黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(39) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  3/18)

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「僕は体で風土(ク ラ イ ミ ッ ト)を感じることができる。ほら、大学にいた頃、夏になるとテームズ河でよくやったじゃないか。泳ぐことだ。」
こう言うとバイロンは勢いよく立ち上がるとフレッチャーがテーブルの脇に置いた包みを抱えて姿を消し、この様子を見たフレッチャーはロバートに何か耳打ちした。
「おい、まさか、本当にやるんじゃないだろうな・・・。」とホブハウスはバイロンが泳ぎが好きなことを知っているのでうろたえた。ホブハウスが皿の上に残った鰯を口に突っ込んでポート・ワインで咽喉に流し込み、ナプキンで口を拭っている間にバイロンが、アポロン神が狩猟に出向く時はかくやと思わせるような腰に布を纏った上半身裸の姿で現われた。彫りの深い顔立ちと隆々とした上半身、ただ一点、びっこをひいて歩いているということだけが人々があまねく想像するアポロン神と異なっていた。
「おい・・・冗談はよせ・・・。」
ホブハウスが止める間もなく、バイロンは脱いだ衣類をフレッチャーの膝の上に投げ出すと食堂のすぐ外にある 艀(はしけ)がつける埠頭に腰を下ろして足を水につけ、手で二、三度水をすくって体にかけるとドボンと水に飛び込んだ。
「ホブハウス。水の中は本当に気持ちがいいぞ!」
バイロンは水の中から快活に叫んで手を振ったが居酒屋の入り口にいるホブハウスはただうろたえるばかりだった。
「おい、フレッチャー、ロバート、閣下(ロード)から目を離すんじゃない。陸づたいに追いかけるんだ。僕もすぐに行く。」
こう叫ぶとホブハウスはまたもや慣れない為替変換で法外な料金と酒手(チップ)をテーブルの上に置くと河上に向かって気持ち良さそうに泳いでいるバイロンの姿を追った。頭を見え隠れさせながらバイロンの姿が旧市街の中を流れる河を過ぎ、ベレム塔の廃墟が視界に入るようになった頃、河岸に大勢の人間が集まってきた。人々は口々にポルトガル語で何か叫んでいたが、ホブハウスには一言も
理解できなかった。
「外国人なんだ。外国人(エトランジェ)・・・。これはフランス語だな・・・マルタ島行きが急にリスボン行きに変更に なった から ポルト ガル語 なん て全然 わかり ゃし ない。 ありがとう、 ありがとう、ありがとう(オ ブ リ ガ ー ド、オ ブ リ ガ ー ド、オ ブ リ ガ ー ド)・・・。どうしたらいいんだ・・・。あっ、イギリス兵だ・・・。助けてください。」
河岸に集まってきた土地の人々のただならぬ気配にホブハウスは気が動転し、河で泳ぐバイロンを陸で手を振り回しながら追っていたが、河沿いの道をゆっくりと歩いていたイギリス兵を見とがめると踵を返して歩み寄った。
「僕の友人があまりに暑いので河に飛び込んだんです。泳ぎは得意なんですが、この河で泳いでいる人間は他に誰もいないし、何だか大変なことだと言わんばかりに周りでポルトガル人達が騒いでいるんです。彼ら、一体何を叫んでいるんですか?」
イギリス兵はうろたえながら英語で訴えているホブハウスと河の中で心地良さそうに泳いでいるバイロンを交互に見つめると言った。
ポルトガル人たちが叫んでいるのは『馬鹿』とか『気違い』とか『止めろ』とかだ・・・。もう三十分もすれば干潮が始まって、どんなに泳ぎが達者でも潮流で河口まで押し流されてしまう。艦船から 艀(はしけ)で物資を運ぶ時なんかも潮の流れに気をつけないと骨が折れるばかりなんだ・・・。」
こう言うとイギリス兵は銃を構え、水の中のバイロンに向かって英語で言った。
「よせ!今すぐ陸に上がれ。」
バイロンは英語によるこの指示が聞こえたのか聞こえなかったのか気持ち良さそうに泳ぎ続けた。
「聞こえないのか!今すぐ陸に上がれ。軍の命令だ。」こう言うとイギリス兵は空に向けて銃を発射した。さすがのバイロンも血相を変えたのが遠目にわかった。
「イギリス国民ならイギリス軍の命令に従え。今すぐ、陸に上がれ。河で泳ぐのは危険だ。」
イギリス兵がこう言って銃口バイロンに向けたのでバイロンはしぶしぶ陸に向かって泳ぎ始めた。埠頭に着いたバイロンフレッチャーとロバートが手を貸して陸に上がるのを助けた。
「全く、こうるさいやつだ。」とバイロンはいつもどおりびっこをひき、ロバートが差し出した布で頭髪を拭いながら言った。
「あのアイルランド男が嫌いなら、親切に泳ぎを止めさせたアイルランド男の部下のそのまた部下までも嫌いなんだな・・・。」とホブハウスが言った。
河に飛び込んだ向こう見ずな外国人を見に集まった野次馬たちは三々五々解散していた。ただ、バイロンの一行と同じ方向に歩むポルトガル人だけが上半身裸のバイロンの姿にもの珍しそうな視線を投げかけてはいたが、上半身が乾いてロバートが差し出した上着バイロンが羽織ったころには一行を気に留める者は誰もいなくなっていた。
「何が親切だ・・・やつは僕に銃口を向けたんだぞ。」とバイロンはふてくされて言った。せっかくの心地よい泳ぎを銃で脅されて止めさせられ、バイロンは不服そうだった。

 

翌日、バイロンとホブハウスは英仏両軍の折衝が行われたシントラへ向かう途上の馬上で議論を重ね、これからの行動を決定した。戦闘に巻き込まれないこととスペイン国内で起きていることを確かめること、この二点に適した行動と行路は主な荷物を船でジブラルタルに送り、身軽な騎馬でスペインとイギリスの連合本部が設営されたというセビリアを経由して地中海沿岸に向かうことだということに意見が一致した。

(読書ルーム(40) に続く)

 

 

【参考】

シントラ (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9?wprov=sfti1