黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(8) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第一話 レマン湖の月 (一八一六年夏 スイス 8/17)

このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

バイロンシェリー、そしてメアリーの三人、時折間の抜けた横槍を入れるポリドリを含めた四人はよく自由思想について語った。そして、話題はスイスが生んだ偉大な自由主義思想家ジャン・ジャック・ルソー、そしてこの地で執筆に専念したイギリス人の歴史家ギボン、ナポレオンの反感を買ってヨーロッパを放浪した文筆家スタール夫人などに及んだ。そして二つのグループの長であるバイロンシェリーはある点で一致を見ていた。それは数々の重要思想の揺籃の地であるジュネーブを単にイタリア行きの通過点とするのではなく、思想発祥の地の秘密を探るための時間を費やすということだった。季節は夏に向かっていたのでイギリス人には不慣れな、夏のイタリアの呵責ない太陽にすぐに曝されるよりもこの清涼の地で勉学や詩作に励むことが生産的であるという意見の一致もみた。


こう決まった時からバイロンシェリーはホテルよりも滞在費用が安く食事などの自由もきく長期滞在用の家を探し始めた。まもなく、バイロン一行はジュネーブ湖を見下ろす高台の上に立つ、十七世紀にイギリスの詩人ジョン・ミルトンが滞在したという古い石造りの家を、シェリーの一行はそこから歩いて十分ほどのジュネーブ湖に面した家を借りることができた。


ジュネーブ湖、通称レマン湖のほとりにバイロンシェリーの一行が落ち着いてしばらく後、文学を巡る考え方など、様々な点で一致をみて打ち解けたバイロンシェリーは女たちと赤ん坊、バイロンの年長の従者のフレッチャー、そして女よりも女々しい「ポーリー人形ドーリーちゃん」を後に残し、年少の従者のロバートだけを従えた三人連れで、小型の帆船を水夫ごと借り切り、レマン湖を一周する旅に出立した。


沿岸の都市の見物になるべく長い時間を費やせるよう、バイロンは水夫たちに三人が見物を終える夕からホテルに宿泊する夜までの間か、あるいは順風の時に限って東西に細長いレマン湖の岸を遠く望みながら移動するように指示し、ほとんどの場合、小回りのきく手漕ぎボートで沿岸に沿って移動した。ボートの漕ぎ手はバイロンとロバートだった。痩せて筋肉も乏しいシェリーはオールを任されてもすぐに息をきらせた。三人の中で一番屈強な漕ぎ手はバイロンだった。


「古典に錬金術の本か・・・部屋にこもってばかりいると筋肉もつかずにやせ細る。」とバイロンが言うとシェリーは「僕は船を漕ぐのがこんなにたいへんなことだとは思ってもみませんでした。」と答えた。
「どうだ、この機会に泳ぎ方を覚えるのは・・・。」とバイロンは奨めたが、シェリーが「結構です。僕は興味ありません。」と言ったのでそれ以降、バイロンは何も無理強いはせず、ボートの漕ぎ手はバイロンとロバートだけになった。


湖畔のホテルに宿泊する際、所持金にあまり余裕がないシェリーががっかりしたことに、バイロンはいつでも「貴族の対面」を理由にして一人で部屋を取った。ただし、ロバートはいつでも必要があればバイロンの世話ができるように同室内の控え室で休むことになっていた。ホテルのゲスト・ブックに記する際、シェリーはいつでも自分の名前の後に、あたかもそれが自分の唯一の肩書きであるかのように「無神論者」と書き加えた。


「全く困ったやつだ。」とバイロンは苦笑いした。「しかし子供のように無邪気でかわいい。」
風光明媚なレマン湖畔の風景を楽しみながら、ロバートが櫂を握っている時には当然のごとくに文学、特に詩がバイロンシェリーの間で話題になった。

 

「閣下(ロード)、閣下の詩、特に『ハロルド卿の巡礼』の第一巻と第二巻は何度も繰り返して読みました。閣下の詩はとても知的です。夢や希望を僕たちにもたらしてくれます。外国を旅してその土地の風
景や風俗を描き、その国の文化や風土や歴史や民族の理想をこれほどよく理解して作品に盛り込むことができるなんて、すばらしいと思います。でも、僕は閣下とは対照的な湖畔派の詩にも惹かれていて、彼らの詩からも多くを学びました。湖畔派の詩人は自然をありのままに描写します。彼らは自然と一体になっています。風景や風俗に理想や夢を投射する閣下とは違った意味で僕のお手本になっています。閣下(ロード)は描写の対象に向かい合うだけではなく、対象と一体になった作品を書くおつもりはないのですか?」


シェリーにこのように鋭い質問を投げかけられても、その年の初め以来いろいろな悩み事で疲れ果てていたバイロンにはすぐには返す言葉が思い浮かばなかった。ただ、バイロンは「湖畔派」と言われるワーズワース、コールリッジ、サウジーの三人の生き方が嫌いだった。特にその中心であるワーズワースがフランス大革命の際の急進的な姿勢を捨てて自然を受動的に描写する詩人に変貌したことはバイロンにとって許しがたかった。そこでバイロンはこう答えた。
「かつて外国を旅した時、ベルギーの港からここへ来るまでの道中でもそうだったけれど、僕はい
つでも人間の生活の形跡を探ろうとした。かつて生きた人間でも、今現在生きている人間でもいい。僕は君と違って無神論者ではないが、人の生命の次元を超えたもっと高いものには関心がなかったのかもしれない。でもルソーの自然人に対する希求がよりよく理解できるようになったら僕の詩風も変るだろうな・・・。」
「私は独りで雲のように彷徨(さま)ったi[1]。」とシェリーがワーズワースの詩の冒頭を口ずさんだ。
「谷や丘の上高く流れる雲のように・・・。」とバイロンが次の行を口ずさんだ。

(読書ルームII(9) に続く)

 

【参考】