黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(68) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  5/18)

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「ハロー校ではシーツで天井に放り上げるのが新入生の洗礼式の遣り方でした。僕は面白かったので怖がる新入生のぶんまで買って出ました。」
「女々しい詩を書いて、書くだけじゃなくて本にしてみんなに配ったりする上に、聞いたところによると、女か男がわからないような裾の長い服を来たやつが君の部屋に出入りしているというじゃないか。」
「裾の長い服って、聖歌隊の制服の、もちろん男です。」
ケンブリッジ大学は若様連中の社交場に成り果てたか・・・。いや、馬鹿殿様なら何をやったって僕は何も言いやしない。でも君には人並み外れた知性があると睨んだから言うんだ。こんなことで時間と労力を費やすのは止めろ。君はもっと価値のあることに時間を費やすべきなんだ。」こう言いながらマシューズはホブハウスの背中に手を回すとホブハウスが隠し持っていた「遁走詩集」を取り上げるとバイロンの目の前に突きつけた。マシューズが言っていることを聞きながらバイロンの顔は赤くなったり青くなったりした。
「マシューズ、詩がくだらないなんて、そんなこと言うなよ。ホラチウスを読んだことないのか?わが国でもシェークスピアとかミルトンとかドライデンとか、立派な詩を書いた詩人が大勢いるじゃないか?」とデービスが言った。
「そのとおりです。詩を書くことは尊敬されてしかるべき行為です。」とホブハウスが言った。
「女々しい詩を書くこともか?シェークスピアは劇作家兼役者だったが暇な時は詩も書いた。ミルトンは失明したから他にやることがなくて詩を書いた。ドライデンは・・・。」
マシューズが言い終わらないうちにバイロンは大きな目に涙を溜め、唇を噛むと踵を返し、三人を後にして歩み去ろうとしていた。ホブハウスは慌ててその後を追いながら言った。「おい、バイロン、気にするなよ。」そしてバイロンに追いつくとバイロンの前に立ちふさがって声を潜めて言った。「マシューズはちょっとおかしい。多分聖歌隊の、何て言う名前だったっけか、溺れかけたところを君が救った何とかいう少年が君の部屋に出入りするんで嫉妬しているんだ。」
バイロンはホブハウスを振り切って歩き始めると肩を怒らせ、普段よりもひどくびっこをひきながら無言のまま早足で寮へと急いだ。バイロンと共に暗くなりかけた寮の部屋に入り、後を追ったホブハウスがバイロンの部屋に入った時、バイロンは暖炉の前に腰を下ろし、暖炉に投げ込んだ乾いた小枝や枯葉に蝋燭で火をつけているところだった。そして暖炉に火が起きると立ち上がり、ホブハウスには目もくれずに部屋の隅に積んであった出版したばかりの小冊子の山を抱えて暖炉の前に運んだ。バイロンの頬に涙が流れていた。
「おい、せっかく出版したのに燃やすなんて、そんなもったいないことするなよな。」とホブハウスが止める間もなく、バイロンは「遁走詩集」を一冊ずつ手に取っては炎の中に放り込み始めた。


「一冊は取っておけよ。僕は君がくれた『遁走詩集』を一生大切にするからな。」
「お願いだから破り捨ててくれ。」とバイロンは泣き声で叫んだ。
「いや、決して捨てはしない。」ホブハウスはこう言い、しばらくの間、小冊子を暖炉に投げ込んではめらめらと上がる炎を見つめるバイロンを部屋の隅の柱にもたれてたたずむホブハウスは黙って見つめた。床の上に積まれた小冊子の数が残り少なくなってきた時にホブハウスは再びバイロンに声をかけた。
「なあ、バイロン。君はマシューズに女々しいと言われたから気にしているんだろう。別の人間に言われたのなら気にしなかっただろう。」
バイロンは答えなかった。ホブハウスは続けた。
「マシューズは公理だの方程式だのに明け暮れている男だ。見てくれも態度も立派な、男にも女にも好かれるやつだ。でも親父と同じ政治家を目差している僕から見れば学問の世界での野心に凝り固まって自分の専門分野のことしか眼中にない偏屈だ。もっといけないのは、彼が君に首ったけになっていて、自分にとっての関心事の公理だの方程式だの以外のことに君が目を向けるのを許せないということなんだ。一番いけないのは、はっきり言わせてもらうが、君もマシューズに首ったけになっているということだ。君はマシューズに気に入られたいんだ。そうだろう。だからマシューズに詩集を批判された時に君は耐えられない思いをしたんだ。でも、マシューズはただ単に君が詩を書くのが気に入らない。そして君の詩作をじゃまする自分勝手だが十分な理由があるんだ。」こう言うとホブハウスは黙った。暖炉の中に投げ入れられたばかりの冊子がまためらめらと炎を上げ、その炎はやがて小さくなっていったが、バイロンは今度はすでに数冊しか残っていない冊子の山から新たな一冊を取って暖炉に投げ入れることもなく、小さくなっていく炎を見つめていた。


「だからさ、悪いことは言わないから、一冊は取っておけよな。君の初めての詩集がこの世から一冊もなくなってしまったらきっと後悔するぜ。何たってこれは君の一里塚(マイルストーン)なんだから。もちろん、僕だって持っているし、他の何人かの連中だって君の『遁走詩集』を持っている。でも僕は君の『遁走詩集』を大切に取っておきたいから、君に渡して焼かれたり破られたりしないという保証がない限り、君に渡すわけにはいかない。君はこの先、詩作においても、その他のことにおいても、遠くて長い道のりを歩むことになるだろう。何千マイル、何万マイルの道のりを歩むのかわからないが、誰がどう言おうと、この詩集は間違いなく君の記念すべき最初の一里塚(マイルストーン)なんだ。だから、せっかくの詩集を暖炉にくべるのは止めろ。」ホブハウスがこう言うとバイロンは振り向いてホブハウスを仰ぎ見た。バイロンの頬の涙はすっかり乾いていた。バイロンは静かに言った。
「ありがとう。ここに残っているだけなら取っておいて邪魔にならないから、これだけ取っておくことにする。」

(読書ルームII(69) に続く)

 

 

【参考】

ホラチウス/ホラティウス  (ウィキペディア)