd on earth,
  And Misery's triumph commenc'd over Mirth,
  Hope was left,—was she not?—but the goblet we kiss,
  And care not for Hope, who are certain of bliss.
VIII

Long life to the grape! for when summer is flown,
  The age of our nectar shall gladden our own:
  We must die—who shall not?—May our sins be forgiven,
  And Hebe shall never be idle in Heaven.

 

バイロンの詩の和訳は名だたる英文学者や英語が堪能な詩人によるものが岩波文庫などから出ています。様々な心情に合う詩が必ず見つかると思いますので一読をお勧めします。なお、バイロンの殆どの詩の原文はProject Gutenbergなどから無料で入手できます。